伯爵の釵
泉鏡花 (Hakushaku no kanzashi) | ||
五
しばらくすると、この 旱 ( ひでり ) に水は 涸 ( か ) れたが、 碧緑 ( へきりょく ) の葉の深く繁れる中なる、 緋葉 ( もみじ ) の滝と云うのに対して、紫玉は 蓮池 ( はすいけ ) の 汀 ( みぎわ ) を 歩行 ( ある ) いていた。ここに別に滝の 四阿 ( あずまや ) と称うるのがあって、八ツ橋を掛け、飛石を置いて、 枝折戸 ( しおりど ) を 鎖 ( とざ ) さぬのである。
で、滝のある位置は、柳の茶屋からだと、もとの道へ小戻りする事になる。紫玉はあの、吹矢の 径 ( みち ) から公園へ入らないで、引返したので、……涼傘を 投遣 ( なげや ) りに 翳 ( かざ ) しながら、袖を柔かに、手首をやや硬くして、あすこで抜いた 白金 ( プラチナ ) の 鸚鵡 ( おうむ ) の 釵 ( かんざし ) 、その翼をちょっと 抓 ( つま ) んで、きらりとぶら下げているのであるが。
仔細 ( しさい ) は 希有 ( けう ) な、……
坊主が土下座して「お慈悲、お慈悲。」で、お願というのが金でも米でもない。 施与 ( ほどこし ) には違いなけれど、変な事には「お 禁厭 ( まじない ) をして遣わされい。虫歯が 疚 ( うず ) いて堪え難いでな。」と、成程左の頬がぷくりとうだばれたのを、堪難い 状 ( さま ) に 掌 ( てのひら ) で抱えて、首を 引傾 ( ひっかたむ ) けた同じ方の一眼が白くどろんとして 潰 ( つぶ ) れている。その目からも、ぶよぶよした唇からも、汚い 液 ( しる ) が垂れそうな 塩梅 ( あんばい ) 。「お慈悲じゃ。」と更に拝んで、「手足に五寸釘を打たりょうとても、かくまでの 苦悩 ( くるしみ ) はございますまいぞ、お 情 ( なさけ ) じゃ、 禁厭 ( まじの ) うて遣わされ。」で、禁厭とは別儀でない。――その紫玉が手にした 白金 ( プラチナ ) の釵を、歯のうろへ 挿入 ( さしいれ ) て欲しいのだと言う。
「太夫様お手ずから。……竜と 蛞蝓 ( なめくじ ) ほど違いましても、 生 ( しょう ) あるうちは 私 ( わし ) じゃとて、芸人の端くれ。太夫様の 御光明 ( おひかり ) に照らされますだけでも、この 疚痛 ( いたみ ) は忘られましょう。」と、はッはッと息を 吐 ( つ ) く。……
既に、 何人 ( なんぴと ) であるかを知られて、土に手をついて太夫様と言われたのでは、そのいわゆる禁厭の断り 悪 ( にく ) さは、金銭の無心をされたのと同じ事――但し手から手へ渡すも恐れる……落して釵を貸そうとすると、「ああ、いや、太夫様、お手ずから。…… 貴女様 ( あなたさま ) の 膚 ( はだ ) の 移香 ( うつりが ) 、脈の 響 ( ひびき ) をお釵から伝え受けたいのでござります。貴方様の 御血脈 ( おけちみゃく ) 、それが禁厭になりますので、お手に釵の鳥をばお持ち遊ばされて、はい、はい、はい。」あん、と口を開いた中へ、紫玉は 止 ( や ) む事を得ず、手に持添えつつ、釵の脚を挿入れた。
喘 ( あえ ) ぐわ、 舐 ( しゃぶ ) るわ!鼻息がむッと 掛 ( かか ) る。 堪 ( たま ) らず袖を巻いて唇を 蔽 ( おお ) いながら、勢い釵とともに、やや白やかな手の伸びるのが、 雪白 ( せっぱく ) なる 鵞鳥 ( がちょう ) の七宝の 瓔珞 ( ようらく ) を掛けた風情なのを、 無性髯 ( ぶしょうひげ ) で、チュッパと 啜込 ( すすりこ ) むように、坊主は 犬蹲 ( いぬつくばい ) になって、 頤 ( あご ) でうけて、どろりと 嘗 ( な ) め込む。
と、紫玉の手には、ずぶずぶと響いて、腐れた瓜を突刺す 気味合 ( きみあい ) 。
指環は緑紅の結晶したる玉のごとき 虹 ( にじ ) である。 眩 ( まぶ ) しかったろう。坊主は開いた目も閉じて、
※ ( ぼう ) とした 顔色 ( がんしょく ) で、しっきりもなしに、だらだらと 涎 ( よだれ ) を垂らす。「ああ、手がだるい、まだ?」「いま一息。」――不思議な 光景 ( ようす ) は、美しき女が、針の 尖 ( さき ) で怪しき魔を操る、舞台における、神秘なる場面にも見えた。茶店の娘とその父は、感に堪えた 観客 ( かんかく ) のごとく、 呼吸 ( いき ) を殺して 固唾 ( かたず ) を飲んだ。
……「ああ、お有難や、お有難い。トンと苦悩を忘れました。お有難い。」と三味線包、がっくりと 抜衣紋 ( ぬきえもん ) 。で、 両掌 ( りょうて ) を仰向け、低く紫玉の雪の 爪先 ( つまさき ) を頂く真似して、「かように 穢 ( むさ ) いものなれば、くどくどお礼など申して、お身近はかえってお 目触 ( めざわ ) り、御恩は忘れぬぞや。」と胸を 捻 ( ね ) じるように杖で立って、
「お有難や、有難や。ああ、苦を忘れて 腑 ( ふ ) が抜けた。もし、太夫様。」と敷居を 跨 ( また ) いで、 蹌踉 ( よろけ ) 状 ( ざま ) に振向いて、「あの、そのお釵に……」――「え。」と紫玉が鸚鵡を 視 ( み ) る時、「歯くさが着いてはおりませぬか。 恐縮 ( おそれ ) や。……えひひ。」とニヤリとして、
「ちゃっとお 拭 ( ふ ) きなされませい。」これがために、紫玉は手を掛けた 懐紙 ( ふところがみ ) を、余儀なくちょっと 逡巡 ( ためら ) った。
同時に、あらぬ 方 ( かた ) に 蒼 ( つ ) と 面 ( おもて ) を背けた。
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