University of Virginia Library

 金井 ( しずか ) 君は哲学が職業である。

 哲学者という概念には、何か書物を書いているということが伴う。金井君は哲学が職業である癖に、なんにも書物を書いていない。文科大学を卒業するときには、 外道 ( げどう ) 哲学と Sokrates 前の 希臘 ( ギリシャ ) 哲学との比較的研究とかいう題で、余程へんなものを書いたそうだ。それからというものは、なんにも書かない。

 しかし職業であるから講義はする。講座は哲学史を受け持っていて、近世哲学史の講義をしている。学生の評判では、本を沢山書いている先生方の講義よりは、金井先生の講義の方が面白いということである。講義は直観的で、或物の上に強い光線を投げることがある。そういうときに、学生はいつまでも消えない印象を得るのである。 ( こと ) に縁の遠い物、何の関係もないような物を ( ) りて来て或物を説明して、聴く人がはっと思って会得するというような事が多い。Schopenhauer は新聞の雑報のような世間話を材料帳に ( ) めて置いて、自己の哲学の材料にしたそうだが、金井君は何をでも哲学史の材料にする。 真面目 ( まじめ ) な講義の中で、その頃青年の読んでいる小説なんぞを引いて説明するので、学生がびっくりすることがある。

 小説は沢山読む。新聞や雑誌を見るときは、議論なんぞは見ないで、小説を読む。しかし ( ) し何と思って読むかということを作者が知ったら、作者は憤慨するだろう。芸術品として見るのではない。金井君は芸術品には非常に高い要求をしているから、そこいら中にある小説はこの要求を充たすに足りない。金井君には、作者がどういう心理的状態で書いているかということが面白いのである。それだから金井君の為めには、作者が悲しいとか悲壮なとかいう ( つもり ) で書いているものが、 ( きわめ ) 滑稽 ( こっけい ) に感ぜられたり、作者が滑稽の積で書いているものが、 ( かえっ ) て悲しかったりする。

 金井君も何か書いて見たいという考はおりおり起る。哲学は職業ではあるが、自己の哲学を建設しようなどとは思わないから、哲学を書く気はない。それよりは小説か脚本かを書いて見たいと思う。しかし例の芸術品に対する要求が高い為めに、容易に取り附けないのである。

 そのうちに夏目金之助君が小説を書き出した。金井君は非常な興味を以て読んだ。そして 技癢 ( ぎよう ) を感じた。そうすると夏目君の「我輩は猫である」に対して、「我輩も猫である」というようなものが出る。「我輩は犬である」というようなものが出る。金井君はそれを見て、ついつい ( いや ) になってなんにも書かずにしまった。

 そのうち自然主義ということが始まった。金井君はこの流義の作品を見たときは、格別技癢をば感じなかった。その癖面白がることは非常に面白がった。面白がると同時に、金井君は妙な事を考えた。

 金井君は自然派の小説を読む ( たび ) に、その作中の人物が、行住 坐臥 ( ざが ) 造次 顛沛 ( てんぱい ) 、何に就けても性欲的写象を伴うのを見て、そして批評が、それを人生を写し得たものとして認めているのを見て、人生は果してそんなものであろうかと思うと同時に、或は自分が人間一般の心理的状態を ( はず ) れて性欲に 冷澹 ( れいたん ) であるのではないか、特に frigiditas とでも名づくべき異常な性癖を持って生れたのではあるまいかと思った。そういう想像は、zolaの小説などを読んだ時にも起らぬではなかった。しかしそれは Germinal やなんぞで、労働者の部落の人間が、困厄の極度に達した処を書いてあるとき、或る男女の 逢引 ( あいびき ) をしているのを ( のぞ ) きに行く段などを見て、そう思ったのであるが、その時の疑は、なんで作者がそういう処を、わざとらしく書いているだろうというのであって、それが有りそうでない事と思ったのでは無い。そんな事もあるだろうが、それを 何故 ( なぜ ) 作者が書いたのだろうと疑うに過ぎない。 ( すなわ ) ち作者一人の性欲的写象が異常ではないかと思うに過ぎない。小説家とか詩人とかいう人間には、性欲の上には異常があるかも知れない。この問題は Lombroso なんぞの説いている天才問題とも関係を有している。Mobius

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一派の人が、名のある詩人や哲学者を片端から ( つか ) まえて、精神病者として論じているも、そこに根柢を有している。しかし近頃日本で起った自然派というものはそれとは違う。大勢の作者が一時に起って同じような事を書く。批評がそれを人生だと認めている。その人生というものが、精神病学者に言わせると、一々の写象に性欲的色調を帯びているとでも云いそうな風なのだから、金井君の疑惑は前より余程深くなって来たのである。

 そのうちに 出歯亀 ( でばかめ ) 事件というのが現われた。出歯亀という職人が不断女湯を覗く癖があって、あるとき湯から帰る女の跡を附けて行って、暴行を加えたのである。どこの国にも沢山ある、極て普通な出来事である。西洋の新聞ならば、紙面の隅の方の二三行の記事になる位の事である。それが一時世間の大問題に 膨脹 ( ぼうちょう ) する。 所謂 ( いわゆる ) 自然主義と 聯絡 ( れんらく ) を附けられる。出歯亀主義という自然主義の別名が出来る。出歯るという動詞が出来て流行する。金井君は、世間の人が皆色情狂になったのでない限は、自分だけが人間の仲間はずれをしているかと疑わざることを得ないことになった。

 その頃或日金井君は、教場で学生の一人が Jerusalem の哲学入門という小さい本を持っているのを見た。講義の済んだとき、それを手に取って見て、どんな本だと問うた。学生は、「南江堂に来ていたから、参考書になるかと思って買って来ました、まだ読んで見ませんが、先生が御覧になるならお持下さい」と云った。金井君はそれを借りて帰って、その晩丁度暇があったので読んで見た。読んで行くうちに、審美論の処になって、金井君は大いに驚いた。そこにこういう事が書いてある。あらゆる芸術は Liebeswerbung である。 口説 ( くど ) くのである。性欲を公衆に向って発揮するのであると論じている。そうして見ると、月経の血が 戸惑 ( とまどい ) をして鼻から出ることもあるように、性欲が絵画になったり、彫刻になったり、音楽になったり、小説脚本になったりするということになる。金井君は驚くと同時に、こう思った。こいつはなかなか奇警だ。しかし奇警ついでに、何故この説をも少し押し広めて、人生のあらゆる出来事は皆性欲の発揮であると立てないのだろうと思った。こんな論をする事なら、同じ論法で何もかも性欲の発揮にしてしまうことが出来よう。宗教などは性欲として説明することが最も容易である。 基督 ( キリスト ) ( むこ ) だというのは普通である。聖者と ( あが ) められた尼なんぞには、実際性欲を perverse の方角に発揮したに過ぎないのがいくらもある。献身だなんぞという ( おこない ) をした人の中には、Sadist もいれば Masochist もいる。性欲の 目金 ( めがね ) を掛けて見れば、人間のあらゆる出来事の発動機は、一として性欲ならざるはなしである。Cherchez la femme はあらゆる人事世相に応用することが出来る。金井君は、 ( ) しこんな立場から見たら、自分は到底人間の仲間はずれたることを免れないかも知れないと思った。

 そこで金井君の何か書いて見ようという、兼ての希望が、妙な方角に向いて動き出した。金井君はこんな事を思った。一体性欲というものが人の生涯にどんな順序で発現して来て、人の生涯にどれだけ関係しているかということを ( ちょう ) すべき文献は ( はなは ) だ少いようだ。芸術に 猥褻 ( わいせつ ) な絵などがあるように、pornographie はどこの国にもある。 婬書 ( いんしょ ) はある。しかしそれは真面目なものでない。総ての詩の領分に恋愛を書いたものはある。しかし恋愛は、よしや性欲と密接な 関繋 ( かんけい ) を有しているとしても、性欲と同一ではない。裁判の記録や、医者の書いたものに、多少の材料はある。しかしそれは多く性欲の変態ばかりである。Rousseau の 懺悔記 ( ざんげき ) は随分思い切って無遠慮に何でも書いたものだ。子供の時教えられた事を忘れると、牧師のお嬢さんが ( つか ) まえてお尻を打つ。それが何とも云えない好い心持がするので、知ったことをわざと知らない振をして、間違った事を言ったり何かして、お嬢さんに打って貰った。ところが、いつかお嬢さんが情を知って打たなくなったなどということが書いてある。これは性欲の最初の発動であって、決して初恋ではない。その外、青年時代の記事には性欲の事もちょいちょい見えている。しかし性欲を主にして書いたものではないから飽き足らない。Casanova は生涯を性欲の犠牲に供したと云っても好い男だ。あの男の書いた回想記は一の大著述であって、あの大部な書物の内容は、徹頭徹尾性欲で、恋愛などにまぎらわしい処はない。しかし 拿破崙 ( ナポレオン ) 名聞心 ( みょうもんしん ) が甚だしく常人に超越している為めに、その自伝が名聞心を研究する材料になりにくいと同じ事で、性欲界の豪傑 Casanova の書いたものも、性欲を研究する材料にはなりにくい。 ( たと ) えば Rhodos の kolossos や奈良の大仏が人体の形の研究には適せないようなものである。おれは何か書いて見ようと思っているのだが、前人の足跡を踏むような事はしたくない。丁度好いから、一つおれの性欲の歴史を書いて見ようかしらん。実はおれもまだ自分の性欲が、どう 萌芽 ( ほうが ) してどう発展したか、つくづく考えて見たことがない。一つ考えて書いて見ようかしらん。白い上に黒く、はっきり書いて見たら、自分が自分でわかるだろう。そうしたら或は自分の性欲的生活が normal だか anomalous だか分かるかも知れない。勿論書いて見ない内は、どんなものになるやら分らない。 ( したがっ ) て人に見せられるようなものになるやら、世に公にせられるようなものになるやら分らない。とにかく暇なときにぽつぽつ書いて見ようと、こんな風な事を思った。

 そこへ 独逸 ( ドイツ ) から郵便物が届いた。いつも書籍を送ってくれる 書肆 ( しょし ) から届いたのである。その中に性欲的教育の問題を或会で研究した報告があった。性欲的というのは ( おだやか ) でない。Sexual は性的である。性欲的ではない。しかし性という字があまり多義だから、不本意ながら欲の字を添えて置く。さて教育の範囲内で、性欲的教育をせねばならないものだろうか、せねばならないとしたところで、果してそれが出来るだろうかというのが問題である。或会で教育家を一人、宗教家を一人、医学者を一人と云う工合に、おのおのその向の authority とすべき人物を選んで、意見を叩いたのが、この報告になって出たのである。然るに三人の議論の道筋はそれそれ別であるが、性欲的教育は必要であるか、然り、 ( ) し得らるるであろうか、然りという答に帰着している。家庭でするが好いという意見もある。学校でするが好いという意見もある。とにかく ( ) るが好い、出来ると決している。教える時期は ( もと ) より物心が附いてからである。婚礼の前に絵を見せるという話は我国にもあるが、それを少し早めるのである。早めるのは、婚礼の 直前 ( すぐまえ ) まで待っては、その内に間違があるというのである。話は下級生物の繁殖から始めて、次第に人類に及ぶというのである。初に下級生物を話すとはいうが、 ( ただ ) 植物の 雄蕋雌蕋 ( ゆうずいしずい ) の話をして、動物もまた復是の如し、人類もまた復是の如しでは何の役にも立たない。人の性欲的生活をも詳しく説かねばならぬというのである。

 金井君はこれを読んで、 ( しばら ) く腕組をして考えていた。金井君の長男は今年高等学校を卒業する。仮に自分が息子に教えねばならないとなったら、どう云ったら好かろうと考えた。そして非常にむつかしい事だと思った。具体的に考えて見れば見る程 ( ことば ) ( ) くに窮する。そこで前に書こうと思っていた、自分の性欲的生活の歴史の事を考えて、金井君は問題の解決を得たように思った。あれを書いて見て、どんなものになるか見よう。書いたものが人に見せられるか、世に公にせられるかより先に、息子に見せられるかということを検して見よう。金井君はこう思って筆を取った。

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 六つの時であった。

 中国の或る小さいお大名の御城下にいた。廃藩置県になって、県庁が隣国に置かれることになったので、城下は ( にわか ) に寂しくなった。

 お父様は殿様と御一しょに東京に出ていらっしゃる。お母様が、湛ももう大分大きくなったから、学校に ( ) る前から、少しずつ物を教えて置かねばならないというので、毎朝仮名を教えたり、手習をさせたりして下さる。

 お父様は藩の時 徒士 ( かち ) であったが、それでも 土塀 ( どべい ) ( めぐ ) らした門構の家にだけは住んでおられた。門の前はお ( ほり ) で、向うの岸は ( かみ ) のお蔵である。

 或日お稽古が済むと、お母様は機を織っていらっしゃる。僕は「遊んでまいります」という一声を残して ( ) け出した。

 この辺は屋敷町で、春になっても、柳も見えねば桜も見えない。内の塀の上から真赤な椿の花が見えて、お米蔵の ( そば ) 臭橘 ( からたち ) に薄緑の芽の吹いているのが見えるばかりである。

 西隣に空地がある。石瓦の散らばっている間に、げんげや ( すみれ ) の花が咲いている。僕はげんげを摘みはじめた。暫く摘んでいるうちに、前の日に近所の子が、男の癖に花なんぞを摘んで 可笑 ( おか ) しいと云ったことを思い出して、急に身の 周囲 ( まわり ) を見廻して花を棄てた。 ( さいわい ) に誰も見ていなかった。僕はぼんやりして立っていた。晴れた ( うらら ) かな日であった。お母様の機を織ってお ( いで ) なさる音が、ぎいとん、ぎいとんと聞える。

 空地を隔てて小原という家がある。主人は亡くなって四十ばかりの後家さんがいるのである。僕はふいとその家へ往く気になって、表口へ廻って駈け込んだ。

  草履 ( ぞうり ) を脱ぎ散らして、障子をがらりと開けて飛び込んで見ると、おばさんはどこかの知らない娘と一しょに本を開けて見ていた。娘は赤いものずくめの着物で、髪を島田に ( ) っている。僕は子供ながら、この娘は町の方のものだと思った。おばさんも娘も、ひどく驚いたように顔を上げて僕を見た。二人の顔は真赤であった。僕は子供ながら、二人の様子が 当前 ( あたりまえ ) でないのが分って、異様に感じた。見れば開けてある本には、綺麗に彩色がしてある。

「おば様。そりゃあ何の絵本かのう」

 僕はつかつかと側へ ( ) った。娘は本を伏せて、おばさんの顔を見て笑った。表紙にも彩色がしてあって、見れば女の大きい顔が書いてあった。

 おばさんは娘の伏せた本を引ったくって開けて、僕の前に出して、絵の中の何物かを指ざして、こう云った。

「しずさあ。あんたはこれを何と思いんさるかの」

 娘は一層声を高くして笑った。僕は覗いて見たが、人物の姿勢が非常に複雑になっているので、どうもよく分らなかった。

「足じゃろうがの」

 おばさんも娘も一しょに大声で笑った。足ではなかったと見える。僕は 非道 ( ひど ) く侮辱せられたような心持がした。

「おば様。又来ます」

 僕はおばさんの待てというのを聴かずに、走って戸口を出た。

 僕は二人の見ていた絵の何物なるかを判断する智識を有せなかった。しかし二人の言語挙動を非道く異様に、しかも不愉快に感じた。そして何故か知らないが、この出来事をお母様に問うことを ( はばか ) った。

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 七つになった。

 お父様が東京からお帰になった。僕は藩の学問所の ( あと ) に出来た学校に通うことになった。

 内から学校へ往くには、門の前のお濠の西のはずれにある木戸を通るのである。木戸の番所の址がまだ元のままになっていて、五十ばかりのじいさんが住んでいる。女房も子供もある。子供は僕と同年位の男の子で、 襤褸 ( ぼろ ) を着て、いつも二本棒を垂らしている。その子が僕の通る度に、指を ( くわ ) えて僕を見る。僕は 厭悪 ( えんお ) と多少の 畏怖 ( いふ ) とを以てこの子を見て通るのであった。

 或日木戸を通るとき、いつも外に立っている子が見えなかった。おれはあの子はどうしたかと思いながら、通り過ぎようとした。その時番所址の家の中で、じいさんの声がした。

「こりい。それう持ってわやくをしちゃあいけんちゅうのに」

 僕はふいと立ち留って声のする方を見た。じいさんは 胡坐 ( あぐら ) をかいて 草鞋 ( わらじ ) を作っている。今叱ったのは、子供が ( わら ) を打つ ( つち ) を持ち出そうとしたからである。子供は槌を ( ) いておれの方を見た。じいさんもおれの方を見た。濃い褐色の ( しわ ) の寄った顔で、曲った鼻が高く、頬がこけている。目はぎょろっとしていて、白目の ( うち ) に赤い処や黄いろい処がある。じいさんが僕にこう云った。

「坊様。あんたあお ( とっ ) さまとおっ ( ) さまと夜何をするか知っておりんさるかあ。あんたあ 寐坊 ( ねぼう ) じゃけえ知りんさるまあ。あははは」

 じいさんの笑う顔は実に恐ろしい顔である。子供も一しょになって、顔をくしゃくしゃにして笑うのである。

 僕は返事をせずに、逃げるように通り過ぎた。跡にはまだじいさんと子供との笑う声がしていた。

 道々じいさんの云った事を考えた。男と女とが夫婦になっていれば、その間に子供が出来るということは知っている。しかしどうして出来るか分らない。じいさんの言った事はその辺に関しているらしい。その辺になんだか秘密が伏在しているらしいと、こんな風に考えた。

 秘密が知りたいと思っても、じいさんの言うように、夜目を ( ) ましていて、お父様やお母様を監視せようなどとは思わない。じいさんがそんな事を言ったのは、子供の心にも、profanation である、

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褻※ ( せつとく ) であるというように感ずる。お社の 御簾 ( みす ) の中へ土足で踏み込めといわれたと同じように感ずる。そしてそんな事を言ったじいさんが非道く憎いのである。

 こんな考はその後木戸を通る度に起った。しかし子供の意識は断えず応接に ( いとま ) あらざる程の新事実に襲われているのであるから、長く続けてそんな事を考えていることは出来ない。内に帰っている時なんぞは、大抵そんな事は忘れているのであった。

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  ( とお ) になった。

 お父様が少しずつ英語を教えて下さることになった。

 内を東京へ引き越すようになるかも知れないという話がおりおりある。そんな話のある時、聞耳を立てると、お母様が 余所 ( よそ ) の人に言うなと ( おっし ) ゃる。お父様は、若し東京へでも行くようになると、余計な物は持って行かれないから、物を ( ) り分けねばならないというので、よく蔵にはいって何かしていらっしゃる。蔵は下の方には米がはいっていて、二階に長持や何かが入れてあった。お父様のこのお 為事 ( しごと ) も、客でもあると、すぐに ( ) めておしまいになる。

 何故人に言っては悪いのかと思って、お母様に問うて見た。お母様は、東京へは皆行きたがっているから、人に言うのは好くないと仰ゃった。

 或日お父様のお留守に蔵の二階へ上って見た。 ( ふた ) を開けたままにしてある長持がある。色々な物が取り散らしてある。もっと小さい時に、いつも床の間に飾ってあった 鎧櫃 ( よろいびつ ) が、どうしたわけか、二階の真中に引き出してあった。 甲冑 ( かっちゅう ) というものは、何でも五年も前に、長州征伐があった時から、信用が地に ( ) ちたのであった。お父様が古かね屋にでも ( ) っておしまいなさるお積で、 ( ) うから蔵にしまってあったのを、引き出してお置になったのかも知れない。

 僕は何の気なしに鎧櫃の蓋を開けた。そうすると鎧の上に本が一冊載っている。開けて見ると、綺麗に彩色のしてある絵である。そしてその絵にかいてある男と女とが異様な姿勢をしている。僕は、もっと小さい時に、小原のおばさんの内で見た本と同じ種類の本だと思った。しかしもう大分それを見せられた時よりは 智識 ( ちしき ) が加わっているのだから、その時よりは ( ) く分った。Michelangelo の壁画の人物も、大胆な遠近法を使ってかいてあるとはいうが、こんな絵の人物には、それとは違って、随分無理な姿勢が取らせてあるのだから、小さい子供に、どこに手があるやら足があるやら ( わきま ) えにくかったのも無理は無い。今度は手も足も好く分った。そして兼て知りたく思った秘密はこれだと思った。

 僕は面白く思って、幾枚かの絵を繰り返して見た。しかしここに注意して置かなければならない事がある。それはこういう人間の振舞が、人間の欲望に関係を有しているということは、その時少しも分らなかった。Schopenhauer はこういう事を言っている。人間は容易に ( ) めた意識を以て子を得ようと ( はか ) るものではない。自分の ( たね ) の繁殖に手を着けるものではない。そこで自然がこれに愉快を伴わせる。これを欲望にする。この愉快、この欲望は、自然が人間に繁殖を ( はか ) らせる 詭謀 ( きぼう ) である、 ( ) である。こんな餌を与えないでも、繁殖に 差支 ( さしつかえ ) のないのは、下等な生物である。醒めた意識を有せない生物であると云っている。僕には、この絵にあるような人間の振舞に、そんな餌が伴わせてあるということだけは、少しも分らなかったのである。僕の面白がって、繰り返して絵を見たのは、只まだ知らないものを知るのが面白かったに過ぎない。Neugierde に過ぎない。Wissbegierde に過ぎない。小原のおばさんに見せて貰っていた、島田 ( まげ ) の娘とは、全く別様な眼で見たのである。

 さて繰り返して見ているうちに、疑惑を生じた。それは或る ( からだ ) の部分が馬鹿に大きくかいてあることである。もっと小さい時に、足でないものを足だと思ったのも、無理は無いのである。一体こういう画はどこの国にもあるが、或る体の部分をこんなに大きくかくということだけは、世界に類が無い。これは日本の浮世絵師の発明なのである。昔希臘の芸術家は、神の形を製作するのに、額を大きくして、顔の下の方を小さくした。額は霊魂の ( やど ) るところだから、それを引き立たせる為めに大きくした。顔の下の方、口のところ、 咀嚼 ( そしゃく ) に使う上下の ( あご ) に歯なんぞは、卑しい体の部であるから小さくした。若しこっちの方を大きくすると、段々猿に似て来るのである。Camper の 面角 ( めんかく ) が段々小さくなって来るのである。それから腹の割合に胸を大きくした。腹が顎や歯と同じ関係を有しているということは、別段に説明することを要せない。飲食よりは呼吸の方が、上等な作用である。その上昔の人は胸に、詳しく言えば心の臓に、血の 循行 ( めぐり ) ではなくて、精神の作用を持たせていたのである。その額や胸を大きくしたと同じ道理で、日本の浮世絵師は、こんな画をかく時に、或る体の部分を大きくしたのである。それがどうも僕には分らなかった。

 肉 蒲団 ( ぶとん ) という、支那人の書いた、けしからん 猥褻 ( わいせつ ) な本がある。お負に支那人の癖で、その物語の組立に善悪の応報をこじつけている。実に馬鹿げた本である。その本に 未央生 ( みおうせい ) という主人公が、自分の或る体の部分が小さいようだというので、人の小便するのを ( のぞ ) いて歩くことが書いてある。僕もその頃人が往来ばたで小便をしていると、覗いて見た。まだ御城下にも辻便所などはないので、誰でも道ばたでしたのである。そして誰のも小さいので、画にうそがかいてあると判断して、 天晴 ( あっぱれ ) 発見をしたような積でいたのである。

 これが僕の可笑しな絵を見てから実世界の観察をした一つである。今一つの観察は、少し書きにくいが、真実の為めに強いて書く。僕は女の体の或る部分を目撃したことが無い。その頃御城下には湯屋なんぞはない。内で湯を使わせてもらっても、親類の家に泊って、 余所 ( よそ ) の人に湯を使わせてもらっても、自分だけが裸にせられて、使わせてくれる人は着物を着ている。女は往来で 手水 ( ちょうず ) もしない。これには甚だ窮した。

 学校では、女の子は別な教場で教えることになっていて、一しょに遊ぶことも ( たえ ) て無い。若し物でも言うと、すぐに友達仲間で 嘲弄 ( ちょうろう ) する。そこで女の友達というものはなかった。親類には娘の子もあったが、節句だとか法事だとかいうので来ることがあっても、余所行の着物を着て、お化粧をして来て、大人しく何か食べて帰るばかりであった。心安いのはない。只内の裏に、藩の時に 小人 ( こびと ) と云ったものが住んでいて、その娘に同年位なのがいた。名は ( かつ ) と云った。小さい 蝶々髷 ( ちょうちょうまげ ) を結っておりおり内へ遊びに来る。色の白い頬っぺたの ( ふく ) らんだ子で、性質が極素直であった。この子が、気の毒にも、僕の試験の対象物にせられた。

  五月雨 ( さみだれ ) の晴れた頃であった。お母様は相変らず機を織っていらっしゃる。蒸暑い ( ひる ) 過で、内へ針為事に来て、台所の手伝をしている婆あさんは昼寝をしている。お母様の ( ) の音のみが、ひっそりしている家に響き渡っている。

 僕は裏庭の蔵の前で、

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蜻※ ( とんぼ ) の尻に糸を附けて飛ばせていた。花の一ぱい咲いている 百日紅 ( さるすべり ) の木に、 ( せみ ) が来て鳴き出した。覗いて見たが、高い処なので取れそうにない。そこへ勝が来た。勝も内のものが昼寝をしたので、寂しくなって出掛けて来たのである。

「遊びましょうやあ」

 これが挨拶である。僕は ( たちま ) ち一計を案じ出した。

「うむ。あの縁から飛んで遊ぼう」

 こう云って草履を脱いで縁に上った。勝も附いて来て、赤い緒の 雪踏 ( せった ) を脱いで上った。僕は先ず 跣足 ( はだし ) で庭の ( こけ ) の上に飛び降りた。勝も飛び降りた。僕は又縁に上って、尻を

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( まく ) った。

「こうして飛ばんと、着物が邪魔になって ( ) けん」

 僕は活溌に飛び降りた。見ると、勝はぐずぐずしている。

「さあ。あんたも飛びんされえ」

 勝は暫く困ったらしい顔をしていたが、無邪気な素直な子であったので、とうとう尻を※

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って飛んだ。僕は目を円くして覗いていたが、白い ( あし ) が二本白い腹に続いていて、なんにも無かった。僕は大いに失望した。Operaglass で ballet を踊る女の ( また ) の間を覗いて、 ( うすもの ) に織り込んである金糸の光るのを見て、失望する紳士の事を思えば、罪のない話である。

 その歳の秋であった。

 僕の国は盆踊の盛な国であった。旧暦の 盂蘭盆 ( うらぼん ) が近づいて来ると、今年は踊が禁ぜられるそうだという ( うわさ ) があった。しかし県庁で 他所産 ( たしょうまれ ) の知事さんが、僕の国のものに逆うのは好くないというので、黙許するという事になった。

 内から二三丁ばかり先は町である。そこに屋台が掛かっていて、夕方になると、踊の 囃子 ( はやし ) をするのが内へ聞える。

 踊を見に ( ) っても好いかと、お母様に聞くと、早く戻るなら、往っても好いということであった。そこで草履を 穿 ( ) いて駈け出した。

 これまでも度々見に往ったことがある。もっと小さい時にはお母様が連れて行って見せて下すった。踊るものは、表向は町のものばかりというのであるが、皆 頭巾 ( ずきん ) で顔を隠して踊るのであるから、 ( さぶらい ) の子が沢山踊りに行く。中には男で女装したのもある。女で男装したのもある。頭巾を着ないものは 百眼 ( ひゃくまなこ ) というものを掛けている。西洋でする Carneval は一月で、季節は違うが、人間は自然に同じような事を工夫し出すものである。西洋にも、収穫の時の踊は別にあるが、その方には仮面を ( かぶ ) ることはないようである。

 大勢が輪になって踊る。覆面をして踊りに来て、立って見ているものもある。見ていて、気に入った踊手のいる処へ、いつでも割り込むことが出来るのである。

 僕は踊を見ているうちに、覆面の連中の話をするのがふいと耳に入った。 ( ) りあいの男二人と見える。

「あんたあゆうべ 愛宕 ( あたご ) の山へ行きんさったろうがの」

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( うそ ) を言いんさんな」

「いいや。何でも行きんさったちゅう事じゃ」

 こういうような問答をしていると、今一人の男が側から口を出した。

「あそこにゃあ、朝行って見ると、いろいろな物が落ちておるげな」

 跡は笑声になった。僕は ( きたな ) い物に ( さわ ) ったような心持がして、踊を見るのを ( ) めて、内へ帰った。