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十一

 壽阿彌が源氏物語の講釋をしたと云ふことに ちな んだ話を、伊澤の刀自は今一つ記憶してゐる。それはかうである。或時人々が壽阿彌の噂をして、「あの方は坊さんにおなりなさる前に、奧さんがおありなさつたでせうか」と誰やらが問うた。すると誰やらが答へて云つた。「あの方は おれ に源氏のやうな文章で手紙を書いてよこす女があると、己はすぐ女房に持つのだがと云つて入らつしやつたさうです。しかしさう云ふ女がとう/\無かつたと云ふことです。」此話に由つて觀れば、五郎作は無妻であつたと見える。五郎作が千葉氏の 女壻 ぢよせい になつて出されたと云ふ、喜多村

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※庭 ゐんてい の説は疑はしい。

 壽阿彌は伊澤氏に來ても、 囘向 ゑかう に來た時には雜談などはしなかつた。しかし講釋に來た時には、事果てゝ後に しばら く世間話をもした。刀自はそれに就いてかう云ふ。「惜しい事には其時壽阿彌さんがどんな話をなさつたやら、わたくしは おぼ えてゐません。どうも石川貞白さんなどのやうに、子供の面白がるやうな事を おつし やらなかつたので、後にはわたくしは餘り其席へ出ませんでした。」石川貞白は伊澤氏と共に福山の阿部家に仕へてゐた醫者である。當時阿部家は 伊勢守正弘 いせのかみまさひろ の代であつた。

 刀自は壽阿彌の をひ の事をも少し知つてゐる。姪は五郎作の妹の子であつた。しかし恨むらくは其名を逸した。刀自の記憶してゐるのは 蒔繪師 まきゑし としての姪の號で、それはすゐさいであつたさうである。若し其文字を知るたつきを得たら、他日訂正することゝしよう。壽阿彌が蒔繪師の株を もら つたことがあると云ふ

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[28]
※庭 ゐんてい の説は、これを誤り傳へたのではなからうか。

 刀自の識つてゐた頃には、壽阿彌は姪に御家人の株を買つて遣つて、淺草菊屋橋の近所に住はせてゐた。其株は 扶持 ふち が多く附いてゐなかつたので、姪は内職に蒔繪をしてゐたのださうである。

 或るとき伊澤氏で、 蚊母樹 いすのき で作つた くし を澤山に病家から貰つたことがある。榛軒は壽阿彌の姪に あつら へて、それに蒔繪をさせ、 知人 しるひと に配つた。「大そう の長い櫛でございましたので、 その ころ の御婦人はお使なさらなかつたさうです、今なら宜しかつたのでせう」と刀自は云つた。

 菊屋橋附近の家へは、刀自が度々榛軒に連れられて往つた。始て往つた時は十二歳であつたと云ふから、弘化三年に壽阿彌が七十七歳になつた時の事である。其頃からは壽阿彌は姪と同居してゐて、とう/\其家で亡くなつた。刀自はそれが 盂蘭盆 うらぼん の頃であつたと思ふと云ふ。嘉永元年八月二十九日に歿したと云ふ記載と、 ほゞ 符合してゐる。

 壽阿彌の姪が 茶技 ちやき くは しかつたことは、 伯父 をぢ の手紙に徴して知ることが出來るが、その蒔繪を くしたことは、刀自の話に由つて知られる。其他蒔繪師としての號をすゐさいと云つたこと、壽阿彌がためには妹の子であつたこと、御家人であつたこと等の分かつたのも、 また 刀自の賜である。

 最後に殘つてゐるのは、壽阿彌と水戸家との關係である。壽阿彌が水戸家の 用達 ようたし であつたと云ふことは、諸書に載せてある。しかし兩者の關係は必ず此用達の名義に盡きてゐるものとも云ひ にく い。

 新石町の菓子商なる五郎作は富豪の身の上ではなかつたらしい。それがどうして三家の一たる水戸家の用達になつてゐたか。又 剃髮 ていはつ して壽阿彌となり、幕府の連歌師の執筆にせられてから後までも、どうして水戸家との關係が繼續せられてゐたか。これは やゝ 暗黒なる一問題である。