University of Virginia Library

Search this document 

collapse section 
 1. 
 2. 
 3. 
 4. 
 5. 
 6. 
 7. 
 8. 
 9. 
 10. 
 11. 
 12. 
 13. 
 14. 
 15. 
 16. 
 17. 
 18. 
 19. 
 20. 
 21. 
 22. 
 23. 
 24. 
 25. 
 26. 
 27. 
 28. 
 29. 
 30. 
三十
 31. 
 33. 
  

  

三十

 諸書の載する所の壽阿彌の傳には、西村、江間、長島の三つの氏を列擧して、曾て其交互の關係に説き及ぼしたものが無かつた。わたくしは今淺井平八郎さんの もたら し來つた眞志屋文書に據つて、記載のもつれを解きほぐし、 あきら め得らるゝだけの事を明めようと努めた。次で金澤蒼夫さんを訪うて、系譜を けみ し談話を聽き、壽阿彌去後の眞志屋のなりゆきを追尋して、あらゆるトラヂシヨンの絲を斷ち つた維新の期に

[_]
[35]
およ んだ。わたくしの言はむと欲する所のものは ほゞ こゝ に盡きた。

 然るに淺井、金澤兩家の遺物文書の中には、

[_]
[34]※
閲の際にわたくしの目に止まつたものも少く無い。左に其二三を録存することゝする。

 淺井氏のわたくしに示したものゝ中には、壽阿彌の筆跡と稱すべきものが少かつた。 袱紗 ふくさ に記した縁起、西山遺事の書後並に欄外書等は、自筆とは云ひながら はなは だ意を用ゐずして寫した細字に過ぎない。これに反してわたくしは遺物中に、小形の短册二葉を絲で ぢ合せたものゝあるのを見た。其一には「七十九のとしのくれに」と端書して「あすはみむ 八十 やそ のちまたの かど の松」と書し、下に一の壽字が署してある。今一葉には「 八十 やそ になりけるとしのはじめに」と端書して「今朝ぞ見る八十のちまたの門の松」と書し、下に「壽松」と署してある。

 此二句は 書估 しよこ 活東子が戲作者小傳に載せてゐるものと同じである。小傳には猶「月こよひ 枕團子 まくらだんご をのがれけり」と云ふ句もある。活東子は「或年の八月十五夜に、病重く既に終らむとせしに快くなりければ、月今宵云々と書いて孫に遣りけるとぞ」と云つてゐる。

 壽阿彌は嘉永元年八月二十九日に八十歳で歿したから、歳暮の句は弘化四年十二月 晦日 みそか の作、歳旦の句は嘉永元年正月 ついたち の作である。後者は死ぬべき年の元旦の作である。これより推せば、月今宵の句も同じ年の中秋に成つて、後十四日にして やまひ すみやか なるに至つたのではなからうか。活東子は月今宵の句を書いて孫に遣つたと云つてゐるが、壽阿彌には子もなければ孫もなかつただらう。別に「まごひこに別るゝことの」云々と云ふ狂歌が、壽阿彌の辭世として傳へられてゐるが、わたくしは取らない。

 月今宵は少くも 灑脱 しやだつ の趣のある句である。歳暮歳旦の句はこれに反して極て平凡である。しかし萬葉の 百足 もゝた らず八十のちまたを使つてゐるのが、壽阿彌の壽阿彌たる所であらう。

 短册の 手迹 しゆせき を見るに、壽阿彌は能書であつた。字に

[_]
[36]
媚※ びぶ の態があつて、老人の書らしくは見えない。壽の一字を署したのは壽阿彌の省略であらう。壽松の號は他に所見が無い。