University of Virginia Library

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 しばらくすると、この ひでり に水は れたが、 碧緑 へきりょく の葉の深く繁れる中なる、 緋葉 もみじ の滝と云うのに対して、紫玉は 蓮池 はすいけ みぎわ 歩行 ある いていた。ここに別に滝の 四阿 あずまや と称うるのがあって、八ツ橋を掛け、飛石を置いて、 枝折戸 しおりど とざ さぬのである。

 で、滝のある位置は、柳の茶屋からだと、もとの道へ小戻りする事になる。紫玉はあの、吹矢の みち から公園へ入らないで、引返したので、……涼傘を 投遣 なげや りに かざ しながら、袖を柔かに、手首をやや硬くして、あすこで抜いた 白金 プラチナ 鸚鵡 おうむ かんざし 、その翼をちょっと つま んで、きらりとぶら下げているのであるが。

  仔細 しさい 希有 けう な、……

 坊主が土下座して「お慈悲、お慈悲。」で、お願というのが金でも米でもない。 施与 ほどこし には違いなけれど、変な事には「お 禁厭 まじない をして遣わされい。虫歯が うず いて堪え難いでな。」と、成程左の頬がぷくりとうだばれたのを、堪難い さま てのひら で抱えて、首を 引傾 ひっかたむ けた同じ方の一眼が白くどろんとして つぶ れている。その目からも、ぶよぶよした唇からも、汚い しる が垂れそうな 塩梅 あんばい 。「お慈悲じゃ。」と更に拝んで、「手足に五寸釘を打たりょうとても、かくまでの 苦悩 くるしみ はございますまいぞ、お なさけ じゃ、 禁厭 まじの うて遣わされ。」で、禁厭とは別儀でない。――その紫玉が手にした 白金 プラチナ の釵を、歯のうろへ 挿入 さしいれ て欲しいのだと言う。

「太夫様お手ずから。……竜と 蛞蝓 なめくじ ほど違いましても、 しょう あるうちは わし じゃとて、芸人の端くれ。太夫様の 御光明 おひかり に照らされますだけでも、この 疚痛 いたみ は忘られましょう。」と、はッはッと息を く。……

 既に、 何人 なんぴと であるかを知られて、土に手をついて太夫様と言われたのでは、そのいわゆる禁厭の断り にく さは、金銭の無心をされたのと同じ事――但し手から手へ渡すも恐れる……落して釵を貸そうとすると、「ああ、いや、太夫様、お手ずから。…… 貴女様 あなたさま はだ 移香 うつりが 、脈の ひびき をお釵から伝え受けたいのでござります。貴方様の 御血脈 おけちみゃく 、それが禁厭になりますので、お手に釵の鳥をばお持ち遊ばされて、はい、はい、はい。」あん、と口を開いた中へ、紫玉は む事を得ず、手に持添えつつ、釵の脚を挿入れた。

  あえ ぐわ、 しゃぶ るわ!鼻息がむッと かか る。 たま らず袖を巻いて唇を おお いながら、勢い釵とともに、やや白やかな手の伸びるのが、 雪白 せっぱく なる 鵞鳥 がちょう の七宝の 瓔珞 ようらく を掛けた風情なのを、 無性髯 ぶしょうひげ で、チュッパと 啜込 すすりこ むように、坊主は 犬蹲 いぬつくばい になって、 あご でうけて、どろりと め込む。

 と、紫玉の手には、ずぶずぶと響いて、腐れた瓜を突刺す 気味合 きみあい

 指環は緑紅の結晶したる玉のごとき にじ である。 まぶ しかったろう。坊主は開いた目も閉じて、

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[2]
ぼう とした 顔色 がんしょく で、しっきりもなしに、だらだらと よだれ を垂らす。「ああ、手がだるい、まだ?」「いま一息。」――

 不思議な 光景 ようす は、美しき女が、針の さき で怪しき魔を操る、舞台における、神秘なる場面にも見えた。茶店の娘とその父は、感に堪えた 観客 かんかく のごとく、 呼吸 いき を殺して 固唾 かたず を飲んだ。

 ……「ああ、お有難や、お有難い。トンと苦悩を忘れました。お有難い。」と三味線包、がっくりと 抜衣紋 ぬきえもん 。で、 両掌 りょうて を仰向け、低く紫玉の雪の 爪先 つまさき を頂く真似して、「かように むさ いものなれば、くどくどお礼など申して、お身近はかえってお 目触 めざわ り、御恩は忘れぬぞや。」と胸を じるように杖で立って、

「お有難や、有難や。ああ、苦を忘れて が抜けた。もし、太夫様。」と敷居を また いで、 蹌踉 よろけ ざま に振向いて、「あの、そのお釵に……」――「え。」と紫玉が鸚鵡を る時、「歯くさが着いてはおりませぬか。 恐縮 おそれ や。……えひひ。」とニヤリとして、

「ちゃっとお きなされませい。」これがために、紫玉は手を掛けた 懐紙 ふところがみ を、余儀なくちょっと 逡巡 ためら った。

 同時に、あらぬ かた おもて を背けた。