壽阿彌の手紙 (Juami no tegami) | ||
三十二
西村廓清の妻島の里親河内屋半兵衞が、西村氏の眞志屋五郎兵衞と共に、 世 ( よゝ ) 水戸家の用達であつたことは、 夙 ( はや ) く海録の記する所である。しかしわたくしは眞志屋の菓子商たるを知つて、河内屋の何商たるを知らなかつた。そのこれを知つたのは、金澤蒼夫さんを訪うた日の事である。
わたくしは蒼夫さんの家に於て一の文書を見た。其中に「河内屋半兵衞、元和中より 麪粉類 ( めんふんるゐ ) 御用相勤」 云々 ( しか/″\ ) の文があつた。河内屋は粉商であつた。島は粉屋の娘であつた。わたくしの新に得た知識は 啻 ( たゞ ) にそれのみではない。河内屋が古くより水戸家の用達をしてゐたとは聞いてゐたが、いつからと云ふことを知らなかつた。その元和以還の用達たることは此文に徴して知られたのである。慶長中に水戸頼房入國の供をしたと云ふ眞志屋の祖先に較ぶれば少しく遲れてゐるが、河内屋も亦早く元和中に威公頼房の用達となつてゐたのである。
金澤氏六代の増田東里には、 弊帚集 ( へいさうしふ ) と題する詩文稿があることを、蒼夫さんに聞いた。わたくしは 卒 ( にはか ) に聞いて弊帚の名の耳に熟してゐるのを怪んだ。後に想へば、水戸の 栗山潜鋒 ( くりやませんぽう ) に弊帚集六卷があつて火災に 罹 ( かゝ ) り、弟 敦恒 ( とんこう ) が其 燼餘 ( じんよ ) を拾つて二卷を爲した。載せて 甘雨亭叢書 ( かんうていそうしよ ) の中にある。東里の集は 偶 ( たま/\ ) これと名を同じうしてゐたのであつた。
わたくしの言はむと欲した所は是だけである。只最後に附記して置きたいのは、師岡未亡人石と東條琴臺の家との關係である。
初め高野氏石に一人の姉があつて、名をさくと云つた。さくは東條琴臺の子 信升 ( しんしよう ) に嫁して、名をふぢと改めた。ふぢの生んだ信升の子は 夭 ( えう ) し、其 女 ( むすめ ) が現存してゐるさうである。
淺井平八郎さんの話に據るに、石は 嘗 ( かつ ) て此縁故あるがために、東條氏の文書を託せられてゐた。文書は石が東條氏の親戚たる下田歌子さんに交付したさうである。
わたくしは琴臺の事蹟を 詳 ( つまびらか ) にしない。聞く所に據れば、琴臺は 信濃 ( しなの ) の人で、名は耕、 字 ( あざな ) は 子臧 ( しざう ) 、 小字 ( をさなな ) は義藏である。寛政七年六月七日芝宇田川町に生れ、明治十一年九月二十七日に八十四歳で歿した。文政七年林氏の門人籍に列し、 昌平黌 ( しやうへいくわう ) に講説し、十年 榊原遠江守政令 ( さかきばらとほたふみのかみまさなり ) に聘せられ、天保三年故あつて林氏の籍を除かれ、弘化四年榊原氏の臣となり、嘉永三年伊豆七島全圖を 著 ( あらは ) して幕府の 譴責 ( けんせき ) を受け、榊原氏の藩邸に幽せられ、四年 謫 ( たく ) せられて越後國高田に往き、 戊辰 ( ぼしん ) の年には 尚 ( なほ ) 高田 幸橋町 ( みゆきばしちやう ) に居つた。明治五年八月に七十八歳で向島 龜戸 ( かめゐど ) 神社の 祠官 ( しくわん ) となり、眼疾のために殆ど失明して終つたと云ふことである。先哲叢談續編に「 先生後獲罪 ( せんせいはのちにつみをえて ) 、 謫在越之高田 ( ながされてえつのたかだにあり ) 、(中略) 無幾王室中興 ( いくばくもなくわうしつちゆうこうす ) 、 先生嘗得列官于朝 ( せんせいはかつてくわんをてうにれつすることをう ) 」と書してある。琴臺の子信升の名は、平八郎さんに由つて始て聞いたのである。
(大正五年五・六月)
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