伯爵の釵
泉鏡花 (Hakushaku no kanzashi) | ||
十一
翌日の午後の公園は、炎天の下に雲よりは早く黒くなって人が湧いた。 煉瓦 ( れんが ) を 羽蟻 ( はあり ) で包んだような 凄 ( すさま ) じい群集である。
かりに、鎌倉殿としておこう。この……県に 成上 ( なりあがり ) の豪族、色好みの男爵で、 面構 ( つらがまえ ) も 風采 ( ふうつき ) も 巨頭公 ( あたまでっかち ) によう似たのが、 劇 ( しばい ) 興行のはじめから他に手を貸さないで紫玉を 贔屓 ( ひいき ) した、既に 昨夜 ( ゆうべ ) もある処で一所になる約束があった。その 間 ( ま ) の時間を、紫玉は微行したのである。が、思いも掛けない出来事のために、大分の 隙入 ( ひまいり ) をしたものの、船に飛んだ鯉は、そのよしを言づけて初穂というのを、氷詰めにして、紫玉から鎌倉殿へ 使 ( つかい ) を走らせたほどなのであった。――
車の通ずる処までは、もう自動車が来て待っていて、やがて、相会すると、ある時間までは附添って差支えない女弟子の口から、 真先 ( まっさき ) に予言者の不思議が漏れた。
一議に及ばぬ。
その 夜 ( よ ) のうちに、池の島へ 足代 ( あじろ ) を組んで、朝は早や法壇が調った。無論、略式である。
県社の神官に、故実の詳しいのがあって、神燈を調え、 供饌 ( ぐせん ) を捧げた。
島には鎌倉殿の 定紋 ( じょうもん ) ついた 帷幕 ( まんまく ) を 引繞 ( ひきめぐ ) らして、威儀を正した 夥多 ( あまた ) の神官が詰めた。紫玉は、さきほどからここに控えたのである。
あの、底知れずの水に浮いた御幣は、やがて壇に登るべき 立女形 ( たておやま ) に対して 目触 ( めざわ ) りだ、と逸早く 取退 ( とりの ) けさせ、 樹立 ( こだち ) さしいでて蔭ある水に、例の 鷁首 ( げきしゅ ) の船を 泛 ( うか ) べて、半ば紫の幕を絞った 裡 ( うち ) には、鎌倉殿をはじめ、客分として、県の顕官、勲位の人々が、杯を置いて 籠 ( こも ) った。――雨乞に参ずるのに、杯をめぐらすという故実は聞かぬが、しかし事実である。
伶人 ( れいじん ) の奏楽一順して、ヒュウと 簫 ( しょう ) の 音 ( ね ) の虚空に響く時、柳の葉にちらちらと 緋 ( ひ ) の 袴 ( はかま ) がかかった。
群集は波を 揉 ( も ) んで 動揺 ( なだれ ) を打った。
あれに 真白 ( まっしろ ) な足が、と疑う、緋の袴は一段、 階 ( きざはし ) に 劃 ( しき ) られて、 二条 ( ふたすじ ) の 紅 ( べに ) の霞を 曳 ( ひ ) きつつ、上紫に下 萌黄 ( もえぎ ) なる、蝶鳥の 刺繍 ( ぬい ) の 狩衣 ( かりぎぬ ) は、緑に透き、葉に 靡 ( なび ) いて、柳の中を、するすると、容顔美麗なる白拍子。紫玉は、色ある月の風情して、一千の花の 燈 ( ともし ) の影、百を数うる雪の供饌に向うて法壇の正面にすらりと立つ。
花火の中から、天女が 斜 ( ななめ ) に流れて出ても、群集はこの時くらい驚異の念は起すまい。
烏帽子もともにこの装束は、織ものの模範、美術の 表品 ( ひょうほん ) 、源平時代の参考として、かつて博覧会にも飾られた、鎌倉殿が秘蔵の、いずれ 什物 ( じゅうもつ ) であった。
さて、遺憾ながら、この晴の舞台において、紫玉のために記すべき 振事 ( ふりごと ) は更にない。 渠 ( かれ ) は学校出の女優である。
が、姿は天より 天降 ( あまくだ ) った 妙 ( たえ ) に 艶 ( えん ) なる乙女のごとく、国を囲める、その赤く黄に 爛 ( ただ ) れたる 峰岳 ( みねたけ ) を貫いて、高く柳の間に 懸 ( かか ) った。
紫玉は 恭 ( うやうや ) しく三たび 虚空 ( なかぞら ) を拝した。
時に、 宮奴 ( みややっこ ) の 装 ( よそおい ) した 白丁 ( はくちょう ) の下男が一人、露店の 飴屋 ( あめや ) が張りそうな、渋の 大傘 ( おおからかさ ) を畳んで肩にかついだのが、法壇の根に 顕 ( あらわ ) れた。――これは 怪 ( け ) しからず、天津乙女の威厳と、場面の神聖を 害 ( そこな ) って、どうやら 華魁 ( おいらん ) の道中じみたし、雨乞にはちと行過ぎたもののようだった。が、何、降るものと 極 ( きま ) れば、雨具の用意をするのは賢い。……加うるに、紫玉が 被 ( かつ ) いだ装束は、貴重なる 宝物 ( ほうもつ ) であるから、 驚破 ( すわ ) と言わばさし掛けて濡らすまいための、鎌倉殿の内意であった。
――さればこそ、このくらい、注意の役に立ったのはあるまい。――
あわれ、身のおき処がなくなって、紫玉の 裾 ( すそ ) が法壇に崩れた時、「 状 ( ざま ) を見ろ。」「や、身を投げろ。」「飛込め。」――わッと群集の騒いだ時、…… 堪 ( たま ) らぬ、と飛上って、紫玉を 圧 ( おさ ) えて、 生命 ( いのち ) を取留めたのもこの下男で、同時に狩衣を 剥 ( は ) ぎ、緋の袴の紐を 引解 ( ひきほど ) いたのも――鎌倉殿のためには 敏捷 ( びんしょう ) な、忠義な 奴 ( やつ ) で――この下男である。
雨はもとより、風どころか、 余 ( あまり ) の人出に、大池には 蜻蛉 ( とんぼ ) も飛ばなかった。
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