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 文政十一年二月五日に多町二丁目から出た火事に、大道一筋を境にして東側にあつて類燒を免れた家は、新石町にあつたとするのが殆ど自然であらう。新石町は諸書に見えてゐる眞志屋の菓子店のあつた街である。そこから日輪寺方へ移る時、壽阿彌は菓子店を姪に讓つたのだらう、其時昔の我店が「愚姪方」になつたのだらうと云ふ推測は出て來るのである。

 壽阿彌は し此火事に姪の家が燒けたら、自分は無宿になる筈であつたと云つてゐる。「難澁之段 愁訴可仕 しうそつかまつるべき 水府も、 先達而 せんだつて 丸燒故難澁申出候處無之、無宿に成候筈」 云々 うんぬん と云つてゐる。これは此手紙の中の難句で、 句讀 くとう 次第でどうにも讀み得られるが、わたくしは水府もの下で切つて、丸燒は前年七月の眞志屋の丸燒を すものとしたい。既に一たび丸燒のために救助を仰いだ水戸家に、再び愁訴することは出來ぬと云ふ意味だとしたい。なぜと云ふに丸燒故の下で切ると、水府が丸燒になつたことになる。當時の水戸家は上屋敷が小石川門外、中屋敷が本郷追分、目白の二箇所、下屋敷が 永代新田 えいたいしんでん 、小梅村の二箇所で、此等は火事に逢つてゐないやうである。壽阿彌が水戸家の 用達 ようたし 商人であつたことは、諸書に載せてある通りである。

 壽阿彌の手紙には、 多町 たちやう の火事の條下に、一の奇聞が載せてある。 こゝ に其全文を擧げる。「 永富町 ながとみちやう と申候處の 銅物屋 かなものや 大釜 おほがま の中にて、七人やけ死申候、(原註、 親父 おやぢ 一人、 息子 むすこ 一人、十五歳に成候見せの者一人、 丁穉 でつち 三人、抱への とび の者一人)外に十八歳に成候見せの者一人、丁穉一人、母一人、嫁一人、乳飮子一人、是等は助り申候、十八歳に成候者 愚姪方 ぐてつかた にて 去暮迄 さるくれまで 召仕候女の身寄之者、十五歳に 成候者 なりそろは 愚姪方へ通ひづとめの者の宅の向ふの大工の せがれ に御坐候、此銅物屋の親父夫婦 貪慾 どんよく 強情にて、七年以前 せの手代一人土藏の三階にて腹切相果申候、此度は其恨なるべしと皆人申候、銅物屋の事故大釜二つ見せの前左右にあり、五箇年以前此邊出火之節、向ふ側 ばかり 燒失にて、道幅も格別廣き處故、今度ものがれ 可申 まうすべく 、さ候はば外へ立のくにも及ぶまじと申候に、鳶の者もさ樣に心得、いか樣にやけて參候とも、此大釜二つに水御坐候故、大丈夫助り候由に受合申候、十八歳に成候男は土藏の戸前をうちしまひ、 是迄 これまで はたらき候へば、私方は多町一丁目にて、 此所 ここ よりは火元へも近く候間、宅へ參り働き度、是より 御暇被下 おんいとまくださ れと申候て、自分親元へ働に歸り候故助り申候、此者の一處に居候間の事は演舌にて分り候へども、其跡は推量に御坐候へ共、とかく ぐら 、奧藏などに心のこり、父子共に立のき兼、鳶の者は受合 旁故 かた/″\ゆえ 彼是 かれこれ 仕候内に、火勢強く左右より燃かかり候故、そりや釜の うち よといふやうな事にて釜へ入候處、釜は 沸上 わきあが り、 けぶ りは吹かけ、大釜故入るには つば を足懸りに入候へ共、出るには足がかりもなく、釜は熱く成 かた/″\ にて死に候事と相見え申候、母と嫁と小兒と丁穉一人つれ、貧道弟子 杵屋 きねや 佐吉が裏に親類御坐候而 それ 立退 たちのき 候故助り申候、一つの釜へ父子と丁穉一人、一つの釜へ四人入候て相果申候、此事大評判にて、釜は 檀那寺 だんなでら へ納候へ共、見物 夥敷 おびたゞしく 參候而不外聞の由にて、寺にては(自註、根津 忠綱寺 ちゆうかうじ 一向宗)門を閉候由に御坐候、死の縁無量とは申ながら、餘り變なることに御坐候故、御覽も御面倒なるべくとは 奉存 ぞんじたてまつり 候へ共書付申候。」