第十一 高野聖 (Koyahijiri) | ||
11. 第十一
(貴方まだ八里餘でございますよ。)
(其他に別に泊めてくれます家もないのでせうか。)
(其はございません。)といひながら目たゝきもしない清しいで目で私の顏をつく%\見て居た。
(いえもう何でございます、實は此先一町行け、然うすれば上段の室に寢かして一晩扇いで居て其で功徳のためにする家があると承りましても、全くの處一足も歩行けますのではございません、何處の物置でも馬小屋の隅でも宜いのでございますから、後生でございます。)と先刻馬の嘶いたのは此家より外にはないと思つたから言つた。
婦人は暫く考へて居たが、弗と傍を向いて布の袋を取つて、膝のあたりに置いた桶の中へざらざらと一巾、水を溢すやうにあけて縁をおさへて、手で掬つて俯向いて見たが、
(あゝ、お泊め申しませう、丁度炊いてあげますほどお米もございますから、其に夏のことで、山家は冷えましても夜のものに御不自由もござんすまい。さあ、左も右もあなた、お上り遊ばして。)
といふと言葉の切れぬ先にどつかりと腰を落した。婦人は衝と身を起して立つて來て、
(御坊樣、それでござんすが一寸お斷り申して置かねばなりません。)
判然いはれたので私はびく/\もので、
(唯、はい。)
(否、別のことぢやござんせぬが、私は癖として都の話を聞くのが病でございます、口に蓋をしておいでなさいましても無理やりに聞かうといたしますが、あなた忘れても其時聞かして下さいますな、可うござんすかい、私は無理にお尋ね申します、あなたは何うしてもお話しなさいませぬ、其を是非にと申しましても斷つて仰有らないやうに吃と念を入れて置きますよ。)
と仔細ありげなことをいつた。
山の高さも谷の深さも底の知れない一軒家の婦人の言葉とは思うたが、保つにむづかしい戒でもなし、私は唯頷くばかり。
(唯、宜しうございます、何事も仰有りつけは背きますまい。)
婦人は言下に打解けて、
(さあ/\汚うございますが早く此方へ、お寛ぎなさいまし、然うしてお洗足を上げませうかえ。)
(いえ、其には及びませぬ、雜巾をお貸し下さいまし。あゝ、それからもし其のお雜巾次手にづツぷりお絞んなすつて下さると助ります、途中で大變な目に逢ひましたので體を打棄りたいほど氣味が惡うございますので、一ツ背中を拭かうと存じますが、恐入りますな。)
(然う、汗におなりなさいました、嘸ぞまあ、お暑うござんしたでせう、お待ちなさいまし、旅籠へお着き遊ばして湯にお入りなさいますのが、旅するお方には何より御馳走だと申しますね、湯どころか、お茶さへ碌におもてなしもいたされませんが、那の、此の裏の崖を下りますと、綺麗な流がございますから一層其へ行らつしやツてお流しが宜うごぜいませう。)
聞いただけでも飛でも行きたい。
(えゝ、其は何より結構でございますな。)
(さあ、其では御案内申しませう、どれ、丁度私も米を磨ぎに參ります。)と件の桶を小脇に抱へて、縁側から、藁草履を穿いて出たが、屈んで板縁の下を覗いて、引出したのは一足の古下駄で、かちりと合はして埃を拂いて揃へて呉れた。
(お穿きなさいまし、草鞋は此處にお置きなすつて、)
私は手をあげて、一禮して、
(恐入ります、これは何うも、)
(お泊め申すとなりましたら、あの、他生の縁とやらでござんす、あなた御遠慮を遊ばしますなよ。)
先づ恐ろしく調子が可いぢやて。」
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