University of Virginia Library

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 その御手洗の高い縁に乗っている 柄杓 ひしゃく を、取りたい、とまた稚児がそう言った。

 紫玉は思わず 微笑 ほほえ んで、

「あら、こうすれば 仔細 わけ ないよ。」

 と、半身を斜めにして、溢れかかる水の一筋を、玉の しずく に、 さっ と散らして、赤く燃ゆるような唇に けた。ちょうど かわ いてもいたし、水の きよ い事を見たのは言うまでもない。

「ねえ、お前。」

 稚児が仰いで、 じっ と紫玉を て、

「手を きよ める水だもの。」

  直接 じか くち つけ るのは不作法だ、と とが めたように聞えたのである。

 劇壇の 女王 にょおう は、 気色 けしき した。

「いやにお茶がってるよ、生意気な。」と、軽くその つむり てのひら たた き放しに、 と広前を切れて、坂に出て、見返りもしないで、さてやがてこの茶屋に憩ったのであった。――

 今思うと、手を触れた稚児の つむり も、女か、男か、不思議にその感覚が残らぬ。気は涼しかったが、暑さに、いくらか ぼう としたものかも知れない。

ねえ さん、町から、この坂を上る処に、お宮がありますわね。」

「はい。」

「何と言う、お社です。」

「浦安神社でございますわ。」と、片手を畳に、娘は行儀正しく答えた。

「何神様が祭ってあります。」

「お父さん、お父さん。」と娘が、つい そば に、 蓮池 はすいけ に向いて、(じんべ)という ひざ ぎりの 帷子 かたびら で、眼鏡の下に内職らしい網をすいている半白の父を呼ぶと、急いで眼鏡を外して、コツンと水牛の柄を畳んで、台に乗せて、それから向直って、丁寧に辞儀をして、

「ええ、浦安様は、浦安かれとの、その御守護じゃそうにござりまして。水をばお つかさど りなされます、竜神と申すことでござります。これの、太夫様にお茶を替えて上げぬかい。」

 紫玉は我知らず 衣紋 えもん しま った。…… とな えかたは 相応 そぐ わぬにもせよ、 へた な山水画の なか の隠者めいた老人までが、確か自分を知っている。

 心着けば、正面神棚の下には、我が姿、 昨夜 ゆうべ ふん した、劇中 女主人公 ヒロイン の王妃なる、玉の 鳳凰 ほうおう のごときが掲げてあった。

「そして、……」

 声も朗かに、且つ慎ましく、

「竜神だと、 女神 おんながみ ですか、 男神 おとこがみ ですか。」

「さ、さ。」と老人は膝を刻んで、あたかもこの とい を待構えたように、

「その儀は、とかくに申しまするが、いかがか、いずれとも相分りませぬ。この公園のずッと奥に、 真暗 まっくら 巌窟 いわや の中に、一ヶ処清水の く井戸がござります。古色の おびただ しい青銅の竜が わだかま って、 井桁 いげた ふた をしておりまして、金網を張り、みだりに近づいてはなりませぬが、 霊沢金水 れいたくこんすい と申して、これがためにこの市の名が起りましたと申します。これが奥の院と申す事で、ええ、 貴方様 あなたさま が御意の浦安神社は、その 前殿 まえどの と申す事でござります。 御参詣 おまいり を遊ばしましたか。」

「あ、いいえ。」と言ったが、すぐまた稚児の事が胸に浮んだ。それなり一時言葉が途絶える。

  森々 しんしん たる 日中 ひなか の樹林、濃く黒く森に包まれて城の天守は前に そび ゆる。茶店の横にも、見上るばかりの えんじゅ えのき の暗い影が もみ かえで を薄く まじ えて、 藍緑 らんりょく ながれ 群青 ぐんじょう の瀬のあるごとき、たらたら あが りの こみち がある。滝かと思う 蝉時雨 せみしぐれ 。光る雨、輝く の葉、この炎天の下蔭は、あたかも稲妻に こも る穴に似て、もの すご いまで 寂寞 ひっそり した。

  木下闇 こしたやみ 、その 横径 よこみち 中途 なかほど に、空屋かと思う、 ひさし の朽ちた、誰も居ない店がある……