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十五

 壽阿彌の手紙に「 愚姪 ぐてつ 」と書してあるのは、山崎、鈴木、師岡の三兄弟中の一人でなくてはならない。それが師岡でなかつたことは明白である。お石さんは夫が生きてゐると大正五年に八十二歳になる筈であつたと云ふ。師岡は天保六年生で、手紙の書かれたのは師岡未生前七年の文政十一年だからである。

 山崎、鈴木の二人は石が嫁した時皆歿してゐたので、石は その よはひ を記憶しない。しかし夫よりは餘程の年上であつたらしいと云ふ。兎に角齡の懸隔は小さからう筈が無い。彼の文政十一年に既に川上宗壽の茶技を評した人は、師岡に比して大いに長じてゐなくてはならない。わたくしは石の言を聞いて、 所謂 いはゆる 愚姪は山崎の方であらうかと思つた。

 若し此推測が當つてゐるとすると、伊澤の刀自の記憶してゐる蒔繪師は、 ひと しく れ壽阿彌の妹の子ではあつても、手紙の中の「愚姪」とは別人でなくてはならない。何故と云ふに石の こと に從へば、蒔繪をしたのは鈴木と師岡とで、山崎は蒔繪をしなかつたさうだからである。

 蒔繪は初め鈴木が修行したさうである。幕府の蒔繪師に 新銀町 しんしろかねちやう と皆川町との鈴木がある。此兩家と うぢ を同じうしてゐるのは、或は故あることかと思ふが、今 にはか に尋ねることは出來ない。次で師岡は兄に此技を學んだ。伊澤の刀自の記憶してゐるすゐさいの號は、鈴木か師岡か不明である。しかしすゐさいの名は石の かつ て聞かぬ名だと云ふから、恐くは兄鈴木の方の號であらう。

 然らば壽阿彌の 終焉 しゆうえん の家は誰の家であつたか。これはどうも師岡の家であつたらしい。「伯父さんは内で亡くなつた」と、石の夫は云つてゐたさうだからである。

  かく の如くに考へて見ると、壽阿彌の手紙にある「愚姪」、伊澤 榛軒 しんけん のために櫛に蒔繪をしたすゐさい、壽阿彌を家に いて生を終らしめた戸主の三人を、山崎、鈴木、師岡の三兄弟で分擔することゝなる。わたくしは此まで考へた時事の奇なるに驚かざるを得なかつた。

 初めわたくしは壽阿彌の手紙を讀んだ時、所謂「愚姪」の女であるべきことを疑はなかつた。俗にをひを せい と書し、めひを てつ と書するからである。しかし石に聞く所に據るに、壽阿彌を小父と呼ぶべき女は一人も無かつたらしいのである。

  爾雅 じが に「男子謂姉妹之子爲出、女子謂姉妹之子爲姪」と云つてある。甥の字はこれに反して頗る多義である。姪は もと 女子の謂ふ所であつても、 公羊傳 くやうでん 舅出 きうしゆつ の語が廣く行はれぬので、漢學者はをひを てつ と書する。そこで 奚疑塾 けいぎじゆく に學んだ壽阿彌は甥と書せずして姪と書したものと見える。此に至つてわたくしは既に新聞紙に刊した文の不用意を悔いた。

 わたくしは石に夫の家の當時の所在を問うた。「わたくしが片附いて參つた時からは始終只今の山伏町の邊にをりました。其頃は組屋敷と申しました」と、石は云ふ。組屋敷とは 黒鍬組 くろくはぐみ の屋敷であらうか。伊澤の刀自が父と共に尋ねた家は、菊屋橋附近であつたと云ふから、 やゝ 離れ過ぎてゐる。師岡氏は弘化頃に菊屋橋附近にゐて、石の嫁して行く文久前に、山伏町邊に うつ つたのではなからうか。

 わたくしの石に問ふべき事は未だ盡きない。落胤問題がある。藤井紋太夫の事がある。谷の音の事がある。