University of Virginia Library

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 十九になった。

 七月に大学を卒業した。表向の年齢を見て、二十になったばかりで学士になるとは珍らしいと人が云った。実は二十にもなってはいなかった。とうとう女というものを知らずに卒業した。これは確に古賀と児島とのお蔭である。そして児島だけは、僕より年は上であったが、やはり女を知らなかったらしい。

 その当座宴会がむやみにある。上野の松源という料理屋がその頃盛であった。そこへ卒業生一同で教授を 請待 ( しょうだい ) した。

  数寄屋 ( すきや ) 町、 同朋町 ( どうぼうちょう ) の芸者やお酌が大勢来た。宴会で芸者を見たのはこれが始である。

 今でも学生が卒業する度に謝恩会ということがある。しかし今からあの時の事を思って見ると、客も芸者も風が変っている。

 今は学士になると、別に優遇はせられないまでも、ひどく粗末にもせられないようだ。あの頃は僕なんぞをば、芸者がまるで人間とは思っていなかった。

 あの晩の松源の宴会は、はっきりと僕の記憶に残っている。床の間の前に並んでいる教授がたの処へ、卒業生が ( かわ ) ( がわ ) るお杯を頂戴しに行く。教授の中には、わざと卒業生の前へ来て 胡坐 ( あぐら ) をかいて話をする人もある。席は大分入り乱れて来た。僕はぼんやりしてすわっていると、左の方から僕の鼻の先へ杯を出したものがある。

「あなた」

 芸者の声である。

「うむ」

 僕は杯を取ろうとした。杯を持った芸者の手はひょいと引込んだ。

「あなたじゃあ有りませんよ」

 芸者は ( たしな ) めるように、ちょいと僕を見て、僕の右前の方の人に杯を差した。 笑談 ( じょうだん ) ではない。笑談を ( よそお ) ってもいない。右前にいたのは某教授であった。芸者の方には殆ど背中を向けて、右隣の人と話をしておられた。僕の目には先生の ( ) の羽織の紋が見えていたのである。先生はやっと気が附いて杯を受けられた。僕がいくらぼんやりしていても、人の前に出した杯を横から取ろうとはしない。僕は羽織の紋に杯を差すものがあろうとは思い掛けなかったのである。

 僕はこの時忽ち 醒覚 ( せいかく ) したような心持がした。 ( たと ) えば今まで波の渦巻の中にいたものが、岸の上に飛び上がって、波の騒ぐのを眺めるようなものである。宴会の一座が純客観的に僕の目に映ずる。

 教場でむつかしい顔ばかりしていた某教授が 相好 ( そうごう ) を崩して笑っている。僕のすぐ脇の卒業生を ( つか ) まえて、一人の芸者が、「あなた私の名はボオルよ、忘れちゃあ嫌よ」と云っている。お玉とでも云うのであろう。席にいただけのお酌が皆立って、笑談半分に踊っている。誰も見るものはない。杯を投げさせて受け取っているものがある。お酌の間へ飛び込んで踊るものがある。置いてある三味線を踏まれそうになって、 ( あわ ) てて 退 ( ) ける芸者がある。さっき僕にけんつくを食わせた芸者はねえさん株と見えて、 ( しき ) りに大声を出して駈け廻って世話を焼いている。

 僕の左二三人目に児島がすわっている。彼はぼんやりしている。僕の醒覚前の態度と余り変っていないようだ。その前に一人の芸者がいる。締った体の 権衡 ( けんこう ) が整っていて、顔も美しい。若し 眼窩 ( がんか ) の縁を際立たせたら、西洋の絵で見る Vesta のようになるだろう。初め膳を持って出て配った時から、僕の注意を ( ) いた女である。 傍輩 ( ほうばい ) 小幾 ( こいく ) さんと呼ばれたのまで、僕の耳に留まったのである。その小幾が頻りに児島に話し掛けている。児島は不精々々に返詞をしている。聞くともなしに、対話が僕の耳に這入る。

「あなた何が一番お好」

橘飩 ( きんとん ) が旨い」

 真面目な返詞である。生年二十三歳の堂々たる美丈夫の返詞としては、不思議ではないか。今日の謝恩会に出る卒業生の中には、捜してもこんなのがいないだけは ( たしか ) である。頭が異様に ( ひややか ) になっていた僕は、間の悪いような 可笑 ( おか ) しいような心持がした。

「そう」

 優しい声を残して小幾は座を立った。僕は一種の興味を以て、この出来事の成行を見ている。暫くして小幾は可なり大きな ( どんぶり ) を持って来て、児島の前に置いた。それは橘飩であった。

 児島は宴会の終るまで、橘飩を食う。小幾はその前にきちんとすわって、橘飩の栗が一つ一つ児島の美しい唇の奥に隠れて行くのを眺めていた。

 僕は小幾が為めに、児島のなるたけ多くの橘飩を、なるたけゆっくり食わんことを祈って、黙って先へ帰った。

 後に聞けば、小幾は下谷第一の美人であったそうだ。そして児島は只この美人の

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( ) げ来った橘飩を食ったばかりであった。小幾は今某政党の名高い政治家の令夫人である。