University of Virginia Library

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 同じ歳の秋であった。古賀の 機嫌 ( きげん ) が悪い。病気かと思えばそうでもない。或日一しょに散歩に出て、池の端を歩いていると、古賀がこう云った。

「今日は根津へ探検に行くのだが、一しょに行くかい」

「一しょに帰るなら、行っても好い」

「そりゃあ帰る」

 それから古賀が歩きながら探険の目的を話した。安達が根津の 八幡楼 ( やわたろう ) という内のお職と大変な関係になった。女が立て引いて呼ぶので、安達は殆ど学課を全廃した。女の処には安達の寝巻や何ぞが備え附けてある。女の持物には、 ( ことごと ) く自分の紋と安達の紋とが 比翼 ( ひよく ) にして附けてある。二三日安達の顔を見ないと ( しゃく ) を起す。古賀がどんなに引き留めても、女の磁石力が強くて、安達はふらふらと八幡楼へ引き寄せられて行く。古賀は浅草にいる安達の親に denunciate した。安達と安達の母との間には、悲痛なる対話があった。さて安達の寄宿舎に帰るのを待ち受けて、古賀が「どうだ」と問うた。安達は途方に暮れたという様子で云った。「今日は母に泣かれて困った。母が泣きながら死んでしまうというのを聞けば、気の毒ではある。しかし女も泣きながら死んでしまうというから、 為方 ( しかた ) がない」と云ったというのである。

 古賀はこの話をしながら、憤慨して涙を ( こぼ ) した。僕は歩きながらこの話を聞いて、「なる程非道い」と云った。そうは云ったが、頭の中では憤慨はしない。恋愛というものの美しい夢は、断えず意識の奥の方に潜んでいる。初て梅暦を又借をして読んだ頃から後、漢学者の友達が出来て、 剪燈余話 ( せんとうよわ ) を読む。 燕山外史 ( えんざんがいし ) を読む。情史を読む。こういう本に書いてある、青年男女の naively な恋愛がひどく羨ましい、 ( ねた ) ましい。そして自分が美男に生れて来なかった為めに、この美しいものが手の届かない理想になっているということを感じて、頭の奥には苦痛の絶える ( ひま ) がない。それだから安達はさぞ愉快だろう、 縦令 ( たとい ) 苦痛があっても、その苦痛は甘い苦痛で、自分の頭の奥に潜んでいるような苦い苦痛ではあるまいという 思遣 ( おもいやり ) をなすことを禁じ得ない。それと同時に僕はこんな事を思う。古賀の単純極まる性質は愛す可きである。しかし彼が安達の為めに 煩悶 ( はんもん ) する源を考えて見れば、少しも同情に値しない。安達は ( むし ) ろ不自然の 回抱 ( かいほう ) を脱して自然の ( ふところ ) に走ったのである。古賀がこの話を児島にしたら、児島は一しょに涙を翻したかも知れない。いかにも親孝行はこの上もない善い事である。親孝行のお蔭で、性欲を少しでも抑えて行かれるのは結構である。しかしそれを ( ) し得ない人間がいるのに不思議はない。児島は性欲を吸込の 糞坑 ( ふんこう ) にしている。古賀は性欲を折々掃除をさせる雪隠の ( かめ ) にしている。この二人と同盟になっている僕が、同じように性欲の満足を求めずにいるのは、果して僕の手柄であろうか。それは ( すこぶ ) る疑わしい。僕が若し児島のような美男に生れていたら、僕は児島ではないかも知れない。僕は神聖なる同盟の祭壇の前で、こんな heretical な思議を費していたのである。

 僕は古賀の跡に附いて、始て 藍染橋 ( あいぞめばし ) を渡った。古賀は西側の小さい家に這入って、店の者と話をする。僕は 閾際 ( しきいぎわ ) に立っている。この家は引手茶屋である。古賀は安達が 何日 ( いくか ) 何日 ( いくか ) とに来たかというような事を確めている。店のものは不精々々に返辞をしている。古賀は ( しばら ) くしてしおしおとして出て来た。僕等は黙って帰途に就いた。

 安達は程なく退学させられた。一年ばかり立ってから、浅草区に子守女や後家なぞに騒がれる美男の巡査がいるという評判を聞いた。又数年の後、古賀が浅草の奥山で、 唐桟 ( とうざん ) づくめの頬のこけた ( すご ) い顔の男に逢った。奥山に小屋掛けをして興行している女の 軽技師 ( かるわざし ) があって、その情夫が安達の末路であったそうだ。