University of Virginia Library

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 同じ年の十月頃、僕は本郷 壱岐坂 ( いきざか ) にあった、 独逸 ( ドイツ ) 語を教える私立学校にはいった。これはお父様が僕に鉱山学をさせようと思っていたからである。

 向島からは遠くて通われないというので、その頃神田小川町に住まっておられた、お父様の先輩の ( あずま ) 先生という方の内に置いて貰って、そこから通った。

 東先生は洋行がえりで、摂生のやかましい人で、盛に肉食をせられる外には、別に 贅沢 ( ぜいたく ) はせられない。只酒を随分飲まれた。それも役所から帰って、晩の十時か十一時まで 飜訳 ( ほんやく ) なんぞをせられて、その跡で飲まれる。奥さんは女丈夫である。今から思えば、当時の大官であの位 閨門 ( けいもん ) のおさまっていた家は少かろう。お父様は好い内に僕を置いて下すったのである。

 僕は東先生の内にいる間、性慾上の 刺戟 ( しげき ) を受けたことは少しもない。強いて記憶の糸を 手繰 ( たぐ ) って見れば、あるときこういう事があった。僕の机を置いているのは、応接所と台所との間であった。日が暮れて、まだ下女がランプを ( ) けて来てくれない。僕はふいと立って台所に出た。そこでは書生と下女とが話をしていた。書生はこういうことを下女に説明している。女の器械は何時でも用に立つ。心持に関係せずに用に立つ。男の器械は用立つ時と用立たない時とある。好だと思えば跳躍する。嫌だと思えば 萎靡 ( いび ) して振わないというのである。下女は耳を真赤にして聴いていた。僕は不愉快を感じて、自分の部屋に帰った。

 学校の課業はむつかしいとも思わなかった。お父様に英語を習っていたので、Adler とかいう人の字書を使っていた。独英と英独との二冊になっている。退屈した時には、membre という語を引いて Zeugungsglied という語を出したり、pudenda という語を引いて Scham という語を出したりして、ひとりで 可笑 ( おか ) しがっていたこともある。しかしそれも性欲に支配せられて、そんな語を面白がったのではない。人の口に ( のぼ ) せない隠微の事として面白がったのである。それだから同時に fart という語を引いて Furz という語を出して見て記憶していた。あるとき独逸人の教師が化学の初歩を教えていて、硫化水素をこしらえて見せた。そしてこの 瓦斯 ( ガス ) を含んでいるものを知っているかと問うた。一人の生徒が faule Eier と答えた。いかにも腐った卵には同じ臭がある。まだ何かあるかと問うた。僕が起立して声高く叫んだ。

『Furz !』

『Was? Bitte, noch einmal !』

『Furz !』

 教師はやっと分かったので顔を真赤にして、そんな詞を使うものではないと、懇切に教えてくれた。

 学校には寄宿舎がある。授業が済んでから、寄って見た。ここで始て男色ということを聞いた。僕なんぞと同級で、毎日馬に乗って通って来る 蔭小路 ( かげのこうじ ) という少年が、彼等寄宿生達の及ばぬ恋の対象物である。蔭小路は余り課業は好く出来ない。薄赤い頬っぺたがふっくりと ( ふく ) らんでいて、可哀らしい少年であった。その少年という詞が、男色の受身という意味に用いられているのも、僕の為めには新智識であった。僕に帰り掛に寄って行けと云った男も、僕を少年視していたのである。二三度寄るまでは、馳走をしてくれて、親切らしい話をしていた。その頃書生の金平糖といった 弾豆 ( はじけまめ ) 、書生の 羊羹 ( ようかん ) といった焼芋などを食わせられた。但しその親切は初から少し ( ねばり ) があるように感じて、嫌であったが、年長者に礼を欠いではならないと思うので、忍んで交際していたのである。そのうちに手を握る。 頬摩 ( ほおずり ) をする。うるさくてたまらない。僕には Urning たる素質はない。もう帰り掛に寄るのが嫌になったが、それまでの交際の惰力で、つい寄らねばならないようにせられる。ある日寄って見ると床が取ってあった。その男がいつもよりも一層うるさい挙動をする。血が頭に上って顔が赤くなっている。そしてとうとう僕にこう云った。

「君、一寸だからこの中へ 這入 ( はい ) って一しょに寝給え」

「僕は嫌だ」

「そんな事を言うものじゃない。さあ」

 僕の手を取る。彼が熱して来れば来るほど、僕の 厭悪 ( えんお ) と恐怖とは高まって来る。

「嫌だ。僕は帰る」

 こんな押問答をしているうちに、隣の部屋から声を掛ける男がある。

「だめか」

「うむ」

「そんなら応援して遣る」

 隣室から廊下に飛び出す。僕のいた部屋の破障子をがらりと開けて ( おど ) り込む。この男は粗暴な奴で、僕は初から交際しなかったのである。この男は少くも見かけの通の奴で、僕を釣った男は偽善者であった。

「長者の言うことを聴かなけりゃあ、布団 ( むし ) にして ( こら ) して遣れ」

 手は詞と共に動いた。僕は布団を頭から被せられた。一しょう懸命になって、 ( ) ね返そうとする。上から押える。どたばたするので、書生が二三人覗きに来た。「よせよせ」などという声がする。上から押える手が ( ゆる ) む。僕はようよう跳ね起きて逃げ出した。その時書物の包とインク壺とをさらって来たのは、我ながら 敏捷 ( びんしょう ) であったと思った。僕はそれからは寄宿舎へは往かなかった。

 その頃僕は土曜日ごとに東先生の内から、向島のお ( とう ) 様の処へ泊りに行って、日曜日の夕方に帰るのであった。お父様は或る省の判任官になっておられた。僕はお父様に寄宿舎の事を話した。定めてお父様はびっくりなさるだろうと思うと、少しもびっくりなさらない。

「うむ。そんな奴がおる。これからは気を附けんと行かん」

 こう云って平気でおられる。そこで僕は、これも ( ) めなければならない辛酸の一つであったということを悟った。