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 天民が加賀から歸る途中の事に就て、壽阿彌はかう云つてゐる。「加賀の歸り高堂の前をば通らねばならぬ處ながら、 直通 すぐどほ りにて、其夜は雲嶺へ投宿のやうに申候、是は一杯飮む故なるべし。」天民の 上戸 じやうご は世の知る所である。此文を見れば、雲嶺も亦酒を たし んだことがわかり、又

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堂が下戸であつたことがわかる。雲嶺は石野氏、名は 世彜 せいい 、一に 世夷 せいい に作る、 あざな 希之 きし 、別に天均又 皆梅 かいばい と號した。 また 駿河の人で詩を善くした。皇朝分類名家絶句等に其作が載せてある。

 皇朝分類名家絶句の事は、わたくしは初め 萩野由之 はぎのよしゆき さんに たゞ して知つた。これがわたくしの雲嶺の石野氏なることを知つた始である。後にわたくしは拙堂文集を讀んでふと「皆梅園記」を見出だした。齋藤拙堂はかう云つてゐる。「 老人姓石氏 らうじんのせいはせきし 本爲市井人 もとしせいじんたり 住藤枝驛 ふぢえだえきにすむ 風流温藉 ふうりうにしてをんせき 以善詩聞於江湖上 しをよくするをもつてこうこのうえにきこゆ 庚子歳余東征 かのえねのとしよとうせいす 過憩驛亭相見 すぎてえきていにいこひあひまみゆ 間晤半日 かんごはんじつ 知其名不虚 そのなのきよならざるをしる 爾來毎門下生往來過驛 じらいもんかせいのわうらいしてえきをすぐるごとに 輙囑訪老人 すなはちしよくしてらうじんをとはしめ 得其近作以覽觀焉 そのきんさくをえてもつてらんくわんす 去年夏余復東征 きよねんなつよまたとうせいす 宿驛亭 えきていにしゆくし 首問老人近状 はじめにらうじんのきんじやうをとふ 驛吏曰 えきりいはく 數年前辭市務 すうねんぜんしむをじし 老於孤山下村 ひとりやましたむらにおゆと 余即往訪之 よすなはちゆきてこれをとふ 從驛中左折數武 えきちゆうよりさせつしてすうぶ 槐花滿地 くわいくわちにみつ 既覺非尋常行蹊 すでにしてじんじやうのかうけいにあらざるをさとる 竹籬茅屋間 ちくりばうをくのかん 得門而入 もんをえている 老人大喜 らうじんおほいによろこぶ 迎飮於其舍 むかへられてそのしやにいんす 園數畝 えんすうほ 經營位置甚工 けいえいのゐちはなはだたくみなり 皆出老人之意匠 みならうじんのいしやうにいづ 有菅神廟林仙祠 くわんしんべうりんせんしあり 各奉祀其主 おのおのそのしゆをほうしす 有賜春館 ししゆんくわんあり 傍植東叡王府所賜之梅 かたはらにとうえいわうふたまふところのうめをうう 其他皆以梅爲名 そのほかみなうめをもつてなとなす 有小香國鶴避茶寮鶯逕戞玉泉等勝 せうかうこくかくひされうあうけいかつぎよくせんとうのしようあり 前對巖田洞雲二山 まへはがんでんどううんにざんにたいし 風煙可愛 ふうえんあいすべく 使人徘徊賞之 ひとをしてはいくわいしこれをしやうせしむ 。」 庚子 かうし は天保十一年で、拙堂は藤堂 高猷 たかゆき 扈隨 こずゐ して津から江戸に おもむ いたのであらう。記を作つたのは安政中の事かとおもはれる。

 天民の年齡は、市河三陽さんの こと に從へば、明和四年生で天保八年に七十一歳を以て終つたことになるから、加賀大阪の旅は六十一歳の時であつた。素通りをせられた

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堂は四十四歳であつた。

 喜多可庵の直話を壽阿彌が聞いて書いたのも、天民と五山との詩の 添削料 てんさくれう の事である。これは首尾の整つた小品をなしてゐるから、全文を載せる。「畫人武清上州 桐生 きりふ 遊候時 あそびそろとき 、桐生の 何某 なにがし 申候には、數年 玉池 ぎよくち へ詩を直してもらひに つかは さふら ども 兎角 とかく 斧正 ふせい

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※漏 そろう にて、時として同字などある時もありてこまり申候、これよりは五山へ 願可申候間 ねがひまうすべくそろあひだ 、先生御紹介 可被下 くださるべく と頼候時、武清申候には、隨分承知致候、歸府の上なり共、當地より文通にてなり共、五山へ 可申込候 まうしこむべくそろ 、しかしながら こゝ に一つの譯合あり、謝物が薄ければ、 疎漏 そろう は五山も同じ事なるべし、矢張 馴染 なじみ の天民へ氣を附て謝物をするがよささうな物と申てわらひ候由、武清はなしに御座候。」武清は可庵の名である。又笑翁とも號した。 文晁 ぶんてう 門で八丁堀に住んでゐた。安永五年生で安政三年に八十一歳で歿した人だから、此話を壽阿彌に書かれた時が五十三歳であつた。玉池は天民がお玉が池に住したからの稱である。菊池五山は壽阿彌と同じく明和六年生で、嘉永二年に八十一歳で歿したから、天民よりは二つの年下で、壽阿彌がこれを書いた時六十歳になつてゐた。

 壽阿彌は天民の話と可庵の話とを書いて、さて 束脩 そくしう の高くなつたことを言つてゐる。其文はかうである。「近年役者の給金のみならず、儒者の束脩までが高くなり、天民貧道など 奚疑塾 けいぎじゆく に居候時分、百 ひき 持た 弟子入 でしいり が參れば、よい入門と申候物が、此頃は天でも五山でも、二 の弟子入はそれ程好いとは思はず、流行はあぢな物に御座候。」壽阿彌は天民と共に山本北山に從學した。奚疑塾は北山の家塾である。北山は寛延三年生で文化九年に六十一歳で歿したから、束脩百疋の時代は、恐らくはまだ二十に滿たぬ天民、壽阿彌が三十幾歳の北山に師事した天明の初年であらう。此手紙は北山歿後十六年に書かれたのである。天は天民の後略である。

 次は壽阿彌が怪我をして名倉の治療を受けた記事になつてゐる。怪我をした時、場所、容體、名倉の診察、治療、名倉の もと 邂逅 かいこう した怪我人等が頗る細かに書いてある。

 時は文政十年七月末で、壽阿彌は をひ の家の板の間から落ちた。そして兩腕を いた めた。「骨は 不碎候 くだけずさふら へ共、兩腕共強く痛め候故」 云々 しか/″\ と云つてある。