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5. 第五
「前刻の茶店から此處へ來るまで、賣藥の外は誰にも逢はなんだことは申上げるまでもない。
今別れ際に聲を懸けられたので、先方は道中の商賣人と見たゞけに、まさかと思つても氣迷がするので、今朝も立ちぎはによく見て來た、前にも申す、其の圖面をな、此處でも開けて見ようとして居た處。
(一寸伺ひたう存じますが、)
(これは何でござりまする、)と山國の人などは殊に出家と見ると丁寧にいつてくれる。
(いえ、お伺ひ申しますまでもございませんが、道は矢張これを素直に參るのでございませうな。)
(松本へ行かつしやる? あゝ/\本道ぢや、何ね此間の梅雨に水が出て、とてつもない川さ出來たでがすよ。)
(未だずつと何處までも此水でございませうな。)
(何のお前樣、見たばかりぢや、譯はござりませぬ、水になつたのは向ふの那の藪迄で、後は矢張これと同一道筋で、山までは荷車が並んで通るでがす。藪のあるのは舊大きいお邸の醫者樣の跡でな、此處等はこれでも一ツの村でがした、十三年前の大水の時、から一面に野良になりましたよ。人死もいけえこと。御坊樣歩行きながらお念佛でも唱へて遣つてくれさつしやい。)と問はぬことまで親切に話します。其で能く仔細が解つて確になりはなつたけれども、現に一人蹈迷つた者もある。
(此方の道はこりや何處へ行くので、)といつて賣藥の入つた左手の坂を尋ねて見た。
(はい、これは五十年ばかり前までは人が歩行いた舊道でがす。矢張信州へ出まする、前は一つで七里ばかり總體近うござりますが、いや今時往來の出來るのぢやあござりませぬ。去年もお坊樣、親子連の巡禮が間違へて入つたといふで、はれ大變な、乞食を見たやうな者ぢやというて、人命に代りはねえ、追かけて助けべいと、巡査樣が三人、村の者が十二人、一組になつて之から押登つて、やつと連れて戻つた位でがす。御坊樣も血氣に逸つて近道をしてはなりましねえぞ、草臥れて野宿をしてからが此處を行かつしやるよりは増でござるに。はい、氣を着けて行かつしやれ。)
此處で百姓に別れて其の川の石の上を行かうとしたが弗と猶豫つたのは賣藥の身の上で。
まさかに聞いたほどでもあるまいが、其が本當ならば見殺ぢや、何の道私は出家の體、日が暮れるまでに宿へ着いて屋根の下に寢るには及ばぬ、追着いて引戻して遣らう。罷違うて舊道を皆歩行いても怪しうはあるまい、恁ういふ時候ぢや、狼の春でもなく、魑魅魍魎の汐さきでもない、まゝよ、と思うて、見送ると早や親切な百姓の姿も見えぬ。
(可し。)
思切つて坂道を取つて懸つた、侠氣があつたのではござらぬ、血氣に逸つたでは固よりない、今申したやうではずつと最う悟つたやうぢやが、いやなか/\の臆病者、川の水を飮むのさへ氣が怯けたほど生命が大事で、何故又と謂はつしやるか。
唯挨拶をしたばかりの男なら、私は實の處、打棄つて置いたに違ひはないが、快からぬ人と思つたから、其まゝに見棄てるのが、故とするやうで、氣が責めてならなんだから、」
と宗朝は矢張俯向けに床に入つたまゝ合掌していつた。
「其では口でいふ念佛にも濟まぬと思うてさ。」
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