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第十
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10. 第十

 「到底も此の疲れやうでは、坂を上るわけには行くまいと思つたが、ふと前途に、ヒイインと馬の嘶くのが谺して聞えた。

 馬子が戻るのか小荷駄が通るか、今朝一人の百姓に別れてから時の經つたは僅ぢやが、三年も五年も同一ものをいふ人間とは中を隔てた。馬が居るやうでは左も右も人里に縁があると、之がために氣が勇んで、えゝやつと今一揉。

 一軒の山家の前へ來たのには、然まで難儀は感じなかつた、夏のことで戸障子の締もせず、殊に一軒家、あけ開いたなり、門といふてもない、突然破縁になつて男が一人、私はもう何の見境もなく、

(頼みます、頼みます、)といふさへ助を呼ぶやうな調子で、取縋らぬばかりにした。

(御免なさいまし、) といつたがものもいはない、首筋をぐつたりと、耳を肩で塞ぐほど顏を横にしたまゝ小兒らしい、意味のない、然もぽつちりした目で、ぢろ/\と門に立つたものを瞻める、其の瞳を動かすさい、おつくうらしい、氣の拔けた身の持方、裾短かで袖は肱より少い、糊氣のある、ちやん/\を着て、胸のあたりで紐で結へたが、一ツ身のものを着たやうに出ツ腹の太り肉、太鼓を張つたくらゐに、すべ/\とふくれて然も出臍といふ奴、南瓜の蔕ほどな異形な者を、片手でいぢくりながら幽靈の手つきで、片手を宙にぶらり。

 足は忘れたか投出した、腰がなくば暖簾を立てたやうに疊まれさうな、年紀が其で居て二十二三、口をあんぐりやつた上脣で卷込めやう、鼻の低さ、出額。五分刈の伸びたのが前は鷄冠の如くになつて、領脚へ刎ねて耳に被つた、唖か、白痴か、これから蛙にならうとするやうな少年。私は驚いた、此方の生命に別條はないが、先方樣の形相。いや、大別條。

(一寸お願ひ申します。)

 それでも爲方がないから又言葉をかけたが少しも通ぜず、ばたりといふと僅に首の位置をかへて今度は左の肩を枕にした、口の開いてること舊の如し。

 恁う云ふのは、惡くすると突然ふんづかまへて臍を捻りながら返事のかはりに甞めやうも知れぬ。

 私は一足退つたが、いかに深山だといつても是を一人で置くといふ法はあるまい、と足を爪立てゝ少し聲高に、

(何方ぞ、御免なさい。)といつた。

 脊戸と思ふあたりで再び馬の嘶く聲。

(何方。)と納戸の方でいつたのは女ぢやから、南無三寶、此の白い首には鱗が生えて、體は床を這つて尾をずる/\と引いて出ようと、又退つた。

(おゝ、御坊樣。)と立現はれたのは小造の美しい、聲も清しい、ものやさしい。

 私は大息を吐いて、何にもいはず、

(はい。)と頭を下げましたよ。

 婦人は膝をついて坐つたが、前へ伸上るやうにして黄昏にしよんぼり立つた私が姿を透かしてみて、

(何か御用でござんすかい。)

 休めともいはずはじめから宿の常世は留守らしい、人を泊めないと極めたものゝやうに見える。

 いひ後れては却つて出そびれて頼むにも頼まれぬ仕誼にもなることゝ、つか/\と前へ出た。

 丁寧に腰を屈めて、

(私は、山越で信州へ參ります者ですが旅籠のございます處までは未だ何の位ございませう。)」