University of Virginia Library

5. 第五囘 胸算違ひから見一無法な難題

 枕頭で喚覺ます下女の聲に、見果てぬ夢を驚かされて、文三が狼狽へた顏を振 揚げて向うを見れば、はや障子には朝日影が斜に射してゐる。「ヤレ寢過したか… …。」と思ふ間もなく、引續いてムク/\と浮み上ツた「免職」の二字で狹い胸がま づ塞がる……。おんばこを振掛けられた死蟇の身で躍り上り、 衣服を更めて夜の物を揚げあへず、楊枝を口へ頬張り、古手拭を前帶に插んで周章て て、二階を降りる。其跫音を聞きつけてか、奧の間で「文さん疾く爲ないと遲くなる よ。」トいふお政の聲は圭角はないが、文三の胸にはギツクリ應へて、返答に迷惑く。 そこで頬張ツてゐた楊枝を是れ幸ひと、我にも解らぬ出鱈目を口籠勝に言ツてまづ一 寸逃れ、

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々に顏を洗ツて朝飯の膳 に向ツたが、胸のみ塞がツて箸の歩みも止まりがち、三膳の飯を二膳で濟まして、何 時もならグツと突き出す膳も、ソツと片寄せるほどの心遣ひ。身體まで俄に小さくな ツたやうに思はれる。

 文三が食事を濟まして縁側を廻り、竊かに奧の間を覗いて見れば、お政ばかり でお勢の姿は見えぬ。お勢は近屬、早朝より駿河臺邊へ英語の稽古に參るやうになツ たことゆゑ、偖は今日も最う出かけたのかと、恐る/\座鋪へ這入ツて來る。その文 三の顏を見て、今まで火鉢の琢磨をしてゐたお政が、俄に光澤布巾の手を止めて、不 思議さうな顏をしたも其筈。此時の文三の顏色がツイ一通の顏色でない。蒼ざめてゐ て力なささうで、悲しさうで、恨めしさうで、恥かしさうで、イヤハヤ何とも言樣が ない。

「文さん、どうかお爲か、大變顏色がわりいよ。」

「イエ、如何も爲ませぬが……。」

「其れぢやア疾くお爲よ、ソレ御覽な、モウ八時にならアネ。」

「エー、まだお話し……申しませんでしたが……實は、さくじつ……め……め… …。」

 息氣はつまる、冷汗は流れる、顏は赧くなる、如何にしても言切れぬ。暫く無 言でゐて、更に出直して、

「ム、めん職になりました。」

 ト一思ひに言放ツて、ハツと差俯向いて仕舞ふ。聞くと等しく、お政は手に持 ツてゐた光澤布巾を宙に釣るして、

「オヤ」と、一聲叫んで身を反らした儘一句も出でばこそ、暫くは唯茫然として 文三の貌を見守めてゐたが、稍あツて忙はしく布巾を擲却り出して、小膝を進ませ、

「エ、御免にお成りだとエ……オヤマア、どうしてマア。」

「ど、ど、如何してだか……私にも解りませんが、……大方……ひ、人減らしで ……。」

「オーヤ/\、仕樣がないネー、マア御免になツてサ。ほんとに仕樣がない ネー。」と落膽した容子。須臾あツて、

「マアそれはさうと、是からは如何して往く積りだエ。」

「どうも仕樣が有りませんから、母親には最う些し國に居て貰ツて、私はまた官 員の口でも探さうかと思ひます。」

「官員の口てツたツて、チヨツクラチヨイと有りやアよし、無からうもんなら、 また何時かのやうな、憂い思ひをしなくツちやアならないやアネ……。だから私が言 はない事ちやアないんだ、些イと課長さんの處へも御機嫌伺ひにお出でお出でと、口 の酸ぱくなるほど言ツても、強情張ツてお出ででなかツたもんだから、其れで此樣な 事になツたんだよ。」

「まさか然ういふ譯でもありますまいが……。」

「いゝえ、必とさうに違ひないよ。でなくツて、成程人減らしだツて、罪も咎も ない者をさう無暗に御免になさる筈がないやアネ……。それとも何歟、御免になツて も仕樣がないやうな、わるい事をした覺えがお有りか。」

「イエ、何にも惡い事をした覺えは有りませんが……。」

「ソレ御覽なネ。」

 兩人とも暫く無言。

「アノ本田さんは(此男の事は第六囘に委曲しく)どうだツたエ。」

「彼の男はよう御座んした。」

「オヤ善かツたかい。さうかい。運の善い方は何方へ廻つても善いんだネー、其 れといふが、全體あの方は如才がなくツて、發明で、ハキ/\してお出でなさるから だよ。それに聞けば課長さんの處へも、常不斷御機嫌伺ひにお出でなさるといふ事だ から、必と其れで今度も善かツたのに違ひないよ。だから、お前さんも、私の言ふ事 を聞いて、課長さんに取入ツて置きやア、今度も矢張善かツたのかも知れないけれど も、人の言ふ事をお聞きでなかツたもんだから、其れで此樣な事になツちまツたん だ。」

「それはさうかも知れませんが、しかし、幾程免職になるのが恐いと言ツて、私 にはそんな卑劣な事は……。」

「出來ないとお言ひのか……。フン、瘠我慢をお言ひでない、そんな了簡方だか ら、課長さんにも睨められたんだ。マア、ヨーク考へて御覽。本田さんのやうな、彼 樣な方でさへ御免なツてはならないと思ひなさるもんだから、手間暇かいて、課長さ んに取入らうとなさるんぢやアないか。まして、お前さんなんざア、さう言ツちやア なんだけれども、本田さんから見りやア……なんだから、尚更の事だ。それもネー、 是れがお前さん一人の事なら、風見の烏みたやうに、高くばツかり止まツて、食ふや 食はずにゐようと居まいと、そりやア最う、如何なりと御勝手次第さ。けれども、お 前さんには、母親さんといふものが有るぢやアないかエ。」

 母親と聞いて、文三の萎れ返るを見て、お政は好い責道具を視付けたといふ顏 付。長羅宇の烟管で席を叩くをキツカケに、

「イエサ、母親さんが、お可哀さうぢやアないかエ。マア篤り、胸に手を宛てて 考へて御覽。母親さんだツて、父親さんには早くお別れなさるし、今ぢや便りにする なア、お前さんばツかりだから、如何樣にか心細いか知れない。なにも彼して、お國 で一人暮しの不自由な思ひをしてお出でなさり度くもあるまいけれども、それも、是 れも、皆お前さんの立身するばツかりを樂みにして、辛抱してお出でなさるんだよ。 そこを些しでも汲分けてお出でなら、假令どんな辛いと思ふ事が有ツても、厭だと思 ふ事があツても、我慢をしてサ、石に噛付いても出世をしなくツちやアならないと、 心懸けなければならない所だ。それをお前さんのやうに、ヤ、人の機嫌を取るのは厭 だの、ヤ、そんな卑劣な事は出來ないのと、其樣な我儘氣儘を言ツて、母親さんまで 路頭に迷はしちやア、今日冥利がわりいぢやないか。それやア、モウ、お前さんは自 分の勝手で、苦勞するんだから、關ふまいけれども、其れぢやア母親さんがお可哀さ うぢやないかい。」

 ト層にかゝツて極付けれど、文三は差俯向いた儘で返答をしない。

「アヽ/\、母親さんも彼樣に、今年の暮を樂みにしてお出でなさる處だから、 今度御免にお成りだとお聞きなすツたら、嘸、マア、落膽なさる事だらうが、年を寄 ツて御苦勞なさるのを見ると、眞個にお痛はしいやうだ。」

「實に母親には面目が御座んせん。」

「當然サ、二十三にも成ツて、母親さん一人さへ樂に養す事が出來ないんだもの ヲ、フヽン、面目が無くツてサ。」

 ト、ツンと濟まして空嘯き、烟草を環に吹いてゐる。其のお政の半面を、文三 は畏らしい顏をして佶と睨付け、何事をか言はんとしたが……氣を取り直して、莞爾 微笑した積りでも顏へ顯はれた所は苦笑ひ。震聲とも附かず、笑聲とも附かぬ聲で、

「ヘヽヽ面目は御座んせんが、しかし……出……出來た事なら……仕樣が有りま せん。」

「何だとエ。」

 トいひながら、徐かに此方を振向いたお政の顏を見れば、何時しか額に芋むしほどの青筋を張らせ、癇癪の眥を釣上げて、唇をヒン曲げて ゐる。

「イエサ、何とお言ひだ。出來た事なら仕樣が有りませんと……。誰れが出來し た事たエ、誰れが御免になるやうに仕向けたんだエ、みな自分の頑固から起ツた事ぢ やアないか。其れも傍で氣を附けぬ事か、さんざツぱら、人に世話を燒かして置いて、 今更御免になりながら面目ないとも思はないで、出來た事なら仕樣が有りませんとは、 何の事たエ。それはお前さんあんまりといふもんだ。餘り人を踏付けにすると言ふも んだ。全體マア、人を何だと思つてお出でだ。そりやア、お前さんの事だから、鬼老 婆とか、糞老婆とか言ツて、他人にしてお出でかも知れないが、私ア何處までも叔母 の積りだよ。ナアニ、是が他人で見るがいゝ、お前さんが御免になツたツて成らなく ツたツて、此方にやア痛くも痒くも何とも無い事だから、何で世話を燒くもんですか。 けれども、血は繋らずとも、縁あつて叔母となり、甥となりして見れば、然うしたも んぢやア有りません。ましてお前さんは、十四の春ポツと出の山出しの時から長の年 月此私が婦人の手一つで頭から足の爪頭までの事を世話アしたから、私にはお前さん を、御迷惑かは知らないが、血を分けた息子同樣に思ツてます。あゝやツてお勢や勇 といふ子供が有ツても、些しも陰陽なくしてゐる事が、お前さんにやア解らないかエ。 今までだツても然うだ、何卒マア、文さんも首尾よく立身して、早く母親さんを此地 へお呼び申すやうにして上げ度いもんだと思はない事は唯の一日も有りません。そん なに思ツてる所だものを、お前さんが御免にお成りだと聞いちやア私は愉快はしな いよ。愉快はしないから、アヽ困ツた事に成ツたと思ツて、ヤレ是れからはどうして 往く積りだ、ヤレお前さんの身になツたら嘸、母親さんに面目があるまいと、人事に しないで歎いたり、悔んだりして心配してる所だから、全體なら、叔母さんの了簡に 就かなくツて、かう御免になツて實に面目が有りません、とか何とか、詫言の一言で も言ふ筈の所だけれど、それも言はないでもよし、聞き度くもないが、人の言ふ事を 取上げなくツて御免になりながら、糞落着に落着拂つて、出來た事なら仕樣が有りま せんとは、何の事たエ。

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[7]マ 何處を
押せば其樣な音が出ま す……。アヽ/\つまらない心配をした、此方ではどこまでも實の甥と思ツて、心を 附けたり、世話を燒いたりして、親切を盡してゐても、先樣ぢや屁とも思召さない。」

「イヤ決して、然う言ふ譯ぢやア有りませんが、御存知の通り、口不調法なので、 心には存じながら、ツイ……。」

「イヽエ、其樣な言譯は聞きません。なんでも私を他人にしてお出でに違ひない、 糞老婆と思ツてお出でに違ひない……。此方はそんな不實な心意氣の人と知らないか ら、文さん何時までも彼やつて一人でもゐられまいから、來年母親さんがお出でなす ツたら、篤り御相談申して、誰れと言ツて宛もないけれども、相應なのが有ツたら一 人授け度いもんだ。夫にしても外人と違ツて、文さんがお嫁をお貰ひの事だから默ツ てもゐられない。何かしら祝つて上げなくツちやアなるまいからツて、此頃ぢやア、 アノ、博多の帶をくけ直さして、コノお召縮緬の小袖を仕立直さして、あれをかうし て、是れをかうしてと、毎日々々考へてばツかりゐたんだ。さうしたら案外で、御免 になるもいゝけれども、面目ないとも思はないで、出來た事なら仕樣が有りませぬと、 濟まアしてお出でなさる。……アヽ/\、最ういふまいいふまい、幾程言ツても他人 にしてお出でぢやア無駄だ。」

 ト厭味文句を竝べて始終癇癪の思入、暫く有ツて、

「それもさうだが、全體其位なら、昨夕の中に、實は是々で御免になりましたと、 一言位言ツたツてよささうなもんだ。お話しでないもんだから、此方は其樣な事とは 夢にも知らず、お辨當のお菜も毎日おんなじものばツかりでもお倦きだらう、アヽし て勉強してお勤にお出での事だから、其位の事は、此方で氣を附けて上げなくツちや アならないと思ツて、今日のお辨當のお菜は、玉子燒にして上げようと思ツても鍋に は出來ず、餘儀處ないから、私が面倒な思ひをして、拵へて附けましたアネ。…… アヽ/\偶に人が氣を利かせれば、此樣な事た。……しかし、飛んだ餘計なお世話で したよネー。誰れも頼みもしないのに、鍋……。」

「ハイ。」

「文さんのお辨當は打開けてお仕舞ひ。」

 お鍋女郎は、襖の彼方から横巾の廣い顏を差出して、「ヘー」ト、モツケな顏 付。

「アノネ、内の文さんは、昨日御免にお成りだツサ。」

「へーそれは。」

「どうしても働きのある人は、フヽン、違ツたもんだよ。」

 ト半まで言切らぬ内、文三は血相を變へて突と身を起し、ツカ/\と座鋪を立 出でて我子舎へ戻り、机の前にブツ坐ツて、齒を噛切ツての悔涙、ハラ/\と膝へ零 した。暫く有ツて文三は、はふり落ちる涙の雨を、ハンカチーフで拭止めた……が、 さて、拭ツても取れないのは、沸返る胸のムシヤクシヤ。熟々と思廻らせば廻らすほ ど、悔しくも、又、口惜しくなる。免職と聞くより早く、ガラリと變る人の心のさも しさは、道理らしい愚癡の蓋で、隱蔽さうとしても看透かされる。とはいへ、其れは、 忍ばうと思へば忍びもならうが、面のあたりに、意氣地なしと言はぬばかりのからみ 文句。人を見括ツた一言ばかりは、如何にしても腹に据ゑかねる。何故意氣地がない とて叔母があヽ嘲り辱めたか、其處まで思ひ廻らす暇がない。唯最う腸が斷れるばか りに悔しく、口惜しく、恨めしく、腹立たしい。文三は憤然として、「ヨシ先が其氣 なら、此方も其氣だ、畢竟姨と思へばこそ、甥と思へばこそ、言度い放題をも言はし て置くのだ。ナニ縁を斷ツて仕舞へば赤の他人、他人に遠慮も絲瓜も入らぬ事だ……。 糞ツ、面當半分に下宿をして呉れよう……。」ト腹の裏で獨言をいふと、不思議やお 勢の姿が目前にちらつく。「ハテさうしては、彼娘が……」ト文三は少し萎れたが、 ……不圖、又叔母の惡々しい者面を憶出して、又憤然となり、「糞ツ、止めても止ま らぬぞ、」ト何時にない斷念のよさ。かう腹を定めて見ると、サアモウ、一刻も居る のが厭になる、借住居かとおもへば、子舎が氣に喰はなくなる。我物でないかと思へ ば、縁の缺けた火入まで氣色に障る。時計を見れば早十一時、今から荷物を取旁付け て、是非とも今日中には下宿を爲よう、と思へば心までいそがれ、「糞ツ、止めても 止まらぬぞ、」と口癖のやうに言ひながら、焦氣となツて其處らを取旁付けにかゝり、 何か探さうとして机の抽出を開け、中に納れてあツた年頃五十の上をゆく白髮たる老 婦の寫眞にフト眼を注めて、我にもなく熟々と眺め入ツた。是れは老母の寫眞で。御 存知の通り、文三は生得の親おもひ、母親の寫眞を視て我が辛苦を嘗め艱難を忍び

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[8]なから
、定めない浮世に存生へてゐたのは、自分一人の爲 而已でない事を想出し、我と我を叱りもし又勵ましもする事何時も/\。今も今母親 の寫眞を見て、文三は日頃喰付けの感情をおこし、覺えずも悄然と萎れ返ツたが、又 惡々敷い叔母の者面を憶出して又焦氣となり、拳を握り齒を喰切り、「糞ツ、止めて も止まらぬぞ、」ト獨言を言ひながら、再び將に取旁付に懸らんとすると、二階の上 り口で、「お飯で御座いますよ、」ト下女の呼ぶ聲がする。故らに二三度呼ばして返 事にも勿體をつけ、しぶ/\二階を降りて、氣六ケ敷い、苦り切ツた怖ろしい顏色を して奧座鋪の障子を開けると……お勢がゐる。お勢が……。今まで殘念口惜しいと而 已一途に思詰めてゐた事ゆゑ、お勢の事は思出したばかりで心にも止めず、忘れると もなく忘れてゐたが、今突然、可愛らしい眼と眼を看合はせ、しをらしい口元で嫣然 笑はれて見ると……淡雪の日の目に逢ツて解けるが如く胸の鬱結も解けて、ムシヤク シヤも消え消えになり、今迄の我を怪しむばかりの心の變動、心底に沈んでゐた嬉し み、難有みが、思ひ懸けなくも、ニツコリ、顏へ浮み出し懸ツた……が、グツと飲込 んで仕舞ひ、心では笑ひながら、顏では懣てて膳に向ツた。さて食事も濟む。二階へ 立戻ツて、文三が再び取旁付に懸らうとして見たが、何となく拍子拔けがして、以前 のやうな氣力が出ない。ソツと小聲で「大丈夫、」ト言ツて見たが、どうも氣が引立 たぬ。依て更に出直して、「大丈夫、」と焦氣とした風をして見て、齒を喰切ツて見 て、「一旦思ひ定めた事を變がへるといふ事が有るものか。……知らん、止めても止 まらんぞ。」

 ト言ツて、出て往けば、彼娘を捨てなければならぬか、ト落膽したおもむき。 今更未練が出てお勢を捨てるなどといふ事は勿體なくて出來ず。ト言ツて、叔母に詫 言を言ふも無念。あれも厭なり、是れも厭なりで、思案の絲筋が縺れ出し、肚の裏で は上を下へとゴツタ返すが、此時より既にどうやら人が止めずとも、遂には我から止 まりさうな心地がせられた。「マア兎も角も、」と取旁付に懸りは懸ツたが考へなが らするので思の外暇取り、二時頃までかゝツて漸く旁付け終り、ホツと一息吐いてゐ ると、ミシリミシリと梯子段を登る人の跫音がする。跫音を聞いたばかりで、姿を見 すとも、文三にはそれと解ツた者か、先刻飮込んだニツコリを、 改めて顏へ現はして其方を振向く。上ツて來た者はお勢で、文三の顏を見て、是もま たニツコリして、さて座鋪を見廻し、

「オヤ、大變旁付いたこと。」

「餘りヒツ散らかツてゐたから。」

 ト我知らず言ツて、文三は我を怪んだ。何故虚言を言ツたか、自分にも解りか ねる。お勢は座に着きながら、さして吃驚した樣子もなく、

「アノ今母親さんがお噺しだツたが、文さん、免職におなりなすツたとネ。」

「昨日、免職になりました。」

 ト文三も今朝とはうツて反ツて、今は其處どころで無い、と言ツたやうな顏付。

「實に面目は有りませんが、しかし幾程悔んでも出來た事は仕樣が無いと思ツて、 今朝母親さんに御風聽申したが……叱られました。」

 トいツて、齒を噛切ツて差俯向く。

「さうでしたとネー、だけれども……。」

「二十三にも成ツて、親一人樂に過す事の出來ない意氣地なし、と言はないばか りに仰しやツた。」

「然うでしたとネー、だけれども……。」

「成程私は意氣地なしだ。意氣地なしに違ひないが、しかし、なんぼ叔母甥の間 柄だと言ツて、面と向ツて意氣地なしだ、と言はれては腹も立たないが、餘り……。」

「だけれども、あれは母親さんの方が不條理ですワ。今もネ、母親さんが得意に なツてお話しだツたから、私が議論したのですよ。議論したけれども、母親さんには 私の言ふ事が解らないと見えてネ、唯腹ばツかり立ててゐるのだから、教育の無い者 は仕樣がないのネー。」

 ト極り文句。文三は垂れてゐた頭をフツと振擧げて、

「エ、母親さんと議論を成すツた。」

「ハア。」

「僕の爲めに。」

「ハア、君の爲めに辯護したの。」

「アヽ。」

 ト言ツて、文三は差俯向いて仕舞ふ。何だか膝の上へ、ボツタリ零ちた物が有 る。

「どうかしたの、文さん。」

 トいはれて、文三は漸く頭を擡げ、莞爾笑ひ、其癖まぶち を濕ませながら、

「どうもしないが……實に……實に嬉しい。……母親さんの仰しやる通り、二十 三にも成ツて、お袋一人さへ過しかねる、其樣な腑甲斐ない私をかばツて、母親さん と議論をなすツたと。實に……。」

「條理を説いても解らない癖に、腹ばかり立ててゐるから、仕樣がないの。」

 ト少し得意の體。

「アヽそれ程までに私を……思ツて下さるとは知らずして、貴孃に向ツて匿立て をしたのが今更恥かしい。アヽ恥かしい。モウかうなれば、打敗けてお話して仕舞は う。實は是れから、下宿をしようかと思ツてゐました。」

「下宿を。」

「サ、爲ようかと思ツてゐたんだが、しかし、最う出來ない。他人同樣の私をか ばツて、實の母親さんと議論をなすツた、その貴孃の御親切を聞いちや、しろと仰し やツても、最う出來ない。……が、さうすると、母親さんにお詫を申さなければなら ないが……。」

「打遣ツてお置きなさいよ。あんな教育の無い者が、何と言ツたツて好う御座ん さアネ。」

「イヤさうでない、其れでは濟まない。是非お詫を申さうが、併し、お勢さん、 お志は嬉しいが、最う母親さんと議論をすることは罷めて下さい。私の爲めに貴孃を 不孝の子にしては濟まないから。」

「お勢。」

 ト下座舖の方で、お政の呼ぶ聲がする。

「ア、母親さんが呼んでお出でなさる。」

「ナアエ、用も何も有るんぢやアないの。」

「お勢。」

「マア、返事を爲さいよ。」

「お勢/\。」

「ハアイ。……チヨツ五月蠅いこと。」

 ト起上る。

「今話した事は皆母親さんにはコレですよ。」

 ト文三が手首を振ツて見せる。お勢は唯點頭いた而已で言葉はなく、二階を降 りて奧座舖へ參ツた。

 先程より癇癪の眥を釣り上げて、手藥煉引いて待ツてゐた母親のお政は、お勢 の顏を見るより早く、込上げて來る小言を、一時にさらけ出しての大怒鳴。

「お……お……お勢、あれ程呼ぶのがお前には聞えなかツたかエ。聾者ぢやある まいし、人が呼んだら好加減に返事をするがいゝ……。全體まア、何の用が有ツて二 階へお出でだ。エ、何の用が有ツてだエ。」

 ト逆上せあがツて極め付けても、此方は一向平氣なもので、

「何にも用は有りやアしないけれども……。」

「用がないのに何故お出でだ。先刻あれほど、最う是からは、今迄のやうにヘタ クタ二階へ往ツてはならない、と言ツたのが、お前にはまだ解らないかエ。さかりの 附いた犬ぢやアあるまいし、間がな透がな、文三の傍へばツかし往きたがるよ。」

「今までは二階へ往ツても善くツて、是からは惡いなんぞツて、其樣な不條理 な。」

「チヨツ解らないネー、今迄の文三と文三が違ひます。お前にやア免職になツた 事が解らないかエ。」

「オヤ、免職に成ツてどうしたの。文さんが人を見ると咬付きでもする樣になツ たの、へー然う。」

「な、な、な、なんだとお言ひだ……。コレお勢、それはお前、あんまりと言ふ もんだ。餘り親を馬、馬、馬、馬鹿にすると言ふもんだ。」

「ば、ば、ば、馬鹿にはしません。へー私は、條理のある處を主張するので御座 います。」

 ト脣を反らしていふを、聞くや否や、お政は、忽ち顏色を變へて、手に持ツて ゐた長羅宇の烟管を席へ放り付け、

「エヽ、くやしい。」

 ト齒を喰切ツて口惜しがる。その顏を横眼でジロリと見たばかりで、お勢はす まアし切ツて、座鋪を立出でて仕舞ツた。

 しかしながら、此を親子喧嘩と思ふと、女丈夫の本意に背く。どうして/\親 子喧嘩……其樣な不道徳な者でない。是れはこれ辱なくも難有くも、日本文明の一原 案ともなるべき新主義と、時代後れの舊主義と、衝突をする處。よくお眼を止めて御 覽あられませう。

 其夜、文三は、斷念ツて叔母に詫言をまをしたが、ヤ、梃ずツたの梃ずらない のと言ツて、それは/\……まづお政が今朝言ツた厭味に、輪を懸け枝を添へて、百 曼陀羅ならべ立てた擧句、お勢の親を麁末にするまでを、文 三の罪にして難題を言懸ける。されども文三が、死んだ氣になツて、諸事お容されて で持切ツてゐるに、お政もスコだれの拍子拔けといふ光景で、厭味の音締をするやう に成ツたから、まづ好しと思ふ間もなく、不圖又文三の言葉尻から燃出して、以前に も立優る火勢、黒烟焔々と顏に漲る所を見ては、迚も鎭火しさうも無かツたのも、文 三が濟みませぬの水を斟盡して澆ぎかけたので、次第々々に下火になツて、プス/\ 燻になツて、遂に不精々々に鎭火る。文三は吻と一息。寸善尺魔の世の習ひ、またも や御意の變らぬ内にと、挨拶も匆匆に起ツて座鋪を立出で、二三歩すると背後の方で、 お政がさも聞えよがしの獨言。

「アヽ/\、今度こそは厄介拂ひかと思ツたら、また背負込みか。」