University of Virginia Library

1. 第一囘 アヽラ怪しの人の擧動

 千早振る神無月も、最早跡二日の餘波となツた廿八日の午後三時頃に、神田見 附の内より、塗渡る蟻、散る蜘蛛の子と、うよ/\ぞよ/\涌出でて來るのは、孰れ も顋を氣にし給ふ方々。しかし熟々見て篤と點檢すると、是にも種種種類のあるもの で、まづ髭から書立てれば、口髭、頬髯、顋の鬚、暴に興起した拿破崙髭に、狆の口 めいた比斯馬克髭。そのほか矮鷄髭、貉髭、ありやなしやの幻の髭と、濃くも淡くも いろ/\に生え分る。髭に續いて差ひのあるのは服飾。白木屋仕込みの黒い物づくめ には佛蘭西皮の靴の配偶はありうち。之を召す方樣の鼻毛は延びて蜻蛉をも釣るべし といふ。是より降ツては、背皺よると枕詞の付くスコツチの背廣にゴリゴリするほど の牛の毛皮靴。そこで踵にお飾を絶やさぬ所から泥に尾を曳く龜甲洋袴。いづれも釣 るしんぼうの苦患を今に脱せぬ顏附、でも持主は得意なもので、髭あり、服あり、我 また奚をかめんと濟ました顏色で、火をくれた木頭と反身 ツてお歸り遊ばす、イヤお羨ましいことだ。其後より續いて出てお出でなさるは孰れ も胡麻鹽頭、弓と曲げても張の弱い腰に無殘や空辧當を振垂げてヨタ/\ものでお歸 りなさる。さては老朽しても、流石はまだ職に堪へるものか。しかし日本服でも勤め られるお手輕なお身の上、さりとはまたお氣の毒な。

 途中人影の稀れに成ツた頃、同じ見附の内より兩人の青年が話しながら出て參 ツた。一人は年齡二十二三の男、顏色は蒼味七分に土氣三分、どうも宜敷ないが、秀 でた眉に儼然とした眼附で、ズーと押徹ツた鼻筋、唯惜い哉口元が些と尋常でないば かり。しかし締はよささうゆゑ繪草紙屋の前に立ツてもパツクリ開くなどといふ氣遣 ひは有るまいが、兎に角顋が尖つて頬骨が露れ、非道くれ てゐる故か、顏の造作がとげ/\してゐて、愛嬌氣といツたら微塵もなし。醜くはな いが、何處ともなくケンがある。脊はスラリとしてゐるばかりで、左而已高いといふ 程でもないが痩肉ゆゑ、半鐘なんとやらといふ人聞の惡い諢名に縁が有りさうで、年 數物ながら摺疊皺の存じた霜降スコツチの服を身に纏ツて、組紐を盤帶にした帽檐廣 な黒羅紗の帽子を

[_]
[1]戴いてる。
今一人は前の男より二つ三 つ兄らしく、中肉中脊で色白の丸顏。口元の尋常な所から眼付のパツチリとした所は 仲々の好男子ながら、顏立がひねてこせ/\してゐるので、何となく品格のない男。 黒羅紗の半フロツクコートに同じ色のチヨツキ、洋袴は何か乙な縞羅紗で、リウとし た衣裳附、縁の卷上ツた釜底形の黒の帽子を眉深に冠り、左の手を隱袋へ差入れ、右 の手で細々とした杖を玩物にしながら高い男に向ひ、

「しかしネー、若し果して課長が我輩を信用してゐるなら、蓋し已むを得ざるに 出でたんだ。何故と言ツて見給へ、局員四十有餘名と言やア大層のやうだけれども、 皆腰の曲ツた老爺に非ざれば、氣の利かない奴ばかりだらう。其内でかう言やア可笑 しい樣だけれども、若手でサ、原書も些たア噛ツてゐてサ、而して事務を取らせて捗 の往く者と言ツたら、マア我輩二三人だ。だから若し果して信用してゐるのなら、已 むを得ないのサ。」

「けれども山口を見給へ、事務を取らせたら、彼の男程捗の往く者はあるまいけ れども矢張免を喰ツたぢやアないか。」

「彼奴はいかん、彼奴は馬鹿だからいかん。」

「何故。」

「何故と言ツて、彼奴は馬鹿だ、課長に向ツて此間のやうな事を言ふ所を見りや ア、彌馬鹿だ。」

「あれは全體課長が惡いサ、自分が不條理な事を言付けながら、何にもあんなに 頭ごなしにいふこともない。」

「それは課長の方が、或は不條理かも知れぬが、しかし苟も長官たる者に向つて、 抵抗を試みるなどといふなア、馬鹿の骨頂だ。まづ考へて見給へ、山口は何んだ、屬 吏ぢやアないか、屬吏ならば假令課長の言付を不條理と思つたにしろ思はぬにしろ、 ハイ/\言ツて、其通り處辧して往きやア、職分は盡きてるぢやアないか。然るに彼 奴のやうに、苟も課長たる者に向ツてあんな指圖がましい事を……。」

「イヤあれは指圖ぢやアない、注意サ。」

「フム乙う山口を辯護するネ、矢張同病相憐れむのか、アハアハ/\。」

 高い男は中脊の男の顏を尻眼にかけて、口を鉗んで仕舞ツたので、談話がすこ し中絶れる。錦町へ曲り込んで、二つ目の横町の角まで參ツた時、中脊の男は不圖立 止ツて、

「ダガ、君の免を喰ツたのは弔すべくもまた賀すべしだぜ。」

「何故。」

「何故と言ツて君、これからは朝から晩まで情婦の側にへばり付いてゐる事が出 來らアネ。アハ/\/\。」

「フヽヽン、馬鹿を言ひ給ふな。」

 ト、高い男は顏に似氣なく微笑を含み、さて失敬の挨拶も手輕く、別れて獨り 小川町の方へ參る。顏の微笑が一かは一かは消え往くにつれ、足取も次第々々に緩か になつて、終には蟲の這ふ樣になり、悄然と頭をうな垂れて、二三町程も參つた頃、 不圖立止りて四邊を囘顧し、駭然として二足三足立戻ツて、トある横町へ曲り込んで、 角から三軒目の格子戸作りの二階家へ這入る。一所に這入ツて見よう。

 高い男は玄關を通り拔けて、縁側へ立出ると、傍の座鋪の障子がスラリ開いて、 年頃十八九の婦人の首、チヨンボリとした摘ツ鼻と、日の丸の紋を染拔いたムツクリ とした頬とで、その持主の身分が知れるといふ奴が、ヌツと出る。

「お歸ンなさいまし。」

 トいつて何故か口舐ずりをする。

「叔母さんは。」

「先程、お孃さまと何處らへか。」

「さう。」

 ト言捨てゝ高い男は縁側を傳ツて參り、突當りの段梯子を登ツて二階へ上る。 ?處は六疊の小座鋪、一間の床に三尺の押入れ付、三方は壁で唯南ばかりが障 子になツてゐる。床に掛けた軸は隅々も既に蟲喰んで、床花瓶に投入れた二本三本の 蝦夷菊はうら枯れて枯葉がち、座鋪の一隅を顧みると古びた机が一脚据ゑ付けてあツ て、筆ペン楊枝などを掴插しにした筆立一個に、齒磨の函と肩を比べた赤間の硯が一 面載せてある。机の側に押立てたは二本立の書函、是には小形の爛缶が載せてある。 机の下に差入れたは縁の缺けた火入、是には摺附木の死骸が横ツてゐる。其外座鋪一 杯に敷詰めた毛團、衣紋竹に釣るした袷衣、柱の釘に懸けた手拭、いづれを見ても皆 年數物。その證據には手擦れてゐて古色蒼然たり、だが自ら秩然と取旁付いてゐる。

 高い男は徐かに和服に着替へ、脱棄てた服を疊掛けて見て舌鼓を撃ちながら其 儘押入へへし込んで仕舞ふ。所へ、トバクサと上ツて來たは例の日の丸の紋を染拔い た首の持主。横幅の廣い筋骨の逞しいズングリムツクリとした生理學上の美人で、持 ツて來た郵便を高い男の前に差置いて、

「アノー先刻此郵便が。」

「ア、さう、何處から來たんだ。」

 ト、郵便を手に取ツて見て、

「ウー、國からか。」

「アノネ貴君、今日のお孃樣のお服飾は、ほんとにお目に懸け度いやうでしたヨ。 まづネ、お下着が格子縞の黄八丈で、お上着はパツとした宜い引縞の絲織で、お髮は 何時ものイボジリ捲きでしたがネ、お掻頭は此間出雲屋からお取んなすツた、こんな ……」

 ト、故意々々手で形を拵へて見せ、

「薔薇の花掻頭でネ、それは/\お美しう御座いましたヨ……私もあんな帶留が 一つ欲しいけれども……」

 些し塞いで、

「お孃さまは、お化粧なんぞはしない、と仰しやるけれども、今日はなんでも 内々で、薄化粧なすツたに違ひありませんよ。だツて、なんぼ色がお白いツて、あん なに……私も家にゐる時分は、是でもヘタクタ施けたもんでしたがネ、此家に上ツて から、お正月ばかりにして、不斷は施けないの。施けてもいゝけれども、御新造さま の惡口が厭ですワ。だツて何時かもお客樣のいらツしやる前で、鍋の白粉を施けたと こは、全然炭團へ霜が降ツたやうで御座いますツて……。餘りぢやア有りませんか、 ネー貴君。なんぼ私が不器量だつて餘りぢやありませんか。」

 ト敵手が傍にでもゐるやうに、眞黒になツてまくしかける。高い男は先程より 手紙を把ツては讀みかけ、讀みかけてはまた下へ措きなどして、さも迷惑な體。此時 も唯「フム」と鼻を鳴らした而已で、更に取合はぬゆゑ、生理學上の美人は左なくと も罅壞れさうな兩頬をいとゞ膨脹らしてツンとして二階を降りる。其後姿を見送つて、 高い男はホツト顏。また手早く手紙を取上げて讀下す。その文言に、

一筆示しまゐらせそろ、さても時こうがら日増しにお寒う 相成り候へども御無事に御勤め被成候や、それのみあんじくらし まゐらせそろ。母事も此頃はめつきり年をとり、髮の毛も大方は 白髮になるにつけ心まで愚癡に相成候と見え今年の晩には御地へ參られるとは知り つゝも、何となう待遠にて毎日ひにち指のみ折り暮らしまゐらせ そろ。どうぞどうぞ一日も早うお引取下され度念じまいらせ候 。さる廿四日は父上の……

 ト讀みさして、覺えずも手紙を取落し、腕を組んでホツと溜息。