伯爵の釵
泉鏡花 (Hakushaku no kanzashi) | ||
十
――水のすぐれ覚ゆるは、
西天竺 ( せいてんじく ) の 白鷺池 ( はくろち ) 、
じんじょうきょゆうにすみわたる、
昆明池 ( こんめいち ) の水の色、
行末 ( ゆくすえ ) 久しく 清 ( す ) むとかや。
「お待ち。」
紫玉は耳を 澄 ( すま ) した。道の露芝、曲水の汀にして、さらさらと音する 流 ( ながれ ) の底に、聞きも知らぬ三味線の、沈んだ、陰気な調子に合せて、 微 ( かすか ) に唄う声がする。
「――坊さんではないかしら……」
紫玉は胸が 轟 ( とどろ ) いた。
あの 漂泊 ( さすらい ) の芸人は、鯉魚の神秘を 視 ( み ) た紫玉の身には、もはや、うみ汁のごとく、 唾 ( つば ) 、 涎 ( よだれ ) の臭い乞食坊主のみではなかったのである。
「……あの、三味線は、」
夜陰のこんな場所で、もしや、と思う時、 掻消 ( かきき ) えるように音が 留 ( や ) んで、ひたひたと小石を 潜 ( くぐ ) って響く水は、忍ぶ 跫音 ( あしおと ) のように聞える。
紫玉は立留まった。
再び、名もきかぬ三味線の音が陰々として響くと、
――日本一にて候ぞと申しける。鎌倉殿ことごとしや、 何処 ( いずこ ) にて舞いて日本一とは申しけるぞ。梶原申しけるは、 一歳 ( ひととせ ) 百日の 旱 ( ひでり ) の候いけるに、 賀茂川 ( かもがわ ) 、 桂川 ( かつらがわ ) 、 水瀬 ( みなせ ) 切れて流れず、筒井の水も絶えて、国土の悩みにて候いけるに、――
聞くものは耳を澄まして袖を合せたのである。
―― 有験 ( うげん ) の高僧貴僧百人、神泉苑の池にて、 仁王経 ( にんのうきょう ) を講じ奉らば、八大竜王も 慈現納受 ( じげんのうじゅ ) たれ給うべし、と申しければ、百人の高僧貴僧を 請 ( しょう ) じ、仁王経を講ぜられしかども、その 験 ( しるし ) もなかりけり。また 或 ( ある ) 人申しけるは、容顔美麗なる 白拍子 ( しらびょうし ) を、百人めして、――
「御坊様。」
今は疑うべき心も 失 ( う ) せて、御坊様、と呼びつつ、紫玉が暗中を 透 ( すか ) して、声する 方 ( かた ) に、 縋 ( すが ) るように寄ると思うと、
「 燈 ( ひ ) を消せ。」
と、 蕭 ( さ ) びたが力ある声して言った。
「 提灯 ( ちょうちん ) を……」
「は、」と、返事と息を、はッはッとはずませながら、一度 消損 ( けしそこ ) ねて、 慌 ( あわただ ) しげに吹消した。玉野の手は震えていた。
――百人の白拍子をして舞わせられしに、九十九人舞いたりしに、その験もなかりけり。 静 ( しずか ) 一人舞いたりとても、竜神 示現 ( じげん ) あるべきか。 内侍所 ( ないしどころ ) に召されて、 禄 ( ろく ) おもきものにて候にと申したりければ、とても 人数 ( ひとかず ) なれば、ただ舞わせよと仰せ下されければ、静が舞いたりけるに、しんむしょうの曲という白拍子を、――
燈 ( ひ ) を消すと、あたりがかえって 朦朧 ( もうろう ) と、薄く鼠色に 仄 ( ほの ) めく向うに、石の 反橋 ( そりばし ) の欄干に、 僧形 ( そうぎょう ) の墨の 法衣 ( ころも ) 、灰色になって、 蹲 ( うずくま ) るか、と視れば欄干に 胡坐 ( あぐら ) 掻 ( か ) いて唄う。
橋は心覚えのある石橋の 巌組 ( いわぐみ ) である。気が着けば、あの、かくれ滝の音は遠くどうどうと鳴って、風のごとくに響くが、 掠 ( かす ) れるほどの糸の 音 ( ね ) も乱れず、唇を合すばかりの唄も遮られず、嵐の下の虫の声。が、形は著しいものではない、胸をくしゃくしゃと折って、坊主頭を、がく、と 俯向 ( うつむ ) けて唄うので、 頸 ( うなじ ) を 抽 ( ぬ ) いた 転軫 ( てんじん ) に 掛 ( かか ) る手つきは、鬼が角を 弾 ( はじ ) くと言わば 厳 ( いか ) めしい、むしろ黒猫が居て顔を洗うというのに適する。
――なから舞いたりしに、 御輿 ( みこし ) の 岳 ( たけ ) 、 愛宕山 ( あたごやま ) の 方 ( かた ) より黒雲にわかに 出来 ( いでき ) て、 洛中 ( らくちゅう ) にかかると見えければ、――
と唄う。……紫玉は腰を折って地に低く居て、弟子は、その 背後 ( うしろ ) に 蹲 ( しゃが ) んだ。
――八大竜王鳴渡りて、稲妻ひらめきしに、諸人目を驚かし、三日の洪水を流し、国土安穏なりければ、さてこそ静の舞に示現ありけるとて、日本一と宣旨を 給 ( たまわ ) りけると、承り候。――
時に唄を 留 ( や ) めて黙った。
「太夫様。」
余り尋常な、ものいいだったが、
「は、」と、 呼吸 ( いき ) をひいて答えた紫玉の、 身動 ( みじろ ) ぎに、帯がキと擦れて鳴ったほど、深く身に響いて聞いたのである。
「 癩坊主 ( かったいぼうず ) が、ねだり言を 肯 ( うけご ) うて、千金の釵を棄てられた。その 心操 ( こころばえ ) に感じて、 些細 ( ささい ) ながら、礼心に 密 ( そ ) と内証の事を申す。 貴女 ( あなた ) 、雨乞をなさるが 可 ( よ ) い。――天の時、地の利、人の和、まさしく時節じゃ。――ここの大池の中洲の島に、かりの法壇を設けて、雨を祈ると触れてな。…… 袴 ( はかま ) 、 練衣 ( ねりぎぬ ) 、 烏帽子 ( えぼし ) 、 狩衣 ( かりぎぬ ) 、 白拍子 ( しらびょうし ) の姿が 可 ( よ ) かろう。衆人めぐり見る中へ、その姿をあの島の柳の上へ高く 顕 ( あらわ ) し、大空へ向って拝をされい。 祭文 ( さいもん ) にも歌にも及ばぬ。天竜、雲を 遣 ( や ) り、 雷 ( らい ) を放ち、雨を 漲 ( みなぎ ) らすは、明午を過ぎて 申 ( さる ) の上刻に 分豪 ( ふんごう ) も相違ない。国境の山、赤く、黄に、 峰岳 ( みねたけ ) を重ねて 爛 ( ただ ) れた奥に、白蓮の花、玉の 掌 ( たなそこ ) ほどに白く 聳 ( そび ) えたのは、 四時 ( しじ ) に雪を頂いて幾万年の 白山 ( はくさん ) じゃ。貴女、時を計って、その 鸚鵡 ( おうむ ) の釵を抜いて、山の 其方 ( そなた ) に向って 翳 ( かざ ) すを合図に、雲は竜のごとく 湧 ( わ ) いて出よう。――なおその上に、 可 ( よ ) いか、名を挙げられい。……」
―― 賢人 ( かしこびと ) の釣を垂れしは、
厳陵瀬 ( げんりょうらい ) の河の水。
月影ながらもる夏は、
山田の 筧 ( かけひ ) の水とかや。――……
伯爵の釵
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