University of Virginia Library

4. 第四囘 言ふに言はれぬ胸の中

 さて其日も、漸く暮れるに間もない五時頃に成ツても、叔母もお勢も更に歸宅 する光景も見えず、何時まで待ツても果てしのない事ゆゑ、文三は獨り夜食を濟まし て、二階の縁端に端居しながら、身を丁字欄干に寄せかけて暮れ行く空を眺めてゐる。 此時日は既に萬家の棟に沒しても尚ほ餘殘の影を留めて、西の半天を薄紅梅に染めた。 顧みて東方の半天を眺むれば、淡然とあがツた水色、諦視めたら宵星の一つ二つは鑿 り出せさうな空合。幽かに聞える傳通院の暮鐘の音に誘はれて、塒へ急ぐ夕鴉の聲が、 彼處此處に聞えて喧ましい。既にして日はパツタリ暮れる。四邊はほの暗くなる。仰 向いて瞻る蒼空には、餘殘の色も何時しか消え失せて、今は一面の青海原。星さへ處 斑に燦き出でて、殆んど交睫をするやうな眞似をしてゐる。今しがたまで見えた隣家 の前栽も、蒼然たる夜色に偸まれて、そよ吹く小夜嵐に、立樹の所在を知るほどの闇 さ。デモ、土藏の白壁は、流石に白い丈けに見透かせば見透かされる。……サツと軒 端近くに羽音がする。囘首ツて觀る。……何も眼に遮るものとてはなく、唯最う薄闇 い而已。

 心ない身も、秋の夕暮には哀を知るが習ひ。況て文三は絲目の切れた奴凧の身 の上、其時々の風次第で、落着く先は籬の梅か、物干の竿か、見極めの附かぬ所が浮 世とは言ひながら、父親が歿してから全十年、生死の海のうやつらやの高浪に、搖ら れ搖られて辛うじて泳出した官海も矢張波風の靜まる間がないことゆゑ、どうせ一度 は捨小舟の寄邊ない身に成らうも知れぬと、兼て覺悟をして見ても、其處が凡夫の かなしさで、危に慣れて見れば苦にもならず、宛に成らぬ事を宛にして、文三は今年 の暮にはお袋を引取ツて、チト老樂をさせずばなるまい、國へ歸ると言ツても、まさ かに素手でも往かれまい、親類の所への土産は何にしよう。「ムキ」にしようか品物 にしようかと、胸で彈いた算盤の桁は合ひながらも、兎角合ひかねるは人の身のつば め、今まで見てゐた廬生の夢も一炊の間に覺め果てて、「アヽまた情ない身の上にな ツたかナア……。」

 俄にパツと西の方が明くなツた。見懸けた夢を其儘に文三が振返ツて視遣る向 うは隣家の二階。戸を繰り忘れたものか、まだ障子の儘で人影が射してゐる……。ス ルト其人影が見る間にムク/\と膨れ出して、好加減の怪物となる。パツと消失せて 仕舞ツた跡は、まだ常闇。文三はホツと吐息を吻いて、顧みて我家の中庭を瞰下ろせ ば、處狹きまで植駢べた草花立樹なぞが、佗し氣に啼く蟲の音を包んで、黯黒の中か らヌツと半身を挺出して、硝子張の障子を漏れる火影を受けてゐる所は、家内を覘ふ 曲者かと怪まれる。……ザワ/\と庭の樹立を揉む夜風の餘りに顏を吹かれて文三は 慄然と身震をして起揚り、居間へ這入ツて手探りで洋燈を點し、立膝の上に兩手を重 ねて、何をともなく目守めた儘、暫くは唯茫然。……不圖手近に在ツた藥鑵の白湯を 茶碗に汲取りて、一息にグツト飮乾し、肘を枕に横に倒れて天井に圓く映る洋燈の火 影を見守めながら、莞爾と片頬に微笑を含んだが、開いた口が結ばツて前齒が姿を隱 すに連れ、何處からともなくまた、愁の色が顏に顯はれて參ツた。

「それはさうと如何しようか知らん、到底言はずには置けん事たから、今夜にも 歸ツたら、斷念ツて言ツて仕舞はうか知らん。嘸、叔母が厭な面をする事だらうナア ……眼に見えるやうだ……。しかし其樣な事を苦にしてゐた分には埒が明かない、何 にも是れが金錢を借りようといふのではなし、毫しも恥ケ敷事は ない。チヨツ、今夜言ツて仕舞はう。……だが……お勢がゐては言ひ難いナ、若しヒ ヨツと彼娘の前で厭味なんぞを言はれちやア困る。是は何でも居ない時を見て言ふ事 だ。ゐない……時を……見……。何故、何故言ひ難い。苟も男兒たる者が、零落した のを恥づるとは何だ。其樣な小膽な。糞ツ、今夜言ツて仕舞はう。それは勿論、彼娘 だツて口へ出してこそ言はないが、何でも、來年の春を樂しみにしてゐるらしいから、 今唐突に免職になツたと聞いたら、定めて落膽するだらう。しかし、落膽したからと 言ツて、心變りをするやうな、其樣な浮薄な婦人ぢやアなし、且つ通常の婦女子と違 ツて教育も有ることだから、大丈夫、其樣な氣遣ひはない。それは決してないが、叔 母だテ。……ハテナ、叔母だテ。叔母はあゝいふ人だから、我が免職になツたと聞い たら、急にお勢を呉れるのが厭になツて、無理に彼娘を、他へ嫁づけまいとも言はれ ない。さうなツたからと言ツて此方は何も確い約束がして有るんでないから、否、さ うは成りませんとも言はれない。……嗚呼つまらんつまらん、幾程おもひ直してもつ まらん。全體、何故我を免職にしたんだらう。解らんな。自惚ぢやアないが、我だツ て何も役に立たないといふ方でもなし、また殘された者だツて、何も別段、役に立つ といふ方でもなし。して見れば矢張課長におベツからなかツたから其れで免職にされ たのかな。……實に課長は失敬な奴だ、課長も課長だが、殘された奴等もまた卑屈極 まる。僅かの月給の爲めに腰を折ツて、奴隷同樣な眞似をするなんぞツて、實に卑屈 極まる。……しかし……待てよ……しかし今まで免官に成ツて、程なく復職した者が ないでも無いから、ヒヨツとして明日にも召喚状が……イヤ……來ない。召喚状なん ぞが來て耐るものか。よし來たからと言ツて、今度は此方から辭して仕舞ふ。誰れが 何と言はうと關はない、斷然辭して仕舞ふ。しかし、其れも短氣かな、矢張召喚状が 來たら復職するかナ。……馬鹿奴。それだから我は馬鹿だ、そん な架空な事を宛にして、心配するとは、何んだ馬鹿奴。それよりか、まづ差當り、 エート、何んだツけ……さう/\免職の事を叔母に咄して……嘸厭な面をするこツた らうな。……しかし、咄さずにも置かれないから、思切ツて今夜にも叔母に咄して… …ダガ、彼娘のゐる前では……チヨツ、ゐる前でも關はん、叔母に咄して……ダガ、 若し、彼娘のゐる前で、口汚なくでも言はれたら……チヨツ關はん、お勢に咄して、 イヤ……お勢ぢやない、叔母に咄して……さぞ……厭な顏……厭な顏を咄して……口 ……口汚なく咄……して……アヽ頭が亂れた……。」

 ト、ブル/\と頭を左右へ打振る。

 轟然と驅けて來た車の音が家の前でパツタリ止まる。ガラガラと格子が開く。 ガヤ/\と人聲がする。ソリヤコソと、文三がまづ起直ツて、度胸をついた。兩手を 杖に起たんとしてはまた坐り、坐らんとしてはまた起つ。腰の蝶番は滿足でも、胸の 蝶番が、「言ツて仕舞はうか」、「言難いナ」と離れ%\に成ツてゐるから、急には 起揚られぬ。……俄に蹶然と起揚ツて、梯子段の下口まで參ツたが、不圖立止り、些 し躊躇ツてゐて「チヨツ言ツて仕舞はう。」と獨言を言ひながら急足に二階を降りて、 奧座鋪へ立入る。奧座鋪の長手の火鉢の傍に年配四十恰好の年増、些し痩肉で、色が 淺黒いが、小股の切上ツた、垢拔けのした、何處ともでんぼふ肌の、萎れてもまだ見 處のある花。櫛卷とかいふものに髮を取上げて、小辨慶の絲織の袷衣と養老の浴衣と を重ねた奴を素肌に着て、黒繻子と八段の腹合せの帶をヒツカケ に結び、微醉機嫌の銜楊枝でいびつに坐ツてゐたのはお政で、文三の挨拶するを見て、

「ハイ只今、大層遲かツたらうネ。」

「全體今日は何方へ。」

「今日はネ、須賀町から三筋町へ廻らうと思ツて家を出たんだアネ。さうすると ネ、須賀町へ往ツたら、ツイ近所に、あれは、エート、藝人……なんとか言ツたツけ、 藝人……」

「親睦會。」

「それ/\、その親睦會が有るから一緒に往かうツてネ、お濱さんが勸めきるん サ。私は新富座か、二丁目なら兎も角も、其樣な珍木會とか、親睦會とかいふものな んざア、七里けツぱいだけれども、お勢……ウーイブー……お勢が往き度いといふも んだから、仕樣事なしのお交際で往ツて見たがネ、思ツたよりはサ、私はまた親睦會 といふから、大方演じゆつ會のやうな種のもんかしらとおもツたら、なアに矢張品の 好い寄席だネ。此度文さんも往ツて御覽な、木戸は五十錢だよ。」

「ハア然うですか、其れでは孰れまた。」

 説話が些し斷絶れる。文三は肚の裏に「同じ言ふのなら、お勢の居ない時だ。 チヨツ、今言ツて仕舞はう。」ト思ひ決めて、今將に口を開かんとする。……折しも 縁側にバタバタと跫音がして、スラリと背後の障子が開く。振反ツて見れば……お勢 で、年は鬼もといふ十八の娘盛り、瓜實顏で富士額、生死を含む眼元の鹽にピンとは ねた眉で力味を付け、壺々口の緊笑ひにも愛嬌をくくんで無暗には滴さぬほどのさび。 脊はスラリとして、風に搖めく女郎花の、一時をくねる細腰もしんなりとしてなよや か。慾には最うすこし、生際と襟足とを善くして貰ひ度いが、何にしても七難を隱す といふ雪白の羽二重肌。淺黒い親には似ぬ鬼子でない天人娘、艶やかな黒髮を惜氣も なく、グツと引詰めての束髮。薔薇の花插頭を插したばかりで、臙脂も嘗めねば鉛華 も施けず、衣服とても絲織の袷衣に、友禪と紫繻子の腹合せの帶か何かで、さして取 繕ひもせぬが、故意とならぬ眺めはまた格別なもので、火をくれ て枝を撓めた作花の、厭味のある色の及ぶ所でない。衣通姫に小 町の衣を懸けたといふ文三の品題は、それは、惚れた慾目の贔屓沙汰かも知れないが、 兎にも角にも十人竝優れて美しい。座鋪へ這入ざまに、文三と顏を見合はして莞然。 チヨイと會釋をして摺足でズーと火鉢の側まで參り、温藉に座に着く。

 お勢と顏を見合はせると、文三は不思議にもガラリと氣が變ツて、咽元まで込 み上げた免職の二字を鵜呑みにして何喰はぬ顏色、肚の裏で「最うすこし經ツてか ら。」

「母親さん、咽が涸いていけないから、お茶を一杯入れて下さいナ。」

「アイヨ。」

 トいツてお政は茶箪笥を覗き、

「オヤ/\、茶碗が皆汚れてる……鍋。」

 ト呼ばれて出て來た者を見れば、例の日の丸の紋を染拔いた首の持主で、空嘯 いた鼻の端に突出された汚穢物を受取り、振榮えのあるお尻を振立てて却退る。軈て 洗ツて持ツて來る、茶を入れる、サア其れからが、今日聞いて來た歌曲の噂で、母子 二つの口が結ばる暇なし。免職の事を吹聽し度くも、言出す潮がないので、文三は餘 儀なく聽き度くもない咄を聞いて、空しく時刻を移す内、説話は漸くに清元、長唄の 優劣論に移る。

「母親さんは、自分が清元が出來るもんだから、其樣な事をお言ひだけれども、 長唄の方が好いサ。」

「長唄も岡安ならまんざらでもないけれども、松永は唯つツこむばかりで、面白 くもなんとも有りやアしない。それよりか清元の事サ、どうも意氣でいゝワ……四谷 で初て逢うた時、すいたらしいと思うたが、因果な縁の絲車。」

 ト中音で口癖の清元を唄ツて、ケロリとして、

「いゝワ。」

「其通り、品格がないから嫌ひ。」

「また始まツた。ヘン、跳馬ぢやアあるまいし、番毎に品々も五月蠅い。」

「だツて、人間は品格が第一ですワ。」

「ヘン、そんなにお人柄なら、

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込みのおでんなんぞを喰べ度いと言はないがいゝ。」

「オヤ 何時、私がそんな事を言ひました。」

「はい、一昨日の晩いひました。」

「嘘ばツかし。」

 トは言ツたが、大いにへこんだので大笑ひとなる。不圖お政は、文三の方を振 向いて、

「アノ、今日出懸けに母親さんの所から郵便が着いたツけが、お落掌か。」

「ア、眞に然うでしたツけ、薩張忘却れてゐました。……エー母からも、此度は 別段に手紙を差上げませんが、宜しく申上げろと申すことで。」

「ハアさうですか、其れは。それでも母親さんは、何時もお異ンなすツたことも 無くツて。」

「ハイ、お蔭さまと丈夫ださうで。」

「それはマア、何よりの事だ。嘸、今年の暮を樂しみにして、およこしなすツた らうネ。」

「ハイ、指ばかり屈ツて居ると申してよこしました……。」

「さうだらうてネ。可愛い息子さんの側へ來るんだものヲ。それをネー、何處か の人みたやうに、親を馬鹿にしてサ。一口いふ二口目には、直に揚足を取るやうだと 義理にも可愛いと言はれないけれど、文さんは親思ひだから、母親さんの戀しいのも 亦一倍サ。」

 トお勢を尻目にかけて、からみ文句で宛る。お勢はまた始まツた、といふ顏色 をして彼方を向いて仕舞ふ。文三は餘儀なささうに、エヘヽ笑ひをする。

「それから、アノー、例の事ネ、あの事をまた、何とか言ツてお遣しなすツたか い。」

「ハイ、また言ツてよこしました。」

「なんてツてネ。」

「ソノー、氣心が解らんから厭だといふなら、エー、今年の暮、歸省した時に、 逢ツてよく氣心を洞察いた上で極めたら好からう、といツて遣しましたが、しかし… …。」

「なに、母親さん。」

「エ、ナニサ、アノ、ソラお前にも此間話したアネ、文さんの……。」

 お勢は獨り切りに點頭く。

「ヘー。其樣な事を言ツておよこしなすツたかい、ヘー、然うかい……それに 附 け ても、早く内で歸ツて來れば好いが……イエネ、此間もお咄し申した通り、お前さん のお嫁の事に付いちやア、内でも些と考へてる事も有るんだから……尤も私も聞いて 知ツてる事だから、今咄して仕舞ツてもいゝけれども……。」

 ト些し考へて、

「何時返事をお出しだ。」

「返事は最う出しました。」

「エ。モー出したの。今日。」

「ハイ。」

「オヤマア文さんでもない。私になんとか、一言咄してから、お出しならいゝの に。」

「デスガ……。」

「それはマア兎も角も、何と言ツてお上げだ。」

「エー、今は仲々婚姻どころぢやアないから……。」

「アラ、其樣な事を云ツてお上げぢやア、母親さんが尚ほ心配なさらアネ。それ よりか……。」

「イエ、まだお

[_]
[5]咄
し申さぬから何ですが……。」

「マアサ、私の言ふ事をお聞きよ。それよりかアノ、叔父も何だか考へがあると いふから、いづれ篤りと相談した上でとか、そもなきやア此地に心當りがあるから… …。」

「母親さん、其樣な事を仰しやるけれど、文さんは此地に何か心當りがお有んな さるの。」

「マアサ、有ツても無くツても、さう言ツてお上げだと、母親さんが安心なさら アネ……イエネ、親の身に成ツて見なくツちやア解らぬ事だけれども、子供一人身を 固めさせようといふのは、どんなに苦勞なもんだらう。だから、お勢みたやうな如此 な親不孝な者でも、さう何時までもお懷中で遊ばせても置けないと思ふと、私は苦勞 で/\ならないから、此間も私がネ、『お前も最う押付けお嫁に往かなくツちやアな らないんだから、ソノー、なんだとネー、何時までも其樣なに子供の樣な心持でゐち やアなりませんと、それも母親さんのやうに此樣な氣樂な家へ、お嫁に往かれりやア 兎も角もネー、若しヒヨツと先に姑でもある處へ往ツて御覽、なか/\此樣なに、我 儘氣儘をしちやアゐられないから、今の内に些と、覺悟をして置かなくツちやアなり ませんよ。』と、私が、先へ寄ツて苦勞させるのが可憐さうだから、爲をおもツて言 ツて遣りやアネ、文さん、マア聞いてお呉れ、斯うだ。『ハイ、私にやア私の了簡が 有ります、ハイ、お嫁に往かうと往くまいと私の勝手で御座います。』といふんだよ。 それからネ、私が、『オヤ、其れぢやアお前はお嫁に往かない氣かエ。』と聞いたら ネ、『ハイ、私は生一本で通しますツて……』マア、呆れかへるぢやアないかネー、 文さん。何處の國に、お前、尼ぢやあるまいし、亭主持たずに一生暮すものが有る者 かネ。」

 是は萬更形のないお噺でもない。四五日前、何かの小言序に、お政が尖り聲で、 「ほんとにサ、戯談ぢやアない、何歳になるとお思ひだ。十八ぢやアないか。十八に も成ツてサ。好頃嫁にでも往かうといふ身でゐながら、なんぼなんだツて、餘り勘辨 がなさすぎらア。アヽ/\早く嫁にでも遣り度い。嫁に往ツて、小喧しい姑でも持ツ たら、些たア親の難有味が解るだらう。」と言ツたのが原因で、些ばかりいぢり合を した事が有ツたが、お政の言ツたのは全く其作替で。

「トいふが畢竟るとこ、是れが晩熟だからの事サ。私共がこの位の時分にやア、 チヨイとお洒落をしてサ、小色の一ツもかせいだもんだけれ ども……。」

「また猥褻。」

 トお勢は顏を顰める。

「オホヽヽヽヽ、ほんとにサ。仲々小惡戯をしたもんだけれども、此娘はヅー體 ばかり大きくツても、一向しきなお懷中だもんだから、それで何時まで經ツても、世 話ばツかり燒けてなりアしないんだよ。」

「だから母親さんは厭よ、些とばかりお酒に醉ふと、直に親子の差合ひもなく、 其樣な事をお言ひだものヲ。」

「ヘー/\、恐れ煎豆はじけ豆ツ。あべこべに御意見か。ヘン、親の謗はしりよ りか、些と自分の頭の蠅でも逐ふがいゝや、面白くもない。」

「エヘヽヽヽヽ。」

「イエネ、此通り親を馬鹿にしてゐて、何を言ツても、迚も、私共の言ふ事を用 ひるやうな、そんな素直なお孃さまぢやアないんだから、此度文さん、ヨーク腹に落 ちるやうに、言ツて聞かせてお呉んなさい。これでもお前さんの言ふ事なら、些たア 聞くかも知れないから。」

 トお政は又もお勢を尻目に懸ける。折しも紙襖一ツ隔てて、お鍋の聲として、

「あんな帶留……どめ……を。」

 此方の三人は、吃驚して顏を見合はせ、「オヤ、鍋の寢言だよ。」と果ては大 笑ひになる。お政は仰向いて柱時計を眺め、

「オヤ、最う十一時になるよ、鍋の寢言を言ふのも無理はない。サア/\、寢ま せう/\、あんまり夜深しをすると、また翌日の朝がつらい。それぢやア文さん、先 刻の事はいづれまた、翌日にも緩り咄しませう。」

「ハイ私も……私も是非、お咄し申さなければならん事が有りますが、いづれま た明日……それではお休み。」

 ト挨拶をして、文三は座鋪を立出で、梯子段の下まで來ると、後より、

「文さん、貴君の處に今日の新聞が有りますか。」

「ハイ有ります。」

「最うお讀みなすツたの。」

「讀みました。」

「それぢやア拜借。」

 トお勢は、文三の跡に從いて二階へ上る。文三が机上に載せた新聞を取ツて、 お勢に渡すと、

「文さん。」

「エ。」

 返答はせずして、お勢は唯笑ツてゐる。

「何です。」

「何時か頂戴した寫眞を、今夜だけお返し申しませうか。」

「何故。」

「それでも、お淋敷からうとおもツて、オホヽヽ。」

 ト笑ひながら、逃ぐるが如く二階を驅下りる。そのお勢の後姿を見送ツて、文 三は吻と溜息を吐いて、

「ます/\言難い。」

 一時間程を經て、文三は漸く寢支度をして褥へは這入ツたが、さて眠られぬ儘 に、過去將來を思ひ囘らせば囘らすほど、尚ほ氣が冴えて眼も合はず。是ではならぬ と氣を取直し、緊敷兩眼を閉ぢて、眠入ツた風をして見ても、自ら欺くことも出來ず、 餘儀なく寢返りを打ち、溜息を吻きながら、眠らずして夢を見てゐる内に、一番鷄が 唱ひ、二番鷄が唱ひ、漸く曉近くなる。「寧そ今夜は此儘で。」トおもふ頃に、漸く 眼がしよぼついて來て、頭が亂れだして、今迄眼面に隱見いてゐた母親の白髮首に疎 らな黒髭が生えて……課長の首になる。そのまた恐らしい髭首が、暫くの間、眼まぐ ろしく水車の如くに廻轉ツてゐる内に、次第々々に小さく成ツて、……軈て相好が變 ツて……何時の間にか薔薇の花插頭を插して……お勢の……首……に……な……。