伯爵の釵
泉鏡花 (Hakushaku no kanzashi) | ||
四
鎖 ( とざ ) してはないものの、奥に人が居て住むかさえ疑わしい。それとも日が暮れると、白い首でも出てちとは客が寄ろうも知れぬ。店一杯に 雛壇 ( ひなだん ) のような台を置いて、いとど薄暗いのに、三方を黒布で張廻した、壇の 附元 ( つけもと ) に、 流星 ( ながれぼし ) の 髑髏 ( しやれこうべ ) 、 乾 ( ひから ) びた 蛾 ( ひとりむし ) に似たものを、点々並べたのは 的 ( まと ) である。地方の盛場には時々見掛ける、吹矢の 機関 ( からくり ) とは一目 視 ( み ) て紫玉にも分った。
実 ( まこと ) は――吹矢も、化ものと名のついたので、幽霊の 廂合 ( ひあわい ) の幕から 倒 ( さかさま ) にぶら下がり、 見越入道 ( みこしにゅうどう ) は 誂 ( あつら ) えた穴からヌッと出る。雪女は 拵 ( こしら ) えの黒塀に 薄 ( うっす ) り立ち、 産女鳥 ( うぶめどり ) は石地蔵と並んでしょんぼり 彳 ( たたず ) む。一ツ目小僧の豆腐買は、 流灌頂 ( ながれかんちょう ) の野川の 縁 ( へり ) を、 大笠 ( おおがさ ) を 俯向 ( うつむ ) けて、 跣足 ( はだし ) でちょこちょこと巧みに 歩行 ( ある ) くなど、仕掛ものになっている。……いかがわしいが、 生霊 ( いきりょう ) と札の立った 就中 ( なかんずく ) 小さな的に吹当てると、床板ががらりと 転覆 ( ひっくりかえ ) って、 大松蕈 ( おおまつたけ ) を抱いた 緋 ( ひ ) の 褌 ( ふんどし ) のおかめが、とんぼ返りをして 莞爾 ( にっこり ) と飛出す、途端に、四方へ 引張 ( ひっぱ ) った綱が揺れて、鐘と太鼓がしだらでんで 一斉 ( いちどき ) にがんがらん、どんどと鳴って、それで 市 ( いち ) が栄えた、店なのであるが、一ツ目小僧のつたい 歩行 ( ある ) く 波張 ( なみばり ) が 切々 ( きれぎれ ) に、 藪畳 ( やぶだたみ ) は 打倒 ( ぶったお ) れ、 飾 ( かざり ) の石地蔵は仰向けに反って、視た処、ものあわれなまで寂れていた。
――その軒の土間に、 背後 ( うしろ ) むきに 蹲 ( しゃが ) んだ 僧形 ( そうぎょう ) のものがある。坊主であろう。墨染の麻の 法衣 ( ころも ) の 破 ( や ) れ破れな 形 ( なり ) で、 鬱金 ( うこん ) ももう鼠に汚れた布に――すぐ、分ったが、――三味線を一 挺 ( ちょう ) 、 盲目 ( めくら ) の 琵琶 ( びわ ) 背負 ( じょい ) に 背負 ( しょ ) っている、 漂泊 ( さすら ) う 門附 ( かどづけ ) の 類 ( たぐい ) であろう。
何をか働く。人目を避けて、 蹲 ( うずくま ) って、 虱 ( しらみ ) を 捻 ( ひね ) るか、 瘡 ( かさ ) を 掻 ( か ) くか、弁当を使うとも、 掃溜 ( はきだめ ) を探した 干魚 ( ほしうお ) の骨を 舐 ( しゃぶ ) るに過ぎまい。乞食のように薄汚い。
紫玉は 敗竄 ( はいざん ) した芸人と、荒涼たる見世ものに対して、深い 歎息 ( ためいき ) を漏らした。且つあわれみ、且つ 可忌 ( いまわ ) しがったのである。
灰吹 ( はいふき ) に薄い 唾 ( つば ) した。
この世盛りの、思い上れる、美しき女優は、樹の緑蝉の声も 滴 ( したた ) るがごとき影に、 框 ( かまち ) も 自然 ( おのず ) から浮いて高い処に、色も 濡々 ( ぬれぬれ ) と水際立つ、 紫陽花 ( あじさい ) の花の姿を 撓 ( たわ ) わに置きつつ、 翡翠 ( ひすい ) 、 紅玉 ( ルビイ ) 、真珠など、 指環 ( ゆびわ ) を三つ四つ 嵌 ( は ) めた白い指をツト挙げて、 鬢 ( びん ) の 後毛 ( おくれげ ) を掻いたついでに、 白金 ( プラチナ ) の 高彫 ( たかぼり ) の、翼に 金剛石 ( ダイヤ ) を 鏤 ( ちりば ) め、目には 血膸玉 ( スルウドストン ) 、 嘴 ( くちばし ) と爪に 緑宝玉 ( エメラルド ) の 象嵌 ( ぞうがん ) した、白く輝く 鸚鵡 ( おうむ ) の 釵 ( かんざし ) ―― 何某 ( なにがし ) の伯爵が心を籠めた 贈 ( おくり ) ものとて、人は知って、(伯爵)と 称 ( とな ) うるその釵を抜いて、脚を返して、 喫掛 ( のみか ) けた火皿の 脂 ( やに ) を 浚 ( さら ) った。…… 伊達 ( だて ) の 煙管 ( きせる ) は、煙を吸うより、手すさみの 科 ( しぐさ ) が多い 慣習 ( ならい ) である。
三味線背負った乞食坊主が、 引掻 ( ひっか ) くようにもぞもぞと肩を 揺 ( ゆす ) ると、一眼ひたと 盲 ( し ) いた、 眇 ( めっかち ) の青ぶくれの 面 ( かお ) を向けて、こう、 引傾 ( ひっかたが ) って、 熟 ( じっ ) と紫玉のその 状 ( さま ) を視ると、肩を 抽 ( ぬ ) いた 杖 ( つえ ) の 尖 ( さき ) が、一度胸へ 引込 ( ひっこ ) んで、 前屈 ( まえかが ) みに、よたりと立った。
杖を 径 ( こみち ) に突立て突立て、 辿々 ( たどたど ) しく 下闇 ( したやみ ) を 蠢 ( うごめ ) いて下りて、城の 方 ( かた ) へ去るかと思えば、のろく 後退 ( あとじさり ) をしながら、茶店に向って、 吻 ( ほっ ) と、立直って一息 吐 ( つ ) く。
紫玉の眉の 顰 ( ひそ ) む時、五間ばかり軒を離れた、そこで早や、 此方 ( こなた ) へぐったりと 叩頭 ( おじぎ ) をする。
知らない 振 ( ふり ) して、目をそらして、紫玉が釵に 俯向 ( うつむ ) いた。が、濃い 睫毛 ( まつげ ) の重くなるまで、坊主の影は 近 ( ちかづ ) いたのである。
「太夫様。」
ハッと顔を上げると、坊主は既に敷居を越えて、 目前 ( めさき ) の土間に、両膝を折っていた。
「…………」
「お願でござります。……お慈悲じゃ、お慈悲、お慈悲。」
仮初 ( かりそめ ) に置いた 涼傘 ( ひがさ ) が、 襤褸 ( ぼろ ) 法衣 ( ごろも ) の袖に触れそうなので、 密 ( そっ ) と手元へ引いて、
「何ですか。」と、坊主は視ないで、茶屋の 父娘 ( おやこ ) に目を 遣 ( や ) った。
立って声を掛けて追おうともせず、父も娘も 静 ( しずか ) に視ている。
伯爵の釵
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