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第九
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9. 第九

 「凡そ人間が滅びるのは、地球の薄皮が破れて空から火が降るのでもなければ、大海が押被さるのでもない、飛騨國の樹林が蛭になるのが最初で、しまひには皆血と泥の中に筋の黒い蟲が泳ぐ、其が代がはりの世界であらうと、ぼんやり。

 なるほど此の森も入口では何の事もなかつたのに、中へ來ると此通り、もつと奧深く進んだら早や不殘立樹の根の方から朽ちて山蛭になつて居やう、助かるまい、此處で取殺される因縁らしい、取留めのない考へが浮んだのも人が知死期に近づいたからだと、弗と氣が着いた。

 何の道死ぬるものなら一足でも前へ進んで、世間の者が夢にも知らぬ血と泥の大沼の片端でも見て置かうと、然う覺悟が極つては氣味の惡いも何もあつたものぢやない、體中珠數生になつたのを手當次第に掻い除け、むしり棄て、拔き取りなどして、手を擧げ足を踏んで、宛で躍り狂ふ形で歩行き出した。

 はじめの内は一廻も太つたやうに思はれて痒さが耐らなかつたが、しまひにはげつそり瘠せたと感じられてづき/\痛んでならぬ、其上を用捨なく歩行く内にも入交りに襲ひをつた。

 既に目も眩んで倒れさうになると、禍は此邊が絶頂であつたと見えて、隧道を拔けたやうに、遙に一輪のかすれた月を拜んだのは、蛭の林の出口なので。

 いや蒼空の下へ出た時には、何のことも忘れて、碎けろ、微塵になれと横なぐりに體を山路へ打倒した。それでからもう砂利でも針でもあれと地へこすりつけて、十餘りも蛭の死骸を引くりかへした上から、五六間向ふへ飛んで身顫をして突立つた。

 人を馬鹿にして居るではありませんか。あたりの山では處々茅蜩殿、血と泥の大沼にならうといふ森を控へて鳴いてゐる、日は斜、谷底はもう暗い。

 先づこれならば狼の餌食になつても其は一思に死なれるからと、路は丁度だら/\下なり、小僧さん、調子はずれに竹の杖を肩にかついで、すたこら遁げたわ。

 これで蛭に惱まされて痛いのか、痒いのか、それとも擽つたいのか得もいはれぬ苦しみさへなかつたら、嬉しさに獨り飛騨山越の間道で、御經に節をつけて外道踊をやつたであらう、一寸清心丹でも噛碎いて疵口へつけたら何うだと、大分世の中の事に氣がついて來たわ。捻つても確に活返つたのぢやが、夫にしても富山の賣藥は何うしたらう、那の樣子では疾に血になつて泥沼に。皮ばかりの死骸は森の中の暗い處、おまけに意地の汚い下司な動物が骨までしやぶらうと何百といふ數でのしかゝつて居た日には、酢をぶちまけても分る氣遣はあるまい。

 恁う思つてゐる間、件のだら/\坂は大分長かつた。

 其を下り切ると流が聞えて、飛だ處に長さ一間ばかりの土橋がかゝつて居る。

 はや其の谷川の音を聞くと我身で持餘す蛭の吸殻を眞逆に投込んで、水に浸したら嘸可心地であらうと思ふ位、何の渡りかけて壞れたら夫なりけり。

 危いとも思はずにずつと懸る、少しぐら/\としたが難なく越した。向ふから又坂ぢや、今度は上りさ、御苦勞千萬。」