伯爵の釵
泉鏡花 (Hakushaku no kanzashi) | ||
七
明眸 ( めいぼう ) の左右に 樹立 ( こだち ) が分れて、 一条 ( ひとすじ ) の大道、炎天の 下 ( もと ) に 展 ( ひら ) けつつ、 日盛 ( ひざかり ) の町の大路が望まれて、 煉瓦造 ( れんがづくり ) の避雷針、古い 白壁 ( しらかべ ) 、寺の塔など 睫 ( まつげ ) を 擽 ( こそぐ ) る中に、行交う人は点々と 蝙蝠 ( こうもり ) のごとく、電車は光りながら 山椒魚 ( さんしょううお ) の 這 ( は ) うのに似ている。
忘れもしない、限界のその突当りが、 昨夜 ( ゆうべ ) まで、我あればこそ、 電燭 ( でんしょく ) のさながら水晶宮のごとく輝いた劇場であった。
ああ、 一翳 ( いちえい ) の雲もないのに、緑紫 紅 ( くれない ) の旗の影が、ぱっと空を 蔽 ( おお ) うまで、花やかに目に飜った、と見ると 颯 ( さっ ) と近づいて、眉に近い樹々の枝に色鳥の 種々 ( いろいろ ) の影に映った。
蓋 ( けだ ) し劇場に向って、高く 翳 ( かざ ) した手の指環の、玉の 矜 ( ほこり ) の 幻影 ( まぼろし ) である。
紫玉は、瞳を返して、 華奢 ( きゃしゃ ) な指を、 俯向 ( うつむ ) いて 視 ( み ) つつ 莞爾 ( にっこり ) した。
そして、すらすらと石橋を 前方 ( むこう ) へ渡った。それから、森を通る、姿は 翠 ( みどり ) に青ずむまで、 静 ( しずか ) に落着いて見えたけれど、二ツ三ツ 重 ( かさな ) った不意の出来事に、心の騒いだのは争われない。…… 涼傘 ( ひがさ ) を置忘れたもの。……
森を高く抜けると、三国 見霽 ( みはら ) しの一面の広場になる。 赫 ( かっ ) と射る日に、 手廂 ( てびさし ) してこう 視 ( なが ) むれば、松、桜、梅いろいろ樹の 状 ( さま ) 、枝の 振 ( ふり ) の、 各自 ( おのおの ) 名ある神仙の形を映すのみ。幸いに 可忌 ( いまわし ) い坊主の影は、公園の一 木 ( ぼく ) 一草をも妨げず。また……人の 往来 ( ゆきか ) うさえほとんどない。
一処 ( ひとところ ) 、大池があって、朱塗の船の、 漣 ( さざなみ ) に、浮いた 汀 ( みぎわ ) に、盛装した 妙齢 ( としごろ ) の派手な女が、 番 ( つがい ) の 鴛鴦 ( おしどり ) の宿るように目に留った。
真白な顔が、揃ってこっちを向いたと思うと。
「あら、お嬢様。」
「お師匠さーん。」
一人がもう、空気草履の、 媚 ( なまめ ) かしい 褄捌 ( つまさば ) きで駆けて来る。目鼻は玉江。……もう一人は玉野であった。
紫玉は故郷へ帰った気がした。
「不思議な処で、と言いたいわね。見ぶつかい。」
「ええ、観光団。」
「何を 悪戯 ( いたずら ) をしているの、お前さんたち。」
と連立って寄る、汀に居た玉野の手には、 船首 ( みよし ) へ掛けつつ 棹 ( さお ) があった。
舷 ( ふなばた ) は 藍 ( あい ) 、 萌黄 ( もえぎ ) の翼で、 頭 ( かしら ) にも尾にも 紅 ( べに ) を塗った、 鷁首 ( げきしゅ ) の船の屋形造。 玩具 ( おもちゃ ) のようだが四五人は乗れるであろう。
「お嬢様。おめしなさいませんか。」
聞けば、向う岸の、むら萩に 庵 ( いおり ) の見える、 船主 ( ふなぬし ) の料理屋にはもう交渉済で、二人は慰みに、これから 漕出 ( こぎだ ) そうとする処だった。……お前さんに漕げるかい、と 覚束 ( おぼつか ) なさに念を押すと、浅くて棹が届くのだから 仔細 ( しさい ) ない。ただ、一ケ所底の知れない 深水 ( ふかみず ) の穴がある。 竜 ( たつ ) の口と 称 ( とな ) えて、ここから下の滝の 伏樋 ( ふせどい ) に通ずるよし言伝える、……危くはないけれど、そこだけは 除 ( よ ) けたが 可 ( よ ) かろう、と、……こんな事には気軽な玉江が、つい駆出して 仕誼 ( ことわり ) を言いに行ったのに、料理屋の女中が、わざわざ出て来て注意をした。
「あれ、あすこですわ。」と玉野が 指 ( ゆびさ ) す、大池を 艮 ( うしとら ) の 方 ( かた ) へ寄る処に、板を浮かせて、小さな 御幣 ( ごへい ) が立っていた。 真中 ( まんなか ) の 築洲 ( つきず ) に鶴ケ島というのが見えて、 祠 ( ほこら ) に竜神を 祠 ( まつ ) ると聞く。……鷁首の船は、その島へ志すのであるから、滝の口は近寄らないで済むのであったが。
「乗ろうかね。」
と紫玉はもう 褄 ( つま ) を巻くように、 爪尖 ( つまさき ) を揃えながら、
「でも何だか。」
「あら、なぜですえ。」
「御幣まで立って警戒をした処があっちゃあ、遠くを離れて漕ぐにしても、船頭が船頭だから気味が悪いもの。」
「いいえ、あの御幣は、そんなおどかしじゃありませんの。不断は何にもないんだそうですけれど、二三日前、誰だか雨乞だと言って立てたんだそうですの、この 旱 ( ひでり ) ですから。」
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