University of Virginia Library

12. 第十二囘 いすかの嘴

 文三が二階を降りて、ソツとお勢の部屋の障子を開ける其の途端に、今迄机に 頬杖をついて、何事か物思ひをしてゐたお勢が、吃驚した面相をして、些し飛上ツて 居住居を直した。顏に手の痕の赤く殘ツてゐる所を觀ると、久敷頬杖をついてゐたも のと見える。

「お邪魔ぢや有りませんか。」

「イヽエ。」

「それぢやア。」

 ト云ひ乍ら、文三は、部屋へ這入ツて、座に着いて、

「昨夜は大に失敬しました。」

「私こそ。」

「實に面目が無い。貴孃の前をも憚らずして……今朝その事で慈母さんに小言を 聞きました。アハヽヽ。」

「さう。オホヽヽ。」

 ト無理に押出したやうな笑ひ聲、何となく冷淡い。今朝のお勢とは、全で他人 のやうで。

「時に些し、貴孃に御相談が有る。他の事でも無いが、今朝慈母さんの仰しやる には……しかし、最うお聞きなすツたか。」

「イヽエ。」

「成程然うだ、御存知ない筈だ。……慈母さんの仰しやるには、本田がアヽ親切 に云ツて呉れるものだから、橋渡しをして貰ツて、課長の處へ往ツたらば如何だ、仰 しやるのです。そりや、成程、慈母さんの仰しやる通り、今?處で私さへ我を 折れば、私の身も極まるし、老母も安心するし、三方四方、(ト言葉に力瘤を入れ て)圓く納まる事だから、私も出來る事なら然うしたいが、しかし、然う爲ようとす るには、良心を絞殺さなければならん、課長の鼻息を窺はなければならん。其樣な事 は我々には出來んぢや有りませんか。」

 「出來なければ、其迄ぢや有りませんか。」

「サ、其處です。私には出來ないが、しかし、然うしなければ、慈母さんがまた 惡い顏をなさるかも知れん。」

「母が惡い顏をしたツて、其樣な事は何だけれども……。」

「エ、關はんと仰しやるのですか。」

 ト文三は、ニコ/\と笑ひながら問懸けた。

「だツて然うぢや有りませんか、貴君が貴君の考どほりに進退して、良心に對し て毫しも恥づる所が無ければ、人が如何な貌をしたツて宜いぢや有りませんか。」

 文三は笑ひを停めて、

「ですが、唯、慈母さんが惡い顏をなさる許りならまだ宜いが、或はそれが原因 と成ツて、……貴孃には如何かはしらんが、……私の爲めには最も忌むべき、最も哀 む可き結果が生じはしないか、と危ぶまれるから、それで私も困るのです。……尤も、 其樣な結果が生ずると、生じないとは、貴孃の……貴孃の……。」

 ト云懸けて、默して仕舞ツたが、頓て聞えるか聞えぬ程の小聲で、

「心一つに在る事だけれども……。」

 ト云ツて差俯向いた。文三の懸けた謎々が、解けても解けない風をするのか、 それとも如何だか其處は判然しないが、兎も角もお勢は頗る無頓着な容子で、

「私にはまだ貴君の仰しやる事がよく解りませんよ。何故然う課長さんの處へ往 くのがお厭だらう。石田さんの處へ往ツてお頼みなさるも、課長さんの處へ往ツてお 頼みなさるも、その趣は同一ぢや有りませんか。」

「イヤ違ひます。」

 ト云ツて、文三は首を振揚げた。

「非常な差が有る、石田は私を知つてゐるけれど課長は私を知らないから……。」

「そりや如何だか解りやしませんやアネ、往ツて見ない内は。」

「イヤ、そりや、今迄の經驗で解ります。そりや掩ふ可らざる事實だから、何だ けれども……それに課長の處へ往かうとすれば、是非とも先づ本田に依頼をしなけれ ばなりません。勿論課長は、私も知らない人ぢやないけれども……。」

「宜いぢや有りませんか、本田さんに依頼したツて。」

「エ、本田に依頼をしろと。」

 ト云ツた時は、文三は、モウ、今迄の文三で無い、顏色が些し變ツてゐた。

「命令するのぢや有りませんがネ、唯依頼したツて宜いぢや有りませんか、と云 ふの。」

「本田に。」

 ト文三は、恰も我耳を信じないやうに、再び尋ねた。

「ハア。」

「彼樣な卑屈な奴に……課長の腰巾着……奴隷……。」

「そんな……。」

「奴隷と云はれても恥とも思はんやうな犬……犬……犬猫同然な奴に、手を杖い て頼めと仰しやるのですか。」

 ト云ツて、ヂツとお勢の顏を凝視めた。

「昨夜の事が有るから、それで貴君は其樣に仰しやるんだらうけれども、本田さ んだツて、其樣に卑屈な人ぢや有りませんワ。」

「フヽン、卑屈でない、本田を卑屈でない。」

 ト云ツて、さも苦々しさうに冷笑ひながら、顏を背けたが、忽ちまたキツとお 勢の方を振向いて、

「何時か貴孃、何と仰しやツた。本田が貴孃に對ツて、失敬な戯謔を言ツた時に ……。」

「そりや彼時には、厭な感じも起ツたけれども、能く交際して見れば、其樣に貴 君のお言ひなさるやうに、破廉恥の人ぢや有りませんワ。」

 文三は默然として、お勢の顏を凝視めてゐた。但し宜敷ない徴候で。

「昨夜もアレから下へ降りて、本田さんがアノー、慈母さんが聞くと必と喧まし く言出すに違ひない、然うすると僕は何だけれども、アノ内海が困るだらうから、默 ツてゐて呉れろ、ト口止めしたから、私は何とも言はなかツたけれども、鍋がツイ饒 舌ツて……。」

「古狸奴、そんな事を言やアがツたか。」

「また彼樣な事を云ツて……そりや文さん、貴君が惡いよ。彼程貴君に罵詈され ても、腹も立てずに、矢張貴君の

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[13]利益 思ツて
云ふ者を、 それをそんな古狸なんぞツて……。そりや貴君は温順だのに、本田さんは活溌だから、 氣が合はないかも知れないけれども、貴君と氣の合はないものは、皆破廉恥と極ツて も居ないから、……それを無暗に罵詈して……其樣な失敬な事ツて……。」

 ト些し顏を赧めて、口早に云ツた。文三は、益々腹立しさうな面相をして、

「それでは何ですか、本田は貴孃の氣に入ツたと云ふんですか。」

「氣に入るも入らないも無いけれども、貴君の云ふやうな、其樣な破廉恥な人ぢ や有りませんワ。……それを古狸なんぞツて、無暗に人を罵詈して……。」

「イヤ、まづ、私の聞く事に返答して下さい。彌々本田が氣に入ツたと云ふんで すか。」

 言樣が些し烈しかツた。お勢はムツとして、暫く、文三の容子をジロリ/\と 視てゐたが、頓て、「其樣な事を聞いて何になさる。本田さんが私の氣に入らうと、 入るまいと、貴君の關係した事は無いぢや有りませんか。」

「有るから聞くのです。」

「そんなら、如何な關係が有ります。」

「如何な關係でもよろしい。それを今説明する必要は無い。」

「そんなら、私も、貴君の問に答へる必要は有りません。」

「それぢやア宜しい、聞かなくツても。」

 ト云ツて、文三はまた顏を背けて、さも苦々しさうに、獨言のやうに、

「人に問詰められて、逃げるなんぞと云ツて、實に卑、卑、卑劣極まる。」

「何ですと、卑劣極まると。……宜う御座んす。……其樣な事お言ひなさるなら、 匿したツて仕樣がない、言ツて仕舞ひます……言ツて仕舞ひますとも……。」

 ト云ツて、少し胸を突出して、儼然として、

「ハイ、本田さんは、私の氣に入りました。……それが如何しました。」

 ト聞くと、文三は慄然と震へた、眞蒼に成ツた。……暫くの間は言葉はなくて、 唯だ恨めしさうに、ヂツとお勢の澄ました顏を凝視めてゐた其の眼縁が、見る/\う るみ出した……が、忽ちハツと氣を取直して、儼然と容を改めて、震聲で、

「それぢや……それぢや斯うしませう、今迄の事は全然……水に……。」

 言切れない。胸が一杯に成ツて、暫く杜絶れてゐたが、思ひ切ツて、

「水に流して仕舞ひませう……。」

「何です、今迄の事とは。」

「此場に成ツて、然うとぼけなくツても宜いぢや有りませんか。寧そ別れるもの なら……綺麗に……別れようぢや……有りませんか……。」

「誰がとぼけてゐます。誰が誰に別れようと云ふのです。」

 文三はムラ/\とした。些し聲高に成ツて、

「とぼけるのも好加減になさい。誰が誰に別れるのだとは、何の事です。今まで さんざ人の感情を弄んで置きながら、今と成ツて……本田なぞに見返るさへ有るに、 人が穩かに出れば、附上ツて、誰が誰に別れるのだとは何の事です。」

「何ですと、人の感情を弄んで置きながら。……誰が人の感情を弄びました。… …誰が人の感情を弄びましたよ。」

 ト云ツた時は、お勢もうるみ眼に成ツてゐた。文三は、グツとお勢の顏を疾視 付けてゐる而已で、一語をも發しなかツた。

「餘りだから宜い……人の感情を弄んだの、本田に見返ツたのと、いろんな事を 云ツて讒謗して……自分が己惚れて如何な夢を見てゐたツて、人の知ツた事ちや有り やしない……。」

 トまだ言終らぬ内に、文三はスツクと起上ツて、お勢を疾視付けて、

「モウ言ふ事も無い、聞く事も無い。モウ是れが口のきゝ納めだから、然う思ツ てお出でなさい。」

「さう思ひますとも。」

「澤山……浮氣をなさい。」

「何ですと。」

 ト云ツた時には、モウ文三は、部屋には居なかツた。

「畜生……馬鹿……口なんぞ聞いて呉れなくツたツて、些とも困りやしないぞ。 ……馬鹿……。」

 ト跡でお勢が敵手も無いのに獨りで熱氣となツて、惡口を竝べ立ててゐる處へ、 何時の間に歸宅したか、ふと母親が這入ツて來た。

「如何したんだエ。」

「畜生……。」

「如何したんだと云へば。」

「文三と喧嘩したんだよ。……文三の畜生と……。」

「如何して。」

「先刻突然這入ツて來て、今日慈母さんが斯う/\言ツたが、如何しようと相談 するから、それから昨夜慈母さんが言ツた通りに……。」

「コレサ、靜かにお言ひ。」

「慈母さんの言ツた通りに云ツて勸めたら、腹を立てやアがツて、人の事をいろ んな事を云ツて。」

 ト手短かに、勿論自分に不利な處は悉皆取除いて、次第を咄して、

「慈母さん、私ア口惜しくツて/\ならないよ。」

 ト云ツて、襦袢の袖口で泪を拭いた。

「フウ然うかエ、其樣な事を云ツたかエ。それぢや最うそれまでの事だ。彼樣な 者でも家大人の血筋だから、今と成ツて彼此言出しちや面倒臭いと思つて、此方から 折れて出て遣れば、附上ツて其樣な我儘勝手を云ふ。……モウ勘辨がならない。」

 ト云ツて、些し考へてゐたが、頓てまた、娘の方を向いて、 一段聲を低めて、

「實はネ、お前には、まだ内々でゐたけれども、家大人はネ、行々はお前を文三 に配合せる積りでお出でなさるんだが、お前は……厭だらうネ。」

「厭サ/\、誰が彼樣な奴に……。」

「必と然うかエ。」

「誰が彼樣な奴に……乞食したツて、彼樣な奴のお嫁に成るもんか。」

「その一言をお忘れでないよ。お前が彌々その氣なら、慈母さんも了簡が有るか ら。」

「慈母さん、今日から、私を下宿さしてお呉んなさいな。」

「なんだネ、此娘は。藪から棒に。」

「だツて私ア、モウ文さんの顏を見るのも厭だもの。」

「そんな事言ツたツて、仕樣が無いやアネ。マア最う些と辛抱してお出で。その 内にや慈母さんが宜いやうにして上げるから。」

 此時は、お勢は默してゐた、何か考へてゐるやうで。

「是からは、眞個に、慈母さんの言ふ事を聽いて、モウ餘り文三と口なんぞお利 きでないよ。」

「誰が利いてやるもんか。」

「文三許りぢや無い、本田さんにだツても然うだよ。彼樣に昨夜のやうに遠慮の 無い事をお言ひでないよ。それアお前の事だから、正可そんな……不埓なんぞはお爲 ぢや有るまいけれども、今が嫁入前で一番大事な時だから。」

「慈母さんまで其樣な事を云ツて、……そんなら、モウ、是れから本田さんが來 たツて、口も利かないから宜い。」

「口を利くなぢや無いが、唯昨夜のやうに……。」

「イヽエ/\、モウ口も利かない/\。」

「さうぢや無いと云へばネ。」

「イヽエ、モウ口も利かない/\。」

 ト頭を振る娘の顏を視て、母親は、

「全で狂氣だ。チヨイと人が一言いへば、直に腹を立ツて仕舞ツて、手も附けら れやアしない。」

 ト云ひ捨てて、起上ツて、部屋を出て仕舞ツた。

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[9] GNBT reads 団子坂.
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[10] GNBT reads ピツタリと.
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[11] In copy-text this character is New Nelson 27.
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[12] GNBT reads 有ツたものだ。まづ『タイムス』新聞の.
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[13] GNBT reads 利益を思ツて.