University of Virginia Library

19. 第十九囘

 お勢は、一旦は文三を、仂なく辱めはしたものの、心にはさほどにも思はんか、 其後はたゞ冷淡なばかりで、さして辛くも當らん。が、それに引替へて、お政はます /\文三を憎んで、始終出て行けがしに待遇す。何か用事が有りて、下座鋪へ降りれ ば、家内中寄集りて、口を解いて面白さうに雜談などしてゐる時でも、皆云ひ合した やうに、ふと口を箝んで顏を曇らせる。といふうちにも取分けて、お政は不機嫌な體 で、少し文三の出やうが遲ければ、何を愚頭愚頭してゐる、と云はぬばかりに、此方 を睨めつけ、ときには氣を焦ツて、聞えよがしに舌鼓など鳴らして、聞かせる事も有 る。文三とても白癡でもなく、瘋癲でもなければ、それほどにされんでも、今此處で 身を退けば、眉を伸べて喜ぶ者が、そこらに澤山あることに心附かんでも無いから、 心苦しいことは口に云へぬほどで有る。けれど、尚ほ、園田の家を辭し去らうとは思 はん。何故にそれほどまでに、園田の家を去りたくないのか。因循な心から、あれほ どにされても、尚ほそのやうに角立ツた事は出來んか。それほどになツても、まだ、 お勢に心が殘るか。抑もまた、文三の位置では陷り易い謬。お勢との關繋が、此儘に なツて仕舞ツたとは、戯談らしくてさうは思へんのか? 總て、此等の事は、多少は 文三の羞を忍んで、尚ほ園田の家に居る原因となツたに相違ない。が、しかし、重な 原因ではない。重な原因といふは、即ち人情の二字。此二字に羈 絆られ、文三は心ならずも、尚ほ園田の家に顏を皺めながら留ツてゐる。

 心を留めて視なくとも、今の家内の調子が、むかしとは大に相違するは、文三 にも解る。以前まだ文三が、此の調子を成す一つの要素で有ツて、人々が眼を見合し ては微笑し、幸福といはずして、幸福を樂んでゐたころは、家内全體に生温い春風が 吹渡ツたやうに、總て穩に、和いで、沈着いて、見る事、聞く事が盡く自然に適ツて ゐたやうに思はれた。そのころの幸福は、現在の幸福ではなくて、未來の幸福の影を 樂しむ幸福で、我も、人も、皆何か不足を感じながら、強ちにそれを足さうともせず、 却ツて今は足らぬが當然、と思ツてゐたやうに、急かず、騒がず、悠々として時機の 熟するを竢ツてゐた。その心の長閑さ、寛さ、今憶ひ出しても、閉ぢた眉を開くばか りな。……其頃は人人の心が期せずして、自ら一致し、同じ事を念ひ、同じ事を樂ん で、強ちそれを匿さうともせず、また匿すまいともせず、胸に城郭を設けぬからとて、 言ツて花の散るやうな事は云はず、また聞かうともせず。まだ妻でない妻、夫でない 夫、親で無い親――と、かう三人集ツたところに、誰が作り出すこともなく、自らに 清く、穩な、優しい調子を作り出して、それに隨れて物を言ひ、 事をしたから、人々が宛も、平生の我よりは優ツたやうで、お政のやうな婦人でさへ、 尚ほ何處か、頼母し氣な所が有ツたのみならず、却ツて、これが間に介まらねば、餘 り兩人の間が接近しすぎて、穩さを缺くので、お政は文三等の幸福を成すに、無くて 叶はぬ人物とさへ思はれた。が、その温な愛念も、幸福な境界も、優しい調子も、嬉 しさうに笑ふ眼元も、口元も、文三が免職になツてから、取分けて、昇が全く家内へ 立入ツてから、皆突然に色が褪め、氣が拔けだして、遂に今日此頃の此 有樣となツた……。

 今の家内の有樣を見れば、最早以前のやうな、和いだ所も無ければ、沈着いた 所もなく、放心に見渡せば、總て華かに、賑かで、心配もなく、氣あつかひも無く、 浮々として面白さうに見えるものの、熟々視れば、それは皆衣服で、體にすれば、見るも汚はしい私慾、貪婪、淫褻、不義、無情も 塊で有る。以前、人々の心を一致さした同情も無ければ、私心の垢を洗ツた愛念もな く、人々己一個の私をのみ思ツて、己が自恣に物を言ひ、己が

[_]
[16]自恣に 動ふ。
欺いたり、欺かれたり、戲言に託して人の意を 測ツてみたり、二つ意味の有る言を云ツてみたり、疑ツてみたり、信じてみたり、― ―いろ/\さま%\に不徳を盡す。お政は、いふまでもなく、死灰の再び燃えぬうち に、早く娘を昇に合せて、多年の胸の塊を、一時におろして仕舞ひたいが、娘が、思 ふやうに、如才なくたちまはらんので、それで、齒癢がつて氣を揉み散らす。昇はそ れを承知してゐるゆゑ、後の面倒を慮ツて、迂闊に手は出さんが、罠のと知りつゝ、 油鼠の側を去られん老狐の如くに、遲疑しながらも、尚ほお勢の身邊を廻ツて、横眼 で睨んでは舌舐りをする。(文三は何故か、昇の妻となる者は、必ず愚で醜い代り、 權貴な人を親に持ツた、身柄の善い婦人とのみ思ひこんでゐる。)お政は、昇の心を 見拔いてゐる、昇も亦お政の意を見拔いてゐる。加之も、互ひに見拔かれてゐると、 略心附いてゐる。それゆゑに、故らに無心な顏を作り、思慮の無い言を云ひ、互ひに 瞞着しようと力めあふものの、しかし、雙方共、力は互角のしたゝかものゆゑ、優り もせず、劣りもせず、挑み疲れて、今はすこし睨合の姿となツた。總て此等の動靜は、 文三も略察してゐる。それを察してゐるから、お勢がこのやうな、危い境に身を處き ながら、それには少しも心附かず、私慾と淫慾とが爍して出來した、輕く浮いた、汚 はしい家内の調子に乘せられて、何心なく物を言ツては高笑ひをする、その樣子を見 ると、手を束ねて安坐してゐられなくなる。

 お勢は今甚だしく迷ツてゐる。豕を抱いて臭きを知らずとかで、境界の臭みに 居ても、恐らくは其臭味がわかるまい。今の心の状を察するに、譬へば酒に醉ツた如 くで、氣は暴れてゐても心は妙に昧んでゐる故、見る程の物、聞く程の事が眼や耳や へ入ツても、底の認識までは屆かず、皆中途で立消をして仕舞ふであらう。また徒だ 外界と縁遠くなツたのみならず、我内界とも疎くなツたやうで、我心ながら我心の心 地はせず、始終何か本體の得知れぬ一種不思議な力に誘はれて、言動作息するから、 我にも我が判然とは分るまい。今のお勢の眼には宇宙は鮮いて見え、萬物は美しく見 え、人は皆我一人を愛して我一人の爲めに働いてゐるやうに見えやう。若し顏を皺め て溜息を吐く者が有れば、此世はこれほど住みよいに、何故人は然う住み憂く思ふか、 殆ど其の意を解し得まい。また人の老い易く色の衰へ易い事を忘れて、今の若き美し さは永劫續くやうに心得て、未來の事などは全く思ふまい。よし思ツた所で、華かな 輝いた未來の外は夢にも想像に浮ぶまい。昇に狎れ親んでから、お勢は故の吾を亡く した。が、夫には自分も心附くまい。お勢は昇を愛してゐるやうで、實は愛してはゐ ず、只昇に限らず、總て男子に、取分けて若い美しい男子に慕はれるのが何となく快 いので有らうが、夫にも又自分は心附いてゐまい。之を要するに、お勢の病は外から 來たばかりではなく、内からも發したので、文三に感染れて少し畏縮けた血氣が、今 外界の刺戟を受けて一時に暴れだし、理性の口をも閉ぢ、認識の眼をも眩ませて、お そろしい力を以て、さま%\の醜態に奮見するので有らう。若し然うなれば、今がお 勢の一生中で、最も大事な時。能く今の境界を渡り課せれば、此一時に、さま%\の 經驗を得て、己れの人と爲りをも知り、所謂放心を求め得て、初て心で此世を渡るや うにならうが、若し躓けばもうそれまで、倒れた儘で、再び起き上る事も出來まい。 物のうちの人となるも、此一時。人の中の物となるも、亦此一時。今が浮沈の潮界、 最も大切な時で有るに、お勢はこの危い境を、放心して渡ツてゐて、何時眼が覺めよ うとも見えん。

 此儘にしては置けん。早く、手遲れにならんうちに、お勢の眼ツた本心を覺ま さなければならん。が、しかし、誰がお勢のために此事に當らう!

 見渡したところ、孫兵衞は留守、假令居たとて役にも立たず。お政は彼の如く、 娘を愛する心は有りても、其道を知らんから、娘の道心を縊殺さうとしてゐながら、 加之も得意顏でゐるほどゆゑ、固よりこれは妨げになるばかり。たゞ文三のみは、愚 昧ながらも、まだお勢よりは、少しは知識も有り、經驗も有れば、若しお勢の眼を覺 ます者が必要なら、文三を措いて誰がならう?

 ト、かう、お勢を見棄てたくない許りでなく、見棄てては寧ろ義理に背くと思 へば、凝性の文三ゆゑ、おウ餘事は思ツてゐられん。朝夕只この事ばかりに心を苦し めて、悶え苦んでゐるから、宛も感覺が鈍くなツたやうで、お政が顏を顰めたとて、 舌鼓を鳴らしたとて、其時ばかり、少し居辛くおもふのみで、久しくそれに拘ツては ゐられん。それで、かう、邪魔にされると知りつゝ、園田の家を去る氣にもなれず、 いまに六疊の小座鋪に、氣を詰らして、始終壁に對ツて歎息のみしてゐるので。

 歎息のみしてゐるので。何故なればお勢を救はう、といふ志は有ツても、其道 を求めかねるから。「どうしたものだらう?」といふ問は、日に幾度となく胸に浮ぶ が、いつも浮ぶばかりで、答を得ずして消えて仕舞ひ、其跡に殘るものは、只不滿足 の三字。その不滿足の苦を脱れよう、と氣をあせるから、健康な知識は縮んで、出過 ぎた妄想が我から荒出し、抑へても抑へ切れなくなツて、遂には、尚だ如何してとい ふ手順をも思附き得ぬうちに、早くもお勢を救ひ得た後の、樂しい光景が眼前に隱現 き、拂ツても去らん事が度々有る。

 しかし、始終、空想ばかりに耽ツてゐるでも無い。多く考へるうちには、少し は稍々行はれさうな工夫を付ける。そのうちで、まづ上策といふは、此頃の家内の動 靜を、詳しく叔父の耳へ入れて、父親の口から篤とお勢に云ひ聞かせる、といふ一策 で有る。さうしたら、或はお勢も眼が覺めようかと思はれる。が、また思ひ返せば、 他人の身の上なれば兎も角も、我と入組んだ關係の有るお勢の身の上を、彼此心配し て、其親の叔父に告げるは、何となく後めたくてさうも出來ん。假令、思ひ切ツて然 うしたところで、叔父はお勢を諭し得ても、我儘なお政は説き伏せるは扨置き、反ツ て反對にいひくるめられるかも知れん。と思へば、成る可くは叔父に告げずして、事 を收めたい。叔父に告げずして事を收めようと思へば、今一度お勢の袖を扣へて、打 附けに掻口説く外、他に仕方もないが、しかし、今の如くに、かう齟齬ツてゐては、 言ツたとて聽きもすまいし、また毛を吹いて疵を求めるやうではと思へば、かうと思 ひ定めぬうちに、まづ氣が畏縮けて、どうも其氣にもなれん。から、また、思ひ詰め た心を解して、更に他にさまざまの手段を思ひ浮べ、いろ/\に考へ散らしてみるが、 一つとして行はれさうなのも見當らず。囘り囘ツてまた舊の思案に戻ツて、苦しみ悶 えるうちに、ふと又例の妄想が働きだして、無益な事を思はせられる。時としては妙 な氣になツて、總て此頃の事は皆一時の戲れで、お勢は心から文三に背いたのでは無 くて、只背いた風をして、文三を試みてゐるので、其證據には、今にお勢が上ツて來 て、例の華かな高笑で、今までの葛藤を笑ひ消して仕舞はう、と思はれる事が有る。 が、固より永くは續かん、無慈悲な記憶が働きだして、此頃あくたれた時のお勢の顏 を憶出させ、瞬息の間に、其快い夢を破ツて仕舞ふ。またかういふ事も有る。ふと氣 が渝ツて、今から零落してゐながら、其樣な藥袋も無い事に拘ツて、徒らに日を送る を、極めて愚のやうに思はれ、もうお勢の事は思ふまいと、少時思ひの道を絶ツて、 まじ/\としてゐてみるが、それではどうも、大切な用事を仕懸けて罷めたやうで、 心が落居ず。狼狽へて、またお勢の事に立戻ツて悶え苦しむ。人の心といふものは、 同一の事を間斷なく思ツてゐると、遂に考へ草臥れて、思辨力の弱るもので、文三も その通り、始終お勢の事を心配してゐるうちに、何時からともなく注意が散ツて一事 には集らぬやうになり、をり/\互ひに何の關係をも持たぬ零零碎々の事を、取締も なく思ふことも有ツた。曾て兩手を頭に敷き、仰向けに臥しながら、天井を凝視めて、 初は例の如くお勢の事を彼此と思ツてゐたが、その中にふと天井の木目が眼に入ツて、 突然妙な事を思ツた。「かう見たところは、水の流れた痕のやうだな。」かう思ふと 同時に、お勢の事は全く忘れて仕舞ツた。そして尚ほ熟々とその木目を視入ツて、 「心の取り方に依ツては、高低が有るやうにも見えるな。ふゝん、オプチカル、イリ ユウジヨンか。」フト、文三等に物理を教へた、外國教師の立派な髭の生えた顏を憶 出すと、それと同時に、また、木目の事は忘れて仕舞ツた。續いて眼前に、七八人の 學生が現はれて來たと視れば、皆同學の生徒等で、或は鉛筆を耳に挾んでゐる者も有 れば、或は書物を抱へてゐる者も有る、又は開いて視てゐる者も有る。能く視れば、 どうか文三も其中に雜ツてゐるやうに思はれる。今越歴の講義が終ツて、試驗に掛る 所で、皆エレクトリカル、マシーンの周邊に集ツて、何事とも解らんが、何か頻りに 云ひ爭ひながら騒いでゐる。かと思ふと、忽ちそのマシーンも生徒も烟の如く痕迹も なく消え失せて、ふとまた木目が目に入ツた。「ふん、オプチカル、イリユウジヨン か。」ト云ツて、何故ともなく莞爾した。「イリユウジヨンと云へば、今まで讀んだ 書物の中で、サリーの『イリユウジヨンス』ほど面白く思ツたものは無いな。二日一 晩に讀切ツて仕舞ツたツけ、あれ程の頭には如何したらなれるだらう。餘程組織が緻 密に違ひない……。」サリーの腦髓とお勢とは、何の關係も無ささうだが、此時突然 お勢のことが、噴水の迸る如くに、胸を突いて騰る。と、文三は腫物にでも觸られた やうに、あツと叫びながら跳ね起きた。しかし、跳ね起きた時は、もう其事は忘れて 仕舞ツた。何のために跳ね起きたとも解らん。久しく考へて居て、「あ、お勢の事 か。」と、辛くして、憶出しは憶出しても、宛然世を隔てた事の如くで、面白くも可 笑しくも無く、其儘に思ひ棄てた。暫くは茫然として、氣の拔けた顏をしてゐた。

 かう心の亂れるまでに心配するが、しかし只心配する許りで、事實には少しも 益が無いから、自然は己が爲すべき事をさツ/\として行ツて、お勢は益々深味へ陷 る。其樣子を視て、流石の文三も、今は殆ど志を挫き、迚も我力にも及ばん、と投首 をした。

 が、其内に、ふと嬉しく思ひ惑ふ事に出遇ツた。といふは他の事でも無い。お 勢が俄に昇と疎々敷なツた、その事で。それまではお勢の言動に一々目を注けて、そ の狂ふ意の跟に隨ひながら、我も意を狂はしてゐた文三も、此に至ツて忽ち道を失ツ て、暫く思念の歩みを止めた。彼程までにからんだ兩人の關係が、故なくして解れて 仕舞ふ筈は無いから、早まツて安心はならん。けれど、喜ぶまいとしても喜ばずには 居られんは、お勢の文三に對する感情の變動で。其頃までは、お政程には無くとも、 文三に對して、一種の敵意を挾んでゐたお勢が、俄に樣子を變へて、顏を赧め合ツた 事は全く忘れたやうになり、眉を顰め、眼の中を曇らせる事は扨置き、下女と戯れて 笑ひ興じて居る所へ、行きがかりでもすれば、文三を顧みて快氣に笑ふ事さへ有る。 此分なら、若し文三が物を言ひかけたら、快く返答するかと思はれる。四邊に人目が 無い折などには、文三も數數話しかけてみようかとは思ツたが、萬一を危む心から、 暫く差控へてゐた。――差控へてゐるは寧ろ愚に近い、とは思ひながら尚ほ差控へて ゐた。

 編物を始めた四五日後の事で有ツた。或日の夕暮、何か用事が有ツて、文三は 奧座鋪へ行かうとて、二階を降りて、只見ると、お勢が此方へ背を向けて、縁端に佇 立んでゐる。少し首だれて、何か一心に爲てゐたところ、編物かと思はれる。珍らし いうちゆゑと思ひながら、文三は何心なく、お勢の背後を通り拔けようとすると、お 勢が彼方向いた儘で、突然、「まだかえ?」といふ。勿論人違ひと見える。が、此の 數週の間、妄想でなければ、言葉を交へた事の無いお勢に、今思ひ掛なく、やさしく 物を言ひかけられたので、文三はハツと當惑して、我にも無く立留る。お勢も、返答 の無いを不思議に思ツてか、ふと此方を振向く、途端に、文三と顏を相視して、おツ と云ツて驚いた。しかし、驚きは驚いても、狼狽へはせず、たゞ莞爾したばかりで、 また彼方向いて、そして編物に取掛ツた。文三は酒に醉ツた心地。如何仕ようといふ 方角もなく、只茫然として、殆ど無想の境に彷徨ツてゐるうちに、ふと心附いたは、 今日お政が留守の事。またと無い上首尾、思ひ切ツて物を言ツてみようか。……ト思 ひ掛けて、またそれと思ひ定めぬうちに、下女部屋の障子がさらりと開く。その音を 聞くと、文三は我にも無く、突と奧座鋪へ入ツて仕舞ツた――我にも無く、殆ど、見 られては不可とも思はずして、奧座鋪へ入ツて聞いてゐると、頓てお鍋がお勢の側ま で來て、ちよいと立留ツた光景で、「お待遠さま。」といふ聲が聞えた。お勢は返答 をせず、只何か口疾に囁いた樣子で、忍音に笑ふ聲が漏れて聞えると、お鍋の調子外 の聲で、「ほんとに内海……。」「しツ!……まだ其處に。」と小聲ながら聞取れる ほどに、「居るんだよ。」お鍋も小聲になりて、「ほんとう?」「ほんとうだよ。」

 かう成ツて見ると、もう潛ツてゐるも何となく極りが惡くなツて來たから、文 三が素知らぬ顏をして、ふツと奧座鋪を出る。その顏をお鍋が不思議さうに眺めなが ら、小腰を屈めて、「ちよいとお湯へ。」と云ツてから、ふと何か思ひ出して、肝を 潰した顏をして、周章てて、「それから、あの、若し御新造さまがお歸んなすツて、 御膳を召上ると仰しやツたら、お膳立をしてあの戸棚へ入れときましたから、どうぞ。 ……お孃さま、もう直ぐ宜うござんすか? それぢやア行ツてまゐります。」

 お勢は笑ひ出しさうな眼元で、じろり文三の顏を掠めながら、手ばしこく手で 持ツてゐた編物を奧座鋪へ投入れ、何やらお鍋に云ツて笑ひながら、面白さうに打連 れて出て行ツた。主從とは云ひながら、同じ程の年頃ゆゑ、雙方とも心持は朋友で。 尤も是は近頃かうなツたので、以前はお勢の心が高ぶツてゐたから、下女などには容 易に言葉をもかけなかツた。

 出て行くお勢の後姿を見送ツて、文三は莞爾した。如何してかう樣子が渝ツた のか、其を疑ツて居るに遑なく、ただ何となく、心嬉しくなツて莞爾した。それから は、例の妄想が、勃然と首を擡げて、抑へても抑へ切れぬやうになり、種々の取留も 無い事が、續々胸に浮んで、遂には、總て、此頃の事は、皆文三の疑心から出た暗鬼 で、實際はさして心配する事でも無かツたか、とまで思ひ込んだ。が、また、心を取 直して考へてみれば、故無くして文三を辱めたといひ、母親に忤ひながら、何時しか 其のいふなりに成ツたといひ、それほどまで親しかツた昇と、我に疎々敷なツたとい ひ――どうも、常事でなくも思はれる。ト思へば、喜んで宜いものか、悲んで宜いも のか、殆ど我にも胡亂になツて來たので、宛も遠方から撩る眞似をされたやうに、思 ひ切ツては笑ふ事も出來ず、泣く事も出來ず。快と不快との間に心を迷はせながら、 暫く縁側を往きつ戻りつしてゐた。が、兎に角物を云ツたら、聞いてゐさうゆゑ、今 にも歸ツて來たら、今一度運を試して、聽かれたら其通り、若し聽かれん時には、其 時こそ斷然叔父の家を辭し去らう。ト、遂にかう決心して、そして一先二階へ戻ツた。

[_]
[14] GNBT reads ぴツしやり。.
[_]
[15] GNBT reads「お前さんがお勢を踏付けたと、.
[_]
[16] GNBT reads 自恣に挙動ふ。.