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二十二

 清常より後の眞志屋の歴史は いよ/\ 模糊 もこ として來る。しかし大體を論ずれば眞志屋は既に衰替の期に入つてゐると謂ふことが出來る。眞志屋は自ら さゝ ふること あた はざるがために、人の 廡下 ぶか つた。初は「麹町 二本 ふたもと 傳次 方江 かたへ 同居」と云ふことになり、後「傳次不勝手に付金澤丹後方江 又候 またぞろ 同居」と云ふことになつた。

 眞志屋文書に文化以後の書留と覺しき一册子があるが、惜むらくはその載する所の 沙汰書 さたしよ 伺書 うかがひしよ 願書 ねがひしよ 等には多く年月日が けてゐる。

 此等の文に據るに、家道衰微の原因として、表向申し立ててあるのは火災である。「類燒後御菓子製所大破に相成」云々と云つてある。此火災は壽阿彌の手紙にある「類燒」と同一で、文政十年の出來事であつたのだらう。

 さて二本傳次の同居人であつた當時の眞志屋五郎兵衞は、病に依つて二本氏の族人をして家を がしめたらしい。年月日を いた願書に、「願之上親類麹町二本傳次方江同居仕御用向 無滯 とゞこほりなく 相勤候處、當夏中より中風相煩歩行相成兼其上 をひ 鎌作 かまさく 儀病身に付(中略)右傳次方私從弟定五郎と申者江跡式相續 爲仕度 つかまつらせたく (中略)奉願候、 もつとも 從弟儀 いまだ 若年に御座候に付右傳次儀後見仕」云々と云つてある。署名者は眞志屋五郎兵衞、二本傳次の二人である。此願は定て聞き屆けられたであらう。

 しかし十二代清常と此定五郎との接續が不明である。中風になつた五郎兵衞が二十歳で歿した清常でないことは疑を れない。 むことなくば一説がある。同じ册子の定五郎相續願の直前に、同じく年月日を いた沙汰書が載せてある。これは五郎兵衞の病氣のために、伯父久衞門が相續することを 聽許 ていきよ する文である。此五郎兵衞を清常とするときは、十三代久衞門、十四代定五郎となるであらう。

 次に同じ册子に嘉永七 寅霜月 とらのしもつき とした願書があつて、これは眞志屋が既に二本氏から金澤氏に轉寓した後の文である。眞志屋五郎作が金澤方にゐながら、五郎兵衞と改稱したいと云ふので、五郎作の叔父永井榮伯が連署してゐる。此願書が定五郎相續願の直後に載せてあるのを見れば、或は定五郎は相續後に一旦五郎作と稱し、次で金澤氏に寓して、五郎兵衞と改めたのではなからうか。それは兎も角も、山崎久次郎を以て兄とする五郎作は、此文に見えてゐる五郎作即ち永井榮伯の兄の子の五郎作ではなからうか。 ちなみ に云ふ。壽阿彌を請じて源氏物語を講ぜしめた永井榮伯は、眞志屋の親戚であつたことが、此文に徴して知られる。師岡氏未亡人の こと に據れば、わたくしが さき に諸侯の抱醫か町醫かと云つた榮伯は、町醫であつたのである。

 わたくしの眞志屋文書より た所の繼承順序は、 おほむ かく の如きに過ぎない。今にして壽阿彌の手紙を かへりみ ればその 所謂 いはゆる 愚姪 ぐてつ 」は壽阿彌に 家人株 けにんかぶ を買つて貰つた鈴木、師岡、 乃至 ないし 山崎ではなくて、眞志屋十二代清常であつた。鈴木、師岡は伊澤の刀自や師岡未亡人の こと の如く、壽阿彌の妹の子であらう。山崎は やゝ 疑はしい。案ずるに偶然師岡氏と同稱であつた山崎は、某代五郎作の實兄で、鈴木と師岡とは義兄としてこれを遇してゐたのではなからうか。清常に至つては壽阿彌がこれを謂つて てつ となす 所以 ゆゑん つまびらか にすることが出來ない。