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――水のすぐれ覚ゆるは、

西天竺 せいてんじく 白鷺池 はくろち

じんじょうきょゆうにすみわたる、

昆明池 こんめいち の水の色、

行末 ゆくすえ 久しく むとかや。

「お待ち。」

 紫玉は耳を すま した。道の露芝、曲水の汀にして、さらさらと音する ながれ の底に、聞きも知らぬ三味線の、沈んだ、陰気な調子に合せて、 かすか に唄う声がする。

「――坊さんではないかしら……」

 紫玉は胸が とどろ いた。

 あの 漂泊 さすらい の芸人は、鯉魚の神秘を た紫玉の身には、もはや、うみ汁のごとく、 つば よだれ の臭い乞食坊主のみではなかったのである。

「……あの、三味線は、」

 夜陰のこんな場所で、もしや、と思う時、 掻消 かきき えるように音が んで、ひたひたと小石を くぐ って響く水は、忍ぶ 跫音 あしおと のように聞える。

 紫玉は立留まった。

 再び、名もきかぬ三味線の音が陰々として響くと、

――日本一にて候ぞと申しける。鎌倉殿ことごとしや、 何処 いずこ にて舞いて日本一とは申しけるぞ。梶原申しけるは、 一歳 ひととせ 百日の ひでり の候いけるに、 賀茂川 かもがわ 桂川 かつらがわ 水瀬 みなせ 切れて流れず、筒井の水も絶えて、国土の悩みにて候いけるに、――

 聞くものは耳を澄まして袖を合せたのである。

―― 有験 うげん の高僧貴僧百人、神泉苑の池にて、 仁王経 にんのうきょう を講じ奉らば、八大竜王も 慈現納受 じげんのうじゅ たれ給うべし、と申しければ、百人の高僧貴僧を しょう じ、仁王経を講ぜられしかども、その しるし もなかりけり。また ある 人申しけるは、容顔美麗なる 白拍子 しらびょうし を、百人めして、――

「御坊様。」

 今は疑うべき心も せて、御坊様、と呼びつつ、紫玉が暗中を すか して、声する かた に、 すが るように寄ると思うと、

を消せ。」

 と、 びたが力ある声して言った。

提灯 ちょうちん を……」

「は、」と、返事と息を、はッはッとはずませながら、一度 消損 けしそこ ねて、 あわただ しげに吹消した。玉野の手は震えていた。

――百人の白拍子をして舞わせられしに、九十九人舞いたりしに、その験もなかりけり。 しずか 一人舞いたりとても、竜神 示現 じげん あるべきか。 内侍所 ないしどころ に召されて、 ろく おもきものにて候にと申したりければ、とても 人数 ひとかず なれば、ただ舞わせよと仰せ下されければ、静が舞いたりけるに、しんむしょうの曲という白拍子を、――

  を消すと、あたりがかえって 朦朧 もうろう と、薄く鼠色に ほの めく向うに、石の 反橋 そりばし の欄干に、 僧形 そうぎょう の墨の 法衣 ころも 、灰色になって、 うずくま るか、と視れば欄干に 胡坐 あぐら いて唄う。

 橋は心覚えのある石橋の 巌組 いわぐみ である。気が着けば、あの、かくれ滝の音は遠くどうどうと鳴って、風のごとくに響くが、 かす れるほどの糸の も乱れず、唇を合すばかりの唄も遮られず、嵐の下の虫の声。が、形は著しいものではない、胸をくしゃくしゃと折って、坊主頭を、がく、と 俯向 うつむ けて唄うので、 うなじ いた 転軫 てんじん かか る手つきは、鬼が角を はじ くと言わば いか めしい、むしろ黒猫が居て顔を洗うというのに適する。

――なから舞いたりしに、 御輿 みこし たけ 愛宕山 あたごやま かた より黒雲にわかに 出来 いでき て、 洛中 らくちゅう にかかると見えければ、――

 と唄う。……紫玉は腰を折って地に低く居て、弟子は、その 背後 うしろ しゃが んだ。

――八大竜王鳴渡りて、稲妻ひらめきしに、諸人目を驚かし、三日の洪水を流し、国土安穏なりければ、さてこそ静の舞に示現ありけるとて、日本一と宣旨を たまわ りけると、承り候。――

 時に唄を めて黙った。

「太夫様。」

 余り尋常な、ものいいだったが、

「は、」と、 呼吸 いき をひいて答えた紫玉の、 身動 みじろ ぎに、帯がキと擦れて鳴ったほど、深く身に響いて聞いたのである。

癩坊主 かったいぼうず が、ねだり言を うけご うて、千金の釵を棄てられた。その 心操 こころばえ に感じて、 些細 ささい ながら、礼心に と内証の事を申す。 貴女 あなた 、雨乞をなさるが い。――天の時、地の利、人の和、まさしく時節じゃ。――ここの大池の中洲の島に、かりの法壇を設けて、雨を祈ると触れてな。…… はかま 練衣 ねりぎぬ 烏帽子 えぼし 狩衣 かりぎぬ 白拍子 しらびょうし の姿が かろう。衆人めぐり見る中へ、その姿をあの島の柳の上へ高く あらわ し、大空へ向って拝をされい。 祭文 さいもん にも歌にも及ばぬ。天竜、雲を り、 らい を放ち、雨を みなぎ らすは、明午を過ぎて さる の上刻に 分豪 ふんごう も相違ない。国境の山、赤く、黄に、 峰岳 みねたけ を重ねて ただ れた奥に、白蓮の花、玉の たなそこ ほどに白く そび えたのは、 四時 しじ に雪を頂いて幾万年の 白山 はくさん じゃ。貴女、時を計って、その 鸚鵡 おうむ の釵を抜いて、山の 其方 そなた に向って かざ すを合図に、雲は竜のごとく いて出よう。――なおその上に、 いか、名を挙げられい。……」

―― 賢人 かしこびと の釣を垂れしは、

厳陵瀬 げんりょうらい の河の水。

月影ながらもる夏は、

山田の かけひ の水とかや。――……