University of Virginia Library

13. 第十三囘

 心理の上から觀れば、智愚の別なく、人咸く面白味は有る。内海文三の心状を 觀れば、それは解らう。

 前囘參看。文三は既にお勢に窘められて、憤然として部屋へ駈戻ツた。さてそ れからは獨り演劇。泡を噛んだり、拳を握ツたり、どう考へて見ても心外でたまらぬ。 「本田さんが氣に入りました。」それは一時の激語、と承知してゐるでもなく、又居 ないでも無い、から、強ち其ればかりを怒ツた譯でもないが、唯腹が立つ。まだ何か 他の事で、おそろしく、お勢に欺かれたやうな心地がして、譯もなく腹が立つ。

 腹の立つまゝ、遂に下宿と決心して、宿所を出た。では、お勢の事は、既にす ツぱり思ひ切ツてゐるか、といふに、然うではない。思ひ切ツてはゐない。思ひ切ツ てはゐないが、思ひ切らぬ譯にもゆかぬから、そこで悶々する。利害得喪、今はその やうな事は頓着無い。唯己れに逆ツてみたい。己れの望まない事をして見たい。鴆 毒? 持ツて來い。嘗めて此一生をむちやくちやにして見せよう……。

 そこで、宿所を出た。同じ下宿するなら、遠方がよいといふので、本郷邊へ往 ツて尋ねてみたが、どうも無かツた。から、彼地から小石川へ下りて、其處此處と尋 ね廻るうちに、ふと水道町で、一軒見當てた。宿料も廉、其割には座鋪も清潔。下宿 をするなら、まづ此處等と定めなければならぬ。……となると、文三急に考へ出した。 「いづれ考へてから。またそのうちに……。」

 言葉を濁して其家を出た。

「お勢と諍論ツて家を出た。――叔父が聞いたら、さぞ心持を惡くするだらうな ア……。」と歩きながら、徐々畏縮だした。「ト云ツて、どうも、此儘には濟まされ ん。……思ひ切ツて、今の家に下宿しようか?……。」

 今更心が動く。どうしてよいか、譯がわからない。時計を見れば、まだ漸く三 時半すこし廻ツた許り。今から歸るも、何となく氣が進まぬ。から、彼處から牛込見 附へ懸ツて、腹の屈託を口へ出して、折々往來の人を驚かしながら、いつ來るともな く番町へ來て、例の教師の家を訪問れてみた。

 折善く、最う、學校から歸ツてゐたので、すぐ面會した。が、授業の模樣、舊 生徒の噂、留學、龍動、「タイムス」、ハアバアト・スペンサア ――相變らぬ噺で、おもしろくも何ともない。「私、……事に寄ると……此頃に下宿 するかも知れません。」唐突に宛もない事を云ツてみたが、先生少しも驚かず、何故 か、ふむと鼻を鳴らして、只「羨ましいな、もう一度其樣な身になツてみたい、」と ばかり。とんと方角が違ふ。面白くないから、また辭して、教師の宅をも出てしまツ た。

 出た時の勢に引替へて、すご/\歸宅したは、八時ごろの事で有ツたらう。ま づ眼を配ツてお勢を搜す。見えない、お勢が……。棄てた者に用も何もないが、それ でも、文三に云はせると、人情といふものは妙なもので、何となく氣に懸るから、火 を持ツて上ツて來たお鍋に、こツそり聞いてみると、お孃さまは、氣分が惡いと仰し やツて、御膳も碌に召上らずに、もウお休みなさいました、といふ。

「御膳も碌に?……」

「御膳も碌に召しあがらずに。」

 確められて、文三急に萎れかけた……が、ふと氣をかへて、「へ、へ、へ、御 膳も召上らずに……今に、鍋燒饂飩でも喰度くなるだらう。」

 をかしな事をいふ、とは思ツたが、使に出てゐて、今朝の騒動を知らないから、 お鍋は其儘降りて仕舞ふ。

 ト、獨りになる。「へ、へ、へ、」とまた思出して冷笑ツた……が、ふと心附 いてみれば、今は、其樣な、つまらぬ、くだらぬ、藥袋も無い事に拘はツてゐる時で はない。「叔父の手前、何と云ツて出たものだらう?」と、改めて首を捻ツて見たが、 もウ何となく馬鹿氣てゐて、眞面目になツて考へられない。「何と云ツて出たものだ らう?」と強ひて考へてみても、心めがいふ事を聽かず、それとは全く關繋もない餘 所事を、何時からともなく思ツて仕舞ふ。いろ/\に紛れようとしてみても、どうも 紛れられない。意地惡くもその餘所事が氣に懸ツて、氣に懸ツて、どうもならない。 怺へに怺へて、怺へて見たが、とう/\怺へ切れなくなツて、「して見ると、同じや うに苦しんでゐるか知らん。」ハツと云ツても追付かず、かう思ふと、急におそろし く、氣の毒になツて來て、文三は狼狽てて、後悔をしてしまツた。叱るよりは謝罪る 方が、文三には似合ふ、と誰やらが云ツたが、さうかも知れない。