University of Virginia Library

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8. 第八

 「心細さは申すまでもなかつたが、卑怯な樣でも修行の積まぬ身には、恁う云う暗い處の方が却つて觀念に便が宜い。何しろ體が凌ぎよくなつたゝめに足の弱も忘れたので、道も大きに捗取つて、先づこれで七分は森の中を越したらうと思ふ處で、五六尺天窓の上らしかつた樹の枝から、ぽたりと笠の上へ落ち留まつたものがある。

 鉛の重かとおもふ心持、何か木の實ででもあるかしらんと、二三度振つて見たが附着いて居て其まゝには取れないから、何心なく手をやつて掴むと、滑らかに冷りと來た。

 見ると海鼠を裂いたやうな目も口もない者ぢやが、動物には違ひない、不氣味で投出さうとするとずる/\と辷つて指の先へ吸ついてぶらりと下つた、其の放れた指の尖から眞赤な美しい血が垂々と出たから、吃驚して目の下へ指をつけてぢつと見ると、今折曲げた肱の處へつるりと垂懸つて居るのは同形をした、巾が五分、丈が三寸ばかりの山海鼠。

 呆氣に取られて見る/\内に、下の方から縮みながら、ぶく/\と太つて行くのは生血をしたたかに吸込む所爲で、濁つた黒い滑らかな肌に茶褐色の縞をもつた、痣胡瓜のやうな血を取る動物、此奴は蛭ぢやよ。

 誰が目にも見違へるわけのものではないが、圖拔て餘り大きいから一寸は氣がつかぬであつた、何の畠でも、甚麼履歴のある沼でも、此位な蛭はあらうとは思はれぬ。

 肱をばさりと振つたけれども、よく喰込んだと見えてなか/\放れさうにしないから、不氣味ながら手で抓んで引切ると、ぷつりといつてやう/\取れる、暫時も耐つたものではない、突然取つて大地へ叩きつけると、これほどの奴等が何萬となく巣をくつて我ものにして居やうといふ處、豫て其の用意はして居ると思はれるばかり、日のあたらぬ森の中の土は柔い、潰れさうにもないのぢや。

 と最早や領のあたりがむず/\して來た、平手で扱で見ると横撫に蛭の背をぬる/\とすべるといふ、やあ、乳の下へ潜んで帶の間にも一疋、蒼くなつてそツと見ると肩の上にも一筋。

 思はず飛上つて總身を震ひながら此の大枝の下を一散にかけぬけて、走りながら先づ心覺えの奴だけは夢中でもぎ取つた。

 何にしても恐しい今の枝には蛭が生つて居るのであらうと、餘の事に思つて振返ると、見返つた樹の何の枝か知らず矢張幾ツといふこともない蛭の皮ぢや。

 これはと思ふ、右も、左も、前の枝も、何の事はないまるで充滿。

 私は思はず恐怖の聲を立てゝ叫んだ、すると何と? 此時は目に見えて、上からぽたり/\と眞黒な瘠せた筋の入つた雨が體へ降かゝつて來たではないか。

 草鞋を穿いた足の甲へも落ちた上へ又累り、並んだ傍へ又附着いて、爪先も分らなくなつた、然うして活きてると思ふだけ脈を打つて血を吸ふやうな、思ひなしか一ツ/\伸縮をするやうなのを見るから氣が遠くなつて、其時不思議な考へが起きた。

 此の恐しい山蛭は神代の古から此處に屯をして居て、人の來るのを待ちつけて、永い久しい間に何の位何斛かの血を吸ふと、其處でこの蟲の望が叶ふ、其の時はありつたけの蛭が不殘吸つただけの人間の血を吐出すと、其がために土がとけて、山一ツ一面に血と泥との大沼にかはるであらう、其と同時に此處に日の光を遮つて晝もなほ暗い大木が切々に一ツ一ツ蛭になつて了うのに相違ないと、いや、全くの事で。」