University of Virginia Library

9. 第九囘 すわらぬ肚

 今日は十一月四日。打續いての快晴で、空は餘殘なく晴れ渡ツてはゐるが、憂 愁ある身の心は曇る文三は、朝から一室に垂籠めて、獨り屈託の頭を疾ましてゐた。 實は昨日、朝飯の時、文三が叔母に對ツて、一昨日、教師を番町に訪うて、身の振方 を依頼して來た趣を、縷々咄し出したが、叔母は木然として情寡き者の如く、「へー」 ト餘所事に聞流してゐて、さらに取合はなかツた。それが未だに氣になツて氣になツ てならないので。

 一時頃に、勇が歸宅したとて遊びに參ツた。浮世の鹽を踏まぬ身の氣散じさ、 腕押、坐相撲の噺、體操、音樂の噂、取締との議論、賄方征討の義擧から、試驗の模 樣、落第の分疏に至るまで、凡そ偶然に懷に浮んだ事は、月足らずの水子思想、まだ 完成つてゐなからうが、如何だらうが、其樣な事に頓着はない。訥辯ながら、矢鱈無 上に陳べ立てて、返答などは更に聞いてゐぬ。文三も最初こそ相手にも成ツてゐたれ、 遂にはポツと精を盡かして仕舞ひ、勇には隨意に空氣を鼓動さして置いて、自分は自 分で、餘所事をと云ツた所が、お勢の上や身の成行で、熟思默想しながら、折折間外 れな溜息噛交ぜの返答をしてゐる。と、フトお勢が階子段を上ツて來て、中途から貌 而已を差出して、

「勇。」

「だから僕ア議論して遣ツたんだ。だツて君、失敬ぢやないか。ボートの順番を、 クラツスの順番で……。」

「勇と云へば、お前の耳は木くらげかい。」

「だから、何だと云ツてるぢや無いか。」

「綻を縫つてやるから、シヤツをお脱ぎとよ。」

 勇はシヤツを脱ぎながら、

「クラツスの順番で定めると云ふんだもの、ボートの順番をクラツスの順番で定 めちやア、僕ア何だと思ふな、僕ア失敬だと思ふな。だツて君、ボートは……。」

「さツさと、お脱ぎで無いかネー、人が待ツてゐるぢや無いか。」

「其樣に、急がなくツたツて宜いやアネ。失敬な。」

「何方が失敬だ……アラ、彼樣な事言ツたら、尚ほ故意と愚頭々々してゐるよ。 チヨツ、じれツたいネー。早々としないと、姉さん知らないから宜い。」

「そんな事云ふなら、Bridle pathと云ふ字を知ツてるか。I was at our uncle'sと云ふ 事を知ツてるか。I will keep your……。」

「チヨイと、お默り……。」

 ト口早に制して、お勢が耳を聳てて、何歟聞き濟まして、忽ち滿面に笑を含ん で、さも嬉しさうに、

「必と本田さんだよ。」

 ト言ひながら、狼狽てて梯子段を駈け下りて仕舞ツた。

「オイ/\姉さん、シヤツを持ツてツとくれツてば……。オイ……ヤ、失敬な、 モウ往ツちまツた。渠奴、近頃、生意氣になツていかん。先刻も僕ア喧嘩して遣ツた んだ。婦人の癖に園田勢子と云ふ名刺を拵へるツてツたから、お勢ツ子で澤山だツて ツたら、非常に憤ツたツけ。」

「アハヽヽヽ。」

 ト今迄默想してゐた文三が、突然、無茶苦茶に高笑ひを做出したが、勿論秋毫 も、可笑しさうでは無かツた。しかし、少年の議論家は、稱讚されたのかと思ツたと 見えて、

「お勢ツ子で澤山だ。婦人の癖に、いかん、生意氣で。」

 ト云ひながら、得々として二階を降りて往ツた跡で、文三は暫くの間、また腕 を拱んで默想してゐたが、フト何歟憶出したやうな面相をして、起上ツて羽織だけを 着替へて、帽子を片手に二階を降りた。

 奧の間の障子を開けて見ると、果して昇が遊びに來てゐた。加之も、傲然と、 火鉢の側に大胡坐をかいてゐた。その傍にお勢がベツたり坐ツて、何かツベコベと端 手なく囀づツてゐた。少年の議論家は、素肌の上に上衣を羽織ツて、仔細らしく首を 傾けて、ふかし甘薯の皮を剥いて居、お政は仰々しく針箱を前に控へて、覺束ない手 振で、シヤツの綻を縫合はせてゐた。

 文三の顏を視ると、昇が顏で電光を光らせた、蓋し挨拶の積りで。お勢もまた 後方を振返ツて顧は顧たが、「誰かと思ツたら、」ト云はぬ許りの、索然とした情味 の無い相貌をして、急にまた彼方を向いて仕舞ツて、

「眞個。」

 ト云ひながら、首を傾げて、チヨイと昇の顏を凝視めた光景。

「眞個さ。」

「虚言だと聽きませんよ。」

 アノ筋の解らない、他人の談話と云ふものは、聞いて餘り快くは無いもので。

「チヨイと番町まで。」ト文三が叔母に會釋をして、起上らうとすると、昇が、

「オイ内海、些し噺が有る。」

「些と急ぐから……。」

「此方も急ぐんだ。」

 文三はグツと視下ろす、昇は視上げる。眼と眼を疾視合はした。何だか異な鹽 梅で。それでも文三は、澁々ながら、座鋪へ這入ツて座に着いた。

「他の事でも無いんだが。」

 ト昇がイヤに冷笑しながら咄し出した。スルトお政は、フト針仕事の手を止め て、不思議さうに昇の貌を凝視めた。

「今日役所での評判に、此間免職に成ツた者の中で、二三人復職する者が出來る だらうと云ふ事だ。然う云やア、課長の談話に、些し思ひ當る事も有るから、或は實 説だらうかと思ふんだ。所で、我輩考へて見るに、君が免職になツたので、叔母さん は勿論、お勢さんも……。」

 ト云懸けてお勢を尻眼に懸けてニヤリと笑ツた。お勢はお勢で、可笑しく下脣 を突出して、ムツと口を結んで、額で昇を疾視付けた、イヤ疾視付ける眞似をした。

「お勢さんも、非常に心配してお出でなさるし、且つ君だツても、ナニも遊んで ゐて食へると云ふ身分でも有るまいしするから、若し復職が出來れば此上も無いと云 ツたやうなもんだらう。そこで、若し果して然うならば、宜しく人の定らぬ内に、課 長に呑込ませて置く可しだ。が、しかし、君の事たから、今更直付けに往き難いとで も思ふなら、我輩一臂の力を假しても宜しい、橋渡しをしても宜しいが、如何だ、お 思食は。」

「それは御親切……難有いが……」

 ト言懸けて、文三は默して仕舞ツた。迷惑は匿しても匿し切れない、自ら顏色 に現はれてゐる。モヂ付く文三の光景を視て、昇は早くもそれと悟ツたか、

「厭かネ。ナニ厭なものを無理に頼んで周旋しようと云ふんぢや無いから、そり や如何とも君の隨意さ。だが、しかし、……痩我慢なら、大抵にして置く方が宜から うぜ。」

 文三は血相を變へた……。

「そんな事仰しやるが無駄だよ。」

 トお政が横合から嘴を容れた。

「内の文さんは、グツと氣位が立ち上ツてお出でだから、其樣な卑劣な事ア出來 ないツサ。」

「ハヽア、然うかネ。其れは至極お立派な事た。ヤ、是れは飛んだ失敬を申し上 げました、アハヽヽ。」

 ト聞くと等しく、文三は眞青になつて、慄然と震へ出して、拳を握ツて、齒を 喰切ツて、昇の半面をグツと疾視付けて、今にもむしやぶり付きさうな顏色をした。 ……が、ハツと心を取直して、

「エヘ。」

 何となく席がしらけた。誰も口をきかない。勇がふかし甘薯を頬張ツて、右の 頬を脹らませながら、モツケな顏をして文三を凝視めた。お勢もまた、不思議さうに、 文三を凝視めた。

「お勢が顏を視てゐる。……此儘で阿容々々と退くは殘念。何か云ツて遣り度い。 何かカウ品の好い惡口雜言、一言の下に、昇を氣死させる程の事を云ツて、アノ鼻頭 をヒツ擦ツて、アノ者面を赧らめて……。」トあせる許りで、凄み文句は以上見附か らず、而してお勢を視れば、尚ほ文三の顏を凝視めてゐる……。文三は周章狼狽とし た……。

「モウ、そ……それツ切りかネ。」

 ト覺えず取外して云ツて、我ながら我音聲の變ツてゐるのに吃驚した。

「何が。」

 またやられた。蒼ざめた顏をサツと赧らめて、文三が、

「用事は。」

「ナニ用事。……ウー、用事か。用事と云ふから判らない。……左やう、是れツ 切りだ。」

 モウ席にも堪へかねる。默禮するや否や、文三が蹶然起上ツて、座鋪を出て二 三歩すると、後の方で、ドツと口を揃へて高笑ひをする聲がした。文三また慄然と震 へて、また蒼ざめて、口惜しさうに奧の間の方を睨詰めたまゝ、暫くの間、釘付けに 逢ツたやうに、立在んでゐた。が、頓てまた、氣を取直して悄々と出て參ツた。

 が、文三、無念で、殘念で、口惜しくて、堪へ切れぬ憤怒の氣が、クワツと許 りに激昂したのをば、無理無體に壓着けた爲めに、發しこぢれて、内攻して、胸中に 磅はく鬱積する、胸板が張裂ける、腸が斷絶れる。

 無念々々、文三は恥辱を取ツた。ツイ近屬と云ツて、二三日前までは、官等に 些とばかり高下は有りとも、同じ一課の局員で、優り劣りが無ければ、押しも押され もしなかツた昇如き犬自物の爲めに恥辱を取ツた。然り恥辱を取ツた。しかし、何の 遺恨が有ツて、如何なる原因が有ツて。

 想ふに、文三、昇にこそ怨はあれ、昇に怨みられる覺えは更にない。然るに昇 は何の道理も無く、何の理由もなく、恰も人を辱める特權でも有ツてゐるやうに、文 三を土芥の如くに蔑視して、犬猫の如くに待遇ツて、剩へ、叔母やお勢の居る前で嘲 笑した、侮辱した。

 復職する者が有ると云ふ役所の評判も、課長の言葉に思ひ當る事が有ると云ふ も、昇の云ふ事なら恃にはならぬ。假令、其等は實説にもしろ、人の痛いのなら百年 も我慢すると云ふ昇が、自家の利益を賭物にして、他人の爲めに周旋しようと云ふ、 まづ、其れからが呑み込めぬ。

 假りに一歩を讓ツて、全く朋友の眞實心から、彼樣な事を言出したとした所で、 それなら其れで言樣が有る。それを昇は、官途を離れて零丁孤苦、みすぼらしい身に 成ツたと云ツて文三を見括ツて、失敬にも、無禮にも、復職が出來たら此上が無から う、と云ツた。

 それも宜しいが、課長は、昇の爲めに課長なら、文三の爲めにもまた課長だ。 それを昇は、恰も自家一個の課長のやうに、課長々々とひけらかして、頼みもせぬに 「一臂の力を假してやらう、橋渡しをしてやらう、」と云ツた。疑ひも無く、昇は、 課長の信用、三文不通の信用、主人が奴僕に措く如き信用を得てゐると云ツて、それ を鼻に掛けてゐるに相違ない。それも己一個で鼻に掛けて、己一個でひけらかして、 己と己が愚を披露してゐる分の事なら、空家で棒を振ツた許り、當り觸りが無ければ、 文三も默ツても居よう、立腹もすまいが、その三文信用を挾んで、人に臨んで、人を 輕蔑して、人を嘲弄して、人を侮辱するに至ツては、文三腹に据ゑかねる。

 面と向ツて、圖大柄に、「痩我慢なら大抵にしろ、」ト、昇は云ツた。

 痩我慢、痩我慢、誰が痩我慢してゐると云ツた。また何を痩我慢してゐると云 ツた。

 俗務をおツつくねて、課長の顏色を承けて、強ひて笑ツたり、諛言を呈したり、 四ン這に這ひ廻ツたり、乞食にも劣る眞似をして、漸くの事で三十五圓の慈惠金に有 り附いた。……それが何處が榮譽になる。頼まれても文三には、其樣な卑屈な眞似は 出來ぬ。それを昇は、お政如き愚癡無智の婦人に持長じられると云ツて、我程働き者 はないと自惚れて仕舞ひ、加之も廉潔な心から、文三が手を下げて頼まぬと云へば、 嫉み妬みから負惜しみをすると、臆測を逞うして、人も有らうに、お勢の前で、「痩 我慢なら、大抵にしろ。」口惜しい、腹が立つ、餘の事は兎も角も、お勢の目前で辱 められたのが口惜しい。

「加之も、辱められる儘に辱められてゐて、手出しもしなかツた。」

 ト、何處でか、異な聲が聞えた。

「手出しをしなかツたのだ。手出しが爲度くも爲得なかツたのぢやない。」

 ト、文三、憤然として分疏を爲出した。

「我だツて男子だ。蟲も有る、膽氣も有る。昇なんぞは蚊蜻蛉とも思ツてゐぬが、 しかし、彼時憖じ、此方から手出しをしては、益々向うの思ふ坪に陷ツて、玩弄され る許りだし、且つ婦人の前でも有ツたから、爲難い我慢もして遣ツたんだ。

 トは知らずして、お勢が怜悧に見えても未惚女の事なら、蟻とも、螻とも、糞 中の蛆とも云ひやうのない人非人、利の爲めにならば、人糞をさへ嘗めかねぬ廉恥知 らず、昇如き者の爲めに、文三が嘲笑されたり、玩弄されたり、侮辱されたりしても、 手出しをもせず、阿容々々として退いたのを視て、或は腑甲斐ない、意氣地が無い、 と思ひはしなかツたか。……假令、お勢は何とも思はぬにしろ、文三はお勢の手前、 面目ない、恥かしい……。

「ト云ふも、昇、貴樣から起ツた事だぞ。ウヌ、如何するか見やがれ。」

 ト憤然として、文三が拳を握ツて、齒を喰切ツて、ハツタと許りに疾視付けた。 疾視付けられた者は通りすがりの巡査で。巡査は立止ツて、不思議さうに文三の脊丈 を眼分量に見積ツてゐたが、それでも、何とも言はずに、また彼方の方へと巡行して 往ツた。

 愕然として、文三が、夢の覺めたやうな面相をして、キヨロキヨロと四邊を環 視して見れば、何時の間にか靖國神社の華表際に鵠立んでゐる。考へて見ると、成程 爼橋を渡ツて、九段坂を上ツた覺えが、微かに殘ツてゐる。乃ち社内へ進入ツて、左 手の方の杪枯れた櫻の木の植込みの間へ這入ツて、兩手を背後に合はせながら、顏を 皺めて、其處此處と徘徊き出した。蓋し、尋ねようと云ふ石田の宿所は、後門を拔け ればツイ其處では有るが、何分にも、胸に燃す修羅苦羅の火の手が盛んなので、暫く 散歩して餘熱を冷ます積りで。

「しかし、考へて見ればお勢も恨みだ。」

 ト文三が徘徊きながら、愚癡を溢し出した。

「現在自分の……我が、本田のやうな畜生に辱められるのを傍觀してゐながら、 くやしさうな顏もしなかツた。……平氣で、人の顏を視てゐた……。」

「加之も立際に、一所に成ツて高笑ひをした、」ト無慈悲な記憶が、容赦なく言 足した。

「然うだ、高笑ひをした。……して見れば、彌々心變りがしてゐるか知らん。」

 ト思ひながら、文三が力無ささうに、とある櫻の樹の下に据ゑ付けてあツたペ ンキ塗りの腰掛へ腰を掛ける、と云ふよりは寧ろ尻餅を搗いた。暫くの間は、腕を拱 んで、頤を襟に埋めて、身動きをもせずに、靜まり返ツて默想してゐたが、忽ちフツ と首を振揚げて、

「ヒヨツトしたら、お勢に愛想を盡かさして……そして自家の方に靡かさうと思 ツて……それで故意と我を……お勢のゐる處で我を……然ういへば、アノ言樣、アノ ……お勢を視た眼付……コ、コ、コリヤ、此儘には措けん……。」

 ト云ツて、文三は血相を變へて、突立ち上ツた。

 が、如何したもので有らう。

 何歟、カウ、非常な手段を用ひて、非常な豪膽を示して、

「文三は男子だ、蟲も膽氣も此の通り有る。今まで何と言はれても、笑ツて濟ま してゐたのはナ、全く恢量大度だからだぞ、無氣力だからでは無いぞ。」ト、口で言 はんでも行爲で見せ付けて、昇の膽を褫ツて、叔母の睡を覺まして、若し愛想を盡か してゐるならば、お勢の信用をも買戻して、そして……そして……自分も實に膽氣が 有ると……確信して見度いが、如何したもので有らう。

 思ふさま、言ツて、言ツて、言ひまくツて、而して斷然絶交する。……イヤ/ \、昇も仲々口強馬、舌戰は文三の得策でない、と云ツて、正可、腕力に訴へる事も 出來ず。

「ハテ、如何して呉れよう。」

 ト、殆んど口へ出して云ひながら、文三がまた舊の腰掛に尻餅を搗いて、熟々 と考へ込んだ儘、一時間許りと云ふものは、靜まり返ツてゐて、身動きをもしなかツ た。

「オイ、内海君。」

 ト云ふ聲が頭上に響いて、誰だか肩を叩く者が有る。吃驚して、文三がフツと 顏を振揚げて見ると、手摺れて垢光りに光ツた洋服、加之も二三ケ處手痍を負うた奴 を着た壯年の男が、餘程酩酊してゐると見えて、鼻持のならぬ程の熟柿臭い香をさせ 乍ら、何時の間にか目前に突立ツてゐた。見れば舊と同僚で有ツた山口某といふ男で、 第一囘にチヨイと噂をして置いた、アノ山口と同人で、矢張踏外し連の一人。

「ヤ、誰かと思ツたら一別以來だネ。」

「ハヽヽ一別以來か。」

「大分御機嫌のやうだネ。」

「然り、御機嫌だ。しかし酒でも飮まんぢやア堪らん。アレ以來、今日で五日に なるが、毎日酒浸しだ。」

 ト云ツて、その證據立の爲めにか、胸で妙な間投詞を發して聞かせた。

「何故また、然うDespairを起したもんだネ。」

「Despairぢやア無いが、しかし、君、面目く無いぢやアないか。何等の不都合が 有ツて、我々共を追出したんだらう。また何等の取得が有ツて、彼樣な庸劣な奴許り を選んで殘したのだらう。その理由が聞いて見度いネ。」

 ト眞黒に成ツてまくし立てた、その顏を見て、傍を通りすがツた黒衣の園丁ら しい男が冷笑した。文三は些し氣まりが惡くなり出した。

「君も然うだが、僕だツても事務にかけちやア……。」

「些し小さな聲で咄し給へ、人に聞える。」

 ト氣を附けられて、俄に聲を低めて、

「事務に懸けちや、かう云やア可笑しいけれど、跡に殘ツた奴等に、敢て多くは 讓らん積りだ。然うぢやないか。」

「然うとも。」

「然うだらう。」

 ト乘地に成ツて、

「然るに唯一種事務外の事務を勉勵しないと云ツて、我我共を追出した。面白く 無いぢやないか。」

「面白く無いけれど、しかし、幾程云ツても仕樣が無いサ。」

「仕樣が無いけれども、面白く無いぢやないか。」

「時に、本田の云ふ事だから恃にはならんが、復職する者が二三人出來るだらう と云ふ事だが、君は其樣な評判を聞いたか。」

「イヤ聞かない。ヘエ、復職する者が、二三人。」

「二三人。」

 山口は俄に口を鉗んで、何歟默考してゐたが、頓て、少許絶望氣味で、

「復職する者が有ツても、僕ぢやア無い。僕はいかん。課長に憎まれてゐるから、 最う駄目だ。」

 ト云ツて、また暫く默考して、

「本田は一等上ツたと云ふぢやないか。」

「然うださうだ。」

「どうしても、事務外の事務の巧みなものは違ツたものだね。僕のやうな愚直な ものには、迚もアノ眞似は出來ない。」

「誰にも出來ない。」

「奴の事だから、さぞ得意でゐるだらうネ。」

「得意も宜いけれども、人に對ツて失敬な事を云ふから腹が立つ。」

 ト云ツて仕舞ツてから、アヽ惡い事を云ツた、と氣が附いたが、モウ取返しは 附かない。

「エ、失敬な事を。如何な事を/\。」

「エ、ナニ、些し……。」

「どんな事を。」

「ナニネ、本田が今日僕に、或人の處へ往ツてお髭の塵を拂はないかと云ツたか ら、失敬な事を云ふと思ツて、ピツタり跳付けてやツたら、痩我慢と云はん許りに云 やアがツた。」

「それで君、默ツてゐたか。」

 ト山口は憤然として、眼睛を据ゑて、文三の貌を凝視めた。

「餘程、やツつけて遣らうかと思ツたけれども、しかし、彼樣な奴の云ふ事を、 取上げるも大人氣ないと思ツて、赦して置いてやツた。」

「そ、そ、それだから不可ん。然う君は内氣だから不可ん。」

 ト苦々しさうに冷笑ツたかと思ふと、忽ちまた憤然として、文三の顏を疾視ん で、

「僕なら、直ぐ其場でブン打ツて仕舞ふ。」

「打らうと思へば譯は無いけれども、しかし、其樣な疎暴な事も出氣ない。」

「疎暴だツて關はんサ。彼樣な奴は時々打ツてやらんと、癖になツていかん。君 だから何だけれども、僕なら直ぐブン打ツて仕舞ふ。」

 文三は默して仕舞ツて、最早辯駁をしなかツたが、暫くして、

「時に、君は何だと云ツて、此方の方へ來たのだ。」

 山口は俄に、何歟思ひ出したやうな面相をして、

「ア、然うだツけ。……一番町に親類が有るから、此勢で是れから其處へ往ツて 金を借りて來ようと云ふのだ。それぢやア是れで別れよう。些と遊びに遣ツて來給へ。 失敬。」

 と自己が云ふ事だけを饒舌り立てて、人の挨拶は耳にも懸けず、急足に通用門 の方へと行く。その後姿を見送りて、文三が肚の裏で、

「彼奴まで我の事を、意氣地なし、と云はん許りに云やアがる。」