University of Virginia Library

一〇 前島より興津

 前島の宿をたちて、岡部の今宿をうちすぐるほど、かた山の松のかげに立ちよりて、かれいひなど取りいでたるに、嵐すさまじく梢にひびき渡りて、夏のままなる旅ごろも、薄き袂も寒くおぼゆ。

これぞこの頼む木のもと岡べなる
松のあらしよ心して吹け

 宇津の山を越ゆれば、つたかへでは茂りて、昔のあとたえず。かの業平が、修行者にことづてしけんほどは、いづくなるらんと見ゆくほどに、道のほとりに札を立てたるを見れば、無縁の世捨人あるよしを書けり。道より近きあたりなれば、少し打入りて見るに、わづかなる草の庵のうちに一人の僧あり。畫像の阿彌陀佛をかけ奉りて、淨土の法文などを書けり。その外にさらに見ゆるものなし。發心の始めを尋ねきけば、我が身はもとこの國の者なり。さして思ひはなれたる道心も侍らぬうへ、その身たへたるかたなければ、理を觀ずるに心くらく、佛を念ずるに性ものうし。難行易行の二つの道、ともに缺けたりといへども、山の中に眠れるは、里にありて勤めたるにまされるよし、ある人の教へにつきて、この山に庵を結びつつ、あまたの年月を送るよしを答ふ。むかし、叔齊が首陽の雲に入りて、猶三春の蕨をとり、許由が頴水の月にすみし、おのづから一瓢の器をかけたりといへり。この庵のあたりには、ことさらに煙たてたるよすがも見えず、柴折りくぶる慰めまでも思ひたえたるさまなり。身を孤山の嵐の底にやどして、心を淨域の雲の外にすませる、いはねどしるく見えて、なかなかあはれに心にくし。

世をいとふ心の奧やにごらまし
かかる山邊のすまひならでは

 この庵のあたり幾ほど遠からず、峠といふ所にいたりて、大きなる卒塔婆の年へにけると見ゆるに、歌どもあまた書きつけたる中に、「東路はここをせにせん宇津の山あはれも深し蔦の下道」とよめる、心とまりておぼゆれば、そのかたはらに書きつけし。

我もまたここをせにせん宇津の山
わけて色あるつたのしたつゆ

 なほ打過ぐるほどに、ある木陰に、石を高く積みあげて、目にたつさまなる塚あり。人にたづぬれば、梶原が墓となむ答ふ。道のかたはらの土となりにけりと見ゆるにも、顯基中納言の口ずさみ給へりけん、「年々に春の草のみ生ひたり」といへる詩、思ひいでられて、これもまた古き塚となりなば、名だにも殘らじと、あはれなり。羊太傳が跡にはあらねども、心ある旅人は、ここにも涙をやおとすらむ。かの梶原は、將軍二代の恩に驕り、武勇三略の名を得たり、傍に人なくぞ見えける。いかなることにかありけん、かたへの憤ふかくして、たちまちに身を亡ぼすべきになりにければ、ひとまどものびんとや思ひけむ、都のかたへ馳せのぼりけるほどに、駿河の國、きかはといふ所にてうたれにけりと聞きしが、さはここにてありけるよと、あはれに思ひ合せらる。讃岐の法皇、配所へ赴かせ給ひて、かの志度といふ所にてかくれさせおはしましける御跡を、西行、修行のついでに見まゐらせて、「よしや君むかしの玉の床とてもかからむのちは何にかはせん」とよめりけるなど、うけたまはるに、まして、しもざまの者のことは申すに及ばねども、さしあたりて見るには、いとあはれにおぼゆ。

あはれにも空にうかれし玉ぼこの
道のへにしも名をとどめけり

 清見が關もすぎうくて、しばしやすらへば、沖の石、むらむら、潮干にあらはれて波にむせび、磯の鹽屋、ところどころ、風に誘はれて煙たなびけり。東路の思ひ出ともなりぬべきわたりなり。むかし、朱雀天皇の御時、將門といふ者、東にて謀反おこしたりけり。これを平げんために、民部卿忠文をつかはしける、この關にいたりて、とどまりけるが、清原滋藤といふもの、民部卿にともなひて、軍監といふつかさにて行きけるが、「漁舟の火の影は寒くして浪を燒き、驛路の鈴の聲は夜山を過ぐ」といふ唐の歌を詠じければ、民部卿、涙を流しけると聞くにも、あはれなり。

清見がた關とは知らで行く人も
心ばかりはとどめおくらむ

 この關とほからぬほどに興津といふ浦あり。海に向ひたる家にやどりて侍れば、いそべによする波の音も、身の上にかかるやうにおぼえて、夜もすがらいねられず。

清見がた磯邊にちかき旅枕
かけぬ浪にも袖はぬれけり