University of Virginia Library

6. 第六囘 どちら附かずのちくらが沖

 秋の日影も稍傾いて、庭の梧桐の影法師が脊丈を伸ばす三時頃、お政は獨り徒 然と、長手の火鉢に凭れ懸ツて、斜に坐りながら、火箸を執ツて灰へ書く樂書も倭文 字、牛の角文字いろいろに、心に物を思へばか、快々たる顏の色。動ともすれば太息 を吐いてゐる。折しも表の格子戸をガラリと開けて、案内もせず這入ツて來て、隔の 障子の彼方から、ヌツと顏を差出して、

「今日は。」

 ト挨拶をした男を見れば、何處かで見たやうな顏と思ふも道理。文三の免職に なツた當日、打連れて神田見附の裏より出て來た、ソレ中脊の男と言ツた彼の男で、 今日は退省後と見えて、不斷着の秩父縞の袷衣の上へ、南部の羽織をはおり、チト疲 勞れた博多の帶に、袂時計の紐を捲付けて、手に土耳古形の帽子を携へてゐる。

「オヤ何人かと思ツたらお珍らしいこと。此間は薩張りお見限りですネ。マアお 這入りなさいナ。それとも老婆ばかりぢやアお厭かネ。オホヽヽヽヽ。」

「イヤ結構……結構も可笑しい。アハヽヽヽヽ。トキニ何は、内海は居ますか。」

「ハア居ますよ。」

「其れぢや鳥渡會ツて來てから、それから此間の復讎だ。覺悟をしてお置きなさ い。」

「返討ぢやアないかネ。」

「違ひない。」

 ト何歟判らぬ事を言ツて、中脊の男は二階へ上ツて仕舞ツた。

 歸ツて來ぬ間に、チヨツピリ此男の小傳をと言ふ可き處なれども、何者の子で、 如何な教育を享け、如何な境界を渡ツて來た事か、過去ツた事は山媛の霞に籠ツてお ぼろおぼろ、トント判らぬ事而已。風聞に據れば、總角の頃に早く怙恃を喪ひ、寄邊 渚の棚なし小舟では無く宿無小僧となり、彼處の親戚、此處の知己と、流れ渡ツてゐ る内、曾て侍奉公までした事が有るといひ、イヤ無いといふ、紛々たる人の噂は、滅 多に恃になら坂や、兒手柏の上露よりももろいもの、と旁付けて置いて、さて正味の 確な所を掻摘んで誌せば、産は東京で、水道の水臭い士族の一人だと、履歴書を見た 者の噺、是ばかりは僞でない。本田昇と言つて、文三より二年前に某省の等外を拜命 した以来、吹小歇のない仕合の風にグツとのした出來星判任。當時は六等屬の獨身で は先づ樂な身の上。昇は所謂才子で、頗る智慧才覺が有ツて、また能く智慧才覺を鼻 に懸ける。辯舌は縱横無盡、大道に出る豆藏の壘を摩して雄を爭ふも可なり、といふ 程では有るが、堅板の水の流を堰きかねて、折節は覺えず法螺を吹く事もある。また 小器用で、何一つ知らぬといふ事の無い代り、是れ一つ卓絶れて出來るといふ藝も無 く、怠けるが性分で、倦るが病だ、といへば其れも其筈歟。

 昇はまた頗る愛嬌に富んでゐて、極て世辭がよい。殊に初對面の人にはチヤホ ヤもまた一段で、婦人にもあれ、老人にもあれ、それ相應に調子を合せて、曾てそら すといふことなし。唯不思議な事には、親しくなるに隨ひ、次第に愛想が無くなり、 鼻の頭で待遇ツて、折に觸れては氣に障る事を言ふか、さなくば厭におひやらかす。 其れを憤りて喰ツて懸れば、手に合ふ者は其場で捻返し、手に合はぬ者は一時笑ツて 濟まして後、必ず讐を酬ゆる。……尾籠ながら、犬の糞で横面を打曲げる。

 兎はいふものの、昇は才子で、能く課長殿に事へる。此課長殿といふお方は、 曾て西歐の水を飮まれた事のあるだけに、「殿樣風」といふ事がキツイお嫌ひと見え て、常に口を極めて、御同僚方の尊大の風を御誹謗遊ばすが、御自分は評判の氣六ケ 敷屋で、御意に叶はぬとなると、瑣細の事にまで眼を剥出して御立腹遊ばす。言はゞ 自由主義の壓制家といふ御方だから、哀れや屬官の人々は、御機嫌の取樣に迷いて、 ウロ/\する中に、獨り昇は迷かぬ。まづ課長殿の身態、聲音はおろか、咳拂ひの樣 子から、嚔の仕方まで眞似たものだ。ヤ、其また、眞似の巧な事といふものは宛も其 人が其處に居て云爲するが如くで、そツくり其儘。たゞ、相違と言ツては、課長殿は 誰 の前でもアハヽヽとお笑ひ遊ばすが、昇は人に依ツてエヘヽ笑ひをする而已。また課 長殿に物など言懸けられた時は、まづ忙はしく席を離れ、仔細らしく小首を傾けて謹 で承り、承り終ツて、さて莞爾微笑して恭しく御返答申上げる。要するに昇は長官を 敬すると言ツても、遠ざけるには至らず、狎れるといツても涜すには至らず、諸事萬 事御意の隨意々々、曾て抵抗した事なく、加之……此處が肝腎要……他の課長の遺行 を數へて、暗に盛徳を稱揚する事も折節はあるので、課長殿は「見處のある奴ぢや」 ト御意遊ばして、御贔屓に遊ばすが、同僚の者は善く言はぬ。昇の考では、皆法界悋 氣で、善く言はぬのだといふ。

兎も角も、昇は才子で、毎日怠らず出勤する。事務に懸けては頗る活溌で、他人 の一日分澤山の事を、半日で濟ましても平氣孫左衞門、難澁さうな顏色もせぬが、大 方は見せかけの勉強ぶり。小使、給仕などを叱散らして濟まして置く。退省て下宿へ 歸る。衣服を着更る。直ぐ何處へか遊びに出懸けて、落着いて在宿してゐた事は稀だ といふ。日曜日には、御機嫌伺ひと號して課長殿の私邸へ伺候し、圍碁のお相手をも すれば、御私用をも達す。先頃もお手飼に狆が欲しいと夫人の御意、聞くよりも早飮 込み、日ならずして何處で貰ツて來た事か、狆の子一疋を携へて御覽に供へる。件の 狆を御覽じて課長殿が、「此奴、妙な貌をしてゐるぢやアないか、ウー、」ト御意遊 ばすと、昇も「左樣で御座います、チト妙な貌をして居ります、」ト申上げ、夫人が 傍から「其れでも狆は、此樣に貌のしやくんだ方が好いのだと申します、」と仰しや ると、昇も「成程、夫人の仰の通り、狆は此樣に貌のしやくんだ方が好いのだと申し ます、」ト申上げて、御愛嬌にチヨイト、狆の頭を撫でて見たとか。しかし、永い間 には取外しも有ると見えて、曾て何歟の事で、些しばかり課長殿の御機嫌を損ねた時 は、昇は其當座一兩日の間、胸が閉塞へて食事が進まなかツたとかいふが、程なく夫 人のお癪から揉みやはらげて、殿さまの御癇癪も療治し、果は自分の胸の痞も押さげ たといふ、なか/\小腕のきく男で。

 下宿が眼と鼻の間の所爲歟、昇は屡々文三の處へ遊びに來る。お勢が歸宅して からは、一段足繁くなツて、三日にあげず遊びに來る。初とは違ひ近頃は文三に對し ては、氣に障る事而已を言散らすか、さもなければ同僚の非を數へて「乃公は」との 自負自讚。「人間地道に事をするやうぢや役に立たぬ、」などと、勝手な熱を吐散ら すが、それは邂逅の事で、大方は下座鋪で、お政を相手に無駄口を叩き、或る時は花 合せとかいふものを手中に弄して、如何がな眞似をした擧句、壽司などを取寄せて奢 り散らす。勿論お政には殊の外氣に入ツてチヤホヤされる。氣に入り過ぎはしないか と、岡燒をする者も有るが、正可四十面をさげて。……お勢には……、シツ、跫音が する昇ではないか。……當ツた。

「時に内海は如何も飛んだ事で、實に氣の毒な、今も往ツて慰めて來たが、鬱ぎ 切ツてゐる。」

「放擲ツてお置きなさいよ、身から出た錆だもの、些とは鬱ぐも好いのサ。」

「さう言へば其樣なやうな者だが、しかし、何しろ氣の毒だ。斯ういふ事になら うと、疾くから知ツてゐたら、又如何にか仕樣も有ツたらうけれども、何しても… …。」

「何とか言ツてましたらうネ。」

「何を。」

「私の事をサ。」

「イヤ何とも。」

「フム、貴君も頼母敷ないよ、あんな者を朋友にして、同類にお成んなさる。」

「同類にも何にも成りやアしないが、眞實に。」

「さう。」

 ト談話の内に茶を煎れ、地袋の菓子を取出して昇に侑め、またお鍋を以てお勢 を召ばせる。何時もならば文三にもと言ふ處を、今日は八分した(編者曰。はツぷと は、はぶく、又は、のけものにする意。)ゆゑ、お鍋が不審に思ひ、「お二階へは、」 ト尋ねると、「ナニ茶がカツ食ひたきやア……言はないでも宜いよ。」ト答へた。此 を名けてWoman's revenge(婦人の復讐)といふ。

「如何したんです、鬩り合ひでもしたのかネ。」

「鬩合ひなら宜いが、いぢめられたの、文三にいぢめられたの……。」

「それはまた、如何した理由で。」

「マア本田さん、聞いてお呉んなさい、斯うなんですよ。」

 ト昨日、文三にいぢめられた事をおまけにおまけを附着て、ベチヤクチヤと饒 舌り出しては止度なく、滔々蕩々として勢ひ百川の一時に決した如くで、言損じがな ければ委みもなく、多年の揣摩一時の宏辯、自然に備はる抑揚頓挫、或は開き或は闔 ぢて、縱横自在に言廻せば、鷺も烏に成らずには置かぬ。哀むべし文三は、竟に世に も怖ろしい惡棍と成り切ツた處へ、お勢は手に一部の女學雜誌を持ち、立ちながら讀 み讀み座鋪へ這入ツて來て、チヨイと昇に一禮したのみで嫣然ともせず、饒舌りなが ら母親が汲んで出す茶碗を憚りとも言はずに受取りて、一口飮んで下へ差措いたまゝ、 濟まアし切ツて復た再び讀みさしの雜誌を取り上げて眺め詰めた。昇と同席の時は何 時でも斯うで、

「トいふ譯で、ツイそれなり鳧にして仕舞ひましたがネ、マア本田さん、貴君は 何方が理窟だとお思ひなさる。」

「それは勿論内海が惡い。」

「そのまた惡い文三に肩を持ツてサ、私に喰ツて懸ツた者があると思召せ。」

「アラ、喰ツて懸りはしませんワ。」

「喰ツて懸らなくツてサ。……私は最う/\、腹が立ツて腹が立ツて堪らなかツ た。けれども、何にしても此通り氣が弱いし、それに先には文三といふ荒神樣が附い てるから、迚も叶ふ事ぢやア無いと思ツて、蟲を殺して噤默ツてましたがネ……。」

「アラ、彼樣な虚言ばツかり言ツて。」

「虚言ぢやないワ、眞實だワ……マ、なんぼなんだツて、呆れ返るぢや有りませ んか、ネー貴君、何處の國にか他人の肩を持ツてサ、シヽバヾの世話をして呉れた、 現在の親に喰ツて懸るといふものが、有るもんですかネ。ネー本田さん、然うぢやア 有りませんか。ギヤツと産れてから是までにするにア、仇や疎かな事ぢやア有りませ ん。子を持てば七十五度泣くといふけれども、此娘の事では是まで何百度泣いたか知 れやアしない。其樣にして育てて貰ツても、露程も難有いと思ツてないさうで、此頃 ぢや一口いふ二口目にや、速く惡たれ口だ。マ、なんたら因果で、此樣な邪見な子を 持ツたかと思ふと、シミジミ悲しくなりますワ。」

「人が默ツてゐれば、好い氣になつて彼樣な事を言ツて、餘りだから宜いワ。私 は三歳の小兒ぢやないから、親の恩位は知ツてゐますワ、知ツてゐますけれども、條 理……。」

「アヽモウ解ツた/\、何にも宜ふナ。よろしいよ、解ツたよ。」

 ト昇は、勃然と成ツて饒舌り懸けたお勢の火の手を手頸で煽り消して、さてお 政に向ひ、

「しかし叔母さん、比奴は一番失策ツたネ。平生の粹にも似合はないなされ方、 チトお恨みだ。マア考へて御覽じろ、内海といぢり合ひが有ツて見ればネ、ソレ…… といふ譯が有るから、お勢さんも默ツては見てゐられないやアネ、アハヽヽヽ……。」

 ト相手のない高笑ひ。お勢は額で昇を睨めたまゝ何とも言はぬ。お政も苦笑ひ をした而已で、是れも默然、些と席がしらけた趣き。

「それは戲談だがネ、全體叔母さん、餘り慾が深過ぎるよ。お勢さんの樣な、此 樣な上出來な娘を持ちながら……。」

「なにが、上出來なもんですか……。」

「イヤ上出來サ。上出來でないと思ふなら、まづ世間の娘子を御覽なさい。お勢 さん位の年恰好で、其樣に標致がよくツて見ると、學問や何歟かは其方退けで、是非 色狂ひとか何とか、碌な眞似はしたがらぬものだけれども、お勢さんは、流石に叔母 さんの仕込みだけ有ツて、縹致が好くツても、品行は方正で、曾て浮氣らしい眞似を した事はなく、唯一心に勉強してお出でなさるから、漢學は勿論出來るし、英學も… …今何を稽古してお出でなさる。」

「ナシヨナルのフオースに列國史に……。」

「フウ、ナシヨナルのフオース。ナシヨナルのフオースと言へば、なか/\難敷 い書物だ。男子でも讀めない者は幾程も有る、それを芳紀も若くツて且婦人の身でゐ ながら、稽古してお出でなさる。感心な者だ。だから此近邊ぢや ア、斯う言やア失敬のやうだけれども、鳶が鷹とは彼の事だと言つて、評判してゐま すぜ。ソレ御覽、色狂ひして親の顏に泥を塗ツても仕樣がない處を、お勢さんが出來 が宜いばツかりに、叔母さんまで人に羨まれるネ。何も足腰按るばかりが孝行ぢやア ない。親を人に善く言はせるのも孝行サ。だから全體なら、叔母さんは喜んでゐなく ツちやアならぬ處を、それをまだ不足に思ツて、兎や角ういふのは慾サ、慾が深過ぎ るのサ。」

「ナニ、些とばかりなら人樣に惡く言はれても宜いから、最う些し優敷して呉れ ると宜いんだけれども、邪慳で親を親臭いとも思ツてゐないから、憎くツて成りやア しません。」

 ト目を細くして、娘の方を顧視る。斯ういふ睨め方も有る ものと見える。

「喜び序に最う一ツ喜んで下さい。我輩、今日一等進みました。」

「エ。」

 トお政は此方を振向き、吃驚した樣子で、暫く昇の顏を目守めて、

「御結構が有ツたの……ヘエエー、それはマア、何してもお芽出度う御座いまし た。」

 ト鄭重に一禮して、偖改めて頭を振揚げ、

「ヘー御結構が有ツたの……。」

 お勢もまた、昇が御結構が有ツた、と聞くと等しく、吃驚した顏色をして、些 し顏を赧らめた、咄々怪事もあるもので。

「一等お上んなすツたと言ふと、月給は。」

「僅五圓違ひサ。」

「オヤ、五圓違ひだツて結構ですワ。かうツと今までが三十圓だツたから、五圓 殖えて……。」

「何ですネー、母親さん、他人の収入を……。」

「マアサ、五圓殖えて三十五圓、結構ですワ。結構でなくツてサ貴君、何うして 今時高利貸したツて、月三十五圓取らうと言ふなア、容易な事ぢやア有りませんよ。 ……三十五圓……どうしても働き者は違ツたもんだネー。だから、此娘とも常不斷さ う言ツてます事サ。アノー、本田さんは何だと、内の文三や何歟とは違ツて、まだ若 くツてお出でなさるけれども、利口で、氣働きが有ツて、如才が無くツて……。」

「談話も艶消しにして貰ひ度いネ。」

「艶ぢやア無い、眞個にサ、如才が無くツてお世辭がよくツて、男振も好いけれ ども、唯物喰の惡いのが、可惜珠に疵だツて、オホヽヽヽ。」

「アハヽヽヽ、貧乏人の質で、上げ下げが怖ろしい。」

「それは然うと、孰れ御結構振舞が有りませうネ。新富かネ、但しは市村かネ。」

「何處なりとも、但し負ぶで。」

「オヤ、それは難有くも何ともないこと。」

 ト、また口を揃へて高笑ひ。

「其れは戯談だがネ、芝居はマア芝居として、如何です、明後日、團子坂へ菊見 といふ奴は。」

「菊見、左樣さネ、菊見にも依りけりサ、犬川ぢやア、マア願ひ下げだネ。」

「其處にはまた、異な寸法も有らうサ。」

「笹の雪ぢやアないかネ。」

「正可。」

「眞個に往きませうか。」

「お出でなさい/\。」

「お勢、お前もお出ででないか。」

「菊見に。」

「アヽ。」

 お勢は生得の出遊き好。下地は好きなり、御意はよし、菊見の催頗る妙だが、 オイソレといふも不見識と思ツたか、手弱く辭退して直ちに同意して仕舞ふ。十分ば かりを經て、昇が立歸ツた跡で、お政は獨言のやうに、

「眞個に本田さんは感心なもんだナ。未だ年齡も若いのに、三十五圓月給取るや うに成んなすツた。それから思ふと、内の文三なんざア、盆暗の意氣地なしだツちや アない。二十三にも成ツて親を養す所か、自分の居處立處にさへ彷徨いてるんだ。な んぼ何だツて、愛想が盡きらア。」

「だけれども、本田さんは、學問は出來ないやうだワ。」

「フム、學問々々とお言ひだけれども、立身出世すればこそ學問だ。居處立處に 彷徨くやうぢやア、些とばかし書物が讀めたツて、ねツから難有味がない。」

「それは不運だから仕樣がないワ。」

 トいふ娘の顏を、お政は熟々目守めて、

「お勢、眞個にお前は、文三と何にも約束した覺えはないかエ。エ、有るなら有 ると言ツてお仕舞ひ、隱立をすると、却てお前の爲にならないよ。」

「また、彼樣な事を言ツて。……昨日あれ程、其樣な覺えは無いと言ツたのが、 母親さんには未だ解らないの。エ、まだ解らないの。」

「チヨツ、また始まツた。覺えが無いなら無いで好いやアネ。何にも其樣に、熱 くならなくツたツて。」

「だツて人をお疑りだものヲ。」

 暫く談話が斷絶れる。母親も、娘も、何歟思案顏。

「母親さん、明後日は何を着て行かうネ。」

「何なりとも。」

「エート、下着は何時ものアレにしてト、其れから、上着は何衣にしようかしら、 矢張、何時もの黄八丈にして置かうかしら……。」

「最う一つのお召縮緬の方にお爲よ。彼の方がお前にやア似合ふよ。」

「デモ彼れは品が惡いものヲ。」

「品が惡いてツたツて。」

「アヽ、此樣な時にア洋服が有ると好いのだけれどもナ……。」

「働き者を亭主に持ツて、洋服なと何なと、拵エて貰ふのサ。」

 トいふ母親の顏を、お勢はヂツと目守めて不審顏。

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[1]Gendai Nihon Bungaku Taikei, Vol. 1, (Tokyo: Chikuma Shobo, 1971; hereafter as GNBT) reads 戴いてゐ、.
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[2]GNBT reads 言ひかねて.
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[3] In the copy-text, the place for ら is blank. The word ら has been added to this e-text from GNBT.
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[4] In the copy-text this charachter is New Nelson 3442.
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[5] In the copy-text, the place for 咄 is blank. The word 咄 has been added to this e-text from GNBT.
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[6] In the copy-text this charachter is New Nelson 570.
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[7] GNBT reads マ何處を.
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[8] GNBT reads ながら.