University of Virginia Library

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 同じ歳の夏休に向島に帰っていた。

 その頃好い友達が出来た。それは 和泉 ( いずみ ) 橋の東京医学校の預科に這入っている 尾藤裔一 ( びとうえいいち ) という同年位の少年であった。裔一のお父様はお邸の会計で、文案を受け持っている 榛野 ( はんの ) なんぞと同じ待遇を受けている。家もお長屋の隣同志である。

 僕のお父様はお邸に近い処に、小さい地面附の家を買って、少しばかりの畠にいろいろな物を作って楽んでおられる。 田圃 ( たんぼ ) を隔てて引舟の通が見える。裔一がそこへ遊びに来るか、僕がお長屋へ往くか、大抵離れることはない。

 裔一は平べったい顔の黄いろ味を帯びた、しんねりむっつりした少年で、漢学が好く出来る。菊池三渓を 贔負 ( ひいき ) にしている。僕は裔一に借りて、晴雪楼 詩鈔 ( ししょう ) を読む。 本朝虞初新誌 ( ほんちょうぐしょしんし ) を読む。それから三渓のものが出るからというので、僕も浅草へ行って、花月新誌を買って来て読む。二人で詩を作って見る。漢文の小品を書いて見る。先ずそんな事をして遊ぶのである。

 裔一は小さい道徳家である。埴生と話をするには、僕は遣り放しで、少しも自分を拘束するようなことは無かったのだが、裔一と何か話していて、少しでも野卑な詞、 猥褻 ( わいせつ ) な詞などが出ようものなら、彼はむきになって怒るのである。彼の想像では、人は進士及第をして、先生のお嬢様か何かに思われて、それを正妻に迎えるまでは、色事などをしてはならないのである。それから天下に名の聞えた名士になれば、 東坡 ( とうば ) なんぞのように、芸者にも大事にせられるだろう。その時は絹のハンケチに詩でも書いて遣るのである。

 裔一の処へ行くうちに、裔一が父親に連れられて出て、いない事がある。そういう時に好く、長い髪を ( うなじ ) まで分けた榛野に出くわす。榛野は、僕が外から裔一を呼ぶと、僕が這入らないうちに、内から障子を開けて出て、帰ってしまう。裔一の母親があとから送って出て、僕にあいそを言う。

 裔一の母親は継母である。ある時裔一と一しょに晴雪楼詩鈔を読んでいると、 真間 ( まま ) 手古奈 ( てこな ) の事を詠じた詩があった。僕は、ふいと思い出して、「君のお母様は本当のでないそうだが、 ( いじ ) めはしないか」と問うた。「いいや、窘めはしない」と云ったが、彼は母親の事を話すのを嫌うようであった。

 或日裔一の内へ往った。八月の晴れた日の午後二時頃でもあったろうか。お長屋には、どれにも竹垣を結い ( めぐ ) らした小庭が附いている。尾藤の内の庭には、縁日で買って来たような植木が四五本次第もなく植えてある。日が砂地にかっかっと照っている。御殿のお庭の植込の茂みでやかましい程鳴く蝉の声が聞える。障子をしめた尾藤の内はひっそりしている。僕は竹垣の間の小さい 柴折戸 ( しおりど ) を開けて、いつものように声を掛けた。

「裔一君」

 返事をしない。

「裔一君はいませんか」

 障子が開く。例の髪を項まで分けた榛野が出る。色の白い、 撫肩 ( なでがた ) の、背の高い男で、純然たる東京詞を遣うのである。

「裔一君は留守だ。ちっと僕の処へも遊びに来給え」

 こう云って長屋隣の内へ帰って行く。 鳴海絞 ( なるみしぼり ) 浴衣 ( ゆかた ) 背後 ( うしろ ) には、背中一ぱいある、派手な模様がある。尾藤の奥さんが 閾際 ( しきいぎわ ) にいざり出る。 水浅葱 ( みずあさぎ ) の手がらを掛けた丸髷の ( びん ) を両手でいじりながら、僕に声を掛ける。奥さんは東京へ出たばかりだそうだが、これも純然たる東京詞である。

「あら。金井さんですか。まあお上んなさいよ」

「はい。しかし裔一君がいませんのなら」

「お父さんが釣に行くというので、附いて行ってしまいましたの、裔一がいなくたって好いではございませんか。まあ、ここへお掛なさいよ」

「はい」

 僕はしぶしぶ縁側に腰を掛けた。奥さんは不精らしく又少しいざり出て、片膝立てて、僕の側へ、体がひっ附くようにすわった。汗とお白いと髪の油との匂がする。僕は少し脇へ 退 ( ) いた。奥さんは何故だか笑った。

「好くあなたは裔一のような子と遊んでおやんなさるのね。あんなぶあいそうな子ってありゃしません」

 奥さんは目も鼻も口も馬鹿に大きい人である。そして口が四角なように僕は感じた。

「僕は裔一君が大好です」

「わたくしはお嫌」

 奥さんは頬っぺたをおっ附けるようにして、横から僕の顔を ( のぞ ) き込む。息が顔に掛かる。その息が妙に熱いような気がする。それと同時に、僕は急に奥さんが女であるというようなことを思って、何となく恐ろしくなった。多分僕は ( あお ) くなったであろう。

「僕は又来ます」

「あら。好いじゃありませんか」

 僕は ( あわ ) てたように起って、三つ四つお辞儀をして駈け出した。御殿のお庭の植込の間から、お池の水が小さい 堰塞 ( いせき ) ( ) して流れ出る溝がある。その縁の、杉菜の生えている砂地に、植込の高い木が、少し西へいざった影を落している。僕はそこまで駈けて行って、仰向に砂の上に寝転んだ。すぐ上の処に、 凌霄 ( のうぜん ) の燃えるような花が 簇々 ( むらむら ) と咲いている。蝉が盛んに鳴く。その外には何の音もしない。Pan の神はまだ目を ( ) まさない時刻である。僕はいろいろな想像をした。

 それからは、僕は裔一と話をしても、裔一の母親の事は口に出さなかった。