University of Virginia Library

18. 第十八囘

 一週間と經ち、二週間と經つ。昇は、相かはらず、繁々遊びに來る。そこで、 お勢も益々親しくなる。

 けれど、其親しみ方が、文三の時とは大きに違ふ。彼時は、華美から野暮へと 感染れたが、此度は其反對で、野暮の上塗が次第に剥げて、漸く木地の華美に戻る。 兩人とも顏を合はせれば、只戯れる許り、落着いて談話などした事更に無し。それも、 お勢に云はせれば、昇が宜しく無いので、此方で眞面目にしてゐるものを、とぼけ顏 をして剽輕な事を云ひ、輕く、氣無しに、調子を浮かせてあやなしかける。其故、念 に掛けて笑ふまい、とはしながら、をかしくてをかしくて、どうも堪らず。脣を噛締 め、眉を釣上げ、眞赤になツても耐へ切れず、ツイ吹出して、大事の/\品格を落し て仕舞ふ。果は、何を云はれんでも、顏さへ見れば可笑しくなる。「眞個に本田さん はいけないよ、人を笑はして許りゐて。」とお勢は絶えず昇を憎がツた。

 かうお勢に對ふと、昇は戯れ散らすが、お政には無遠慮といふうちにも、何處 かしツとりした所が有ツて、戯言を云はせれば、云ひもするが、また落着く時には落 着いて、隨分眞面目な談話もする。勿論、眞面目な談話と云ツた處で、金利公債の話、 家屋敷の賣買の噂。さもなくば、借家人が更に家賃を納れぬ苦情――皆つまらぬ事ば かり。一つとしてお勢の耳には、面白くも聞えないが、それでゐて、兩人の話してゐ る所を聞けば、何か、談話の筋の外に、男女交際、婦人矯風の議論よりは、遙かに優 りて面白い所が有ツて、それを眼顏で話合ツて、娯しんでゐるらしいが、お勢には薩 張解らん。が、餘程面白いと見えて、其樣な談話が始まると、お政は勿論、昇までが、 平生の愛嬌は何處へやら遣ツて、お勢の方は見向もせず、一心になツて、或は公債を 書替へる極く簡略な法、或は誰も知ツてゐる銀行の内幕、または、お得意の課長の生 計の大した事を、喋々と話す。お勢は退屈で/\、欠び許り出る。起上ツて部屋へ歸 らう、とは思ひながら、つい起そゝくれて潮合を失ひ、まじりまじり、思慮の無い顏 をして、面白くもない談話を聞いてゐるうちに、いつしか眼が曇り、兩人の顏がかす んで、話聲もやゝ遠く籠ツて聞こえる。……「なに、十圓さ。」と突然鼓膜を破る昇 の聲に駭かされ、震へ上る拍子に、眼を看開いて、忙はしく兩人の顏を窺へば、心附 かぬ樣子。まづよかツたと安心し、何喰はぬ顏をして、また兩人の談話を聞出すと、 また眼の皮がたるみ、引入れられるやうな、快い心地になツて、睡るともなく、つい 正體を失ふ……誰かに手暴く搖ぶられて、また愕然として眼を覺ませば、耳元にどツ と高笑の聲。お勢も流石に莞爾して、「それでも睡いんだものヲ。」と睡さうに分疏 をいふ。また、かういふ事も有る。前のやうに慾張ツた談話で、兩人は夢中になツて ゐる。お勢は退屈やら、手持無沙汰やら、いびつに坐ツてみたり、跪坐ツてみたり、 耳を借してゐては際限もなし。そのうちには、また睡氣がさしさうになる。から、ち と談話の仲間入りをしてみよう、とは思ふが、一人が口を噤めば、一人が舌を揮ひ、 喋々として兩つの口が結ばるといふ事が無ければ、嘴を容れたいにも、更に其間隙が 見附からない。その見附からない間隙を、漸く見附けて、此處ぞと思へば、さて肝心 のいふことが見附からず、迷つくうちに、はや人に取られて仕舞ふ。經驗が知識を生 んで、今度はいふべき事も豫て用意して、ぢれツたさうに插頭で髮を掻きながら、漸 くの思で間隙を見附け、「公債は今幾何なの?」と嘴を插んでみれば、さて我ながら 唐突千萬! 無理では無いが、昇も、母親も、膽を潰して、顏を視合せて、大笑ひに 笑ひ出す。__今のは半襟の間違ひだらう。__なに、人形の首だツさ。__違えね え。またしても口を揃へて高笑ひ。「あんまりだから、いゝ。」トお勢は膨れる。け れど、膨れたとて、機嫌を取られゝば、それだけ畢竟安目にされる道理。どうしても、 かうしても、敵はない。

 お勢は此の事を不平に思ツて、或は口を利かぬと云ひ、或は絶交すると云ツて、 恐喝してみたが、昇は一向平氣なもの、なか/\其樣な甘手ではいかん。壓制家、利 己論者と、口では呪ひながら、お勢もつい其不屆者と親んで、玩ばれると知りつゝ、 玩ばれ、調戯られると知りつゝ、調戯られてゐる。けれど、さうはいふものの、戯け るも滿更でも無いと見えて、偶々昇が、お勢の望む通り、眞面目にしてゐれば、さて どうも物足りぬ樣子で、此方から、遠方から、危がりながら、ちよツかいを出してみ る。相手にならねば甚だ機嫌がわるい。から、餘儀なく其手を押へさうにすれば、忽 ちきやツ/\と輕忽な聲を發し、高く笑ひ、遠方へ逃げ、例の睚の裏を返して、べべ べーといふ。總て、なぶられても厭だが、なぶられぬも厭、どうしませう、トいひた さうな樣子

 母親は見ぬ風をして、見落しなく見ておくから、齒癢くてたまらん。老功の者 の眼から觀れば、年若の者のする事は、總てしだらなく、手緩くて更に埓が明かん。 そこで耐へ兼ねて娘に向ひ、嚴かに云ひ聞かせる、娘の時の心掛を。どのやうな事か と云へば、皆多年の實驗から出た交際の規則で、男、取分けて若い男といふ者は、か う/\いふ性質のもので有るから、若し戯談をいひかけられたら、かう。花を持たせ られたら、かう。弄られたら、かう待遇ふものだ、などいふ事であるが、親の心子知 らずで、かう利益を思ツて、云ひ聞かせるものを、それをお勢は、生意氣な、まだ世 の態も見知らぬ癖に、明治生れの婦人は、藝娼妓で無いから、男子に接するに其樣な 手管は入らないとて、鼻の頭で待遇ツてゐて、更に用ひようともしない。手管では無 い、是れが娘の時の心掛といふものだ、と云ひ聞かせても、其樣な深遠な道理は、ま だ青いお勢には解らない。そんな事は、女大學にだツて書いて無い、と強情を張る。 勝手にしな、と癇癪を起せば。勝手にしなくツて、と口答をする。どうにも、かうに も、なツた奴ぢやない! けれど、母親が氣を揉むまでも無く、幾程もなく、お勢は 我から自然に樣子を變へた。まづ其初めを云へば、かうで。

 此の物語の首に、ちよいと噂をした事の有るお政の知己、須賀町のお濱といふ 婦人が、近頃に、娘をさる商家へ縁付けるとて、それを吹聽かた%\、その娘を伴れ て、或日、お政を尋ねて來た。娘といふは、お勢に一つ年下で、姿色は少し劣る代り、 遊藝は一通り出來て、それでゐて、おとなしく、愛想がよくて、お政に云はせれば、 如才の無い娘で、お勢に云はせれば、舊幣な娘。お勢は大嫌ひ、母親が贔屓にするだ けに、尚ほ一層此娘を嫌ふ。但し是れは、普通の勝心のさせる業ばかりではなく、此 娘のお蔭で、をりをり高い鼻を擦られる事も有るからで。縁付けると聞いて、お政は 羨ましいと思ふ心を、少しも匿さず、顏はおろか、口へまで出して、事々しく慶びを 陳べる。娘の親も親で、慶びを陳べられて、一層得意になり、さも誇貌に婿の財産を 數へ、または支度に費ツた金額の、總計から内譯まで、細細と計算をして聞かせれば、 聞く事毎にお政は且つ驚き、且つ羨んで、果は、どうしてか、婚姻の原因を娘の行状 に見出して、これといふも、平生の心掛がいゝからだ、と口を極めて賞める。嫁る事 が何故其樣に手柄であらうか。お勢は猫が鼠を捕ツた程にも思ツてゐないのに! そ れを其娘は、恥かしさうに、俯向きは俯向きながら、己れも仕合と思ひ顏で、高慢は 自ら小鼻に現はれてゐる。見てゐられぬ程に醜態を極める! お勢は固より羨ましく も、妬ましくも有るまいが、たゞ己れ一人で、さう思ツてゐる許りでは、滿足が出來 んと見えて、をり/\さも苦々しさうに、冷笑ツてみせるが、生憎誰も心附かん。そ のうちに、母親が人の身の上を羨むにつけて、我身の薄命を歎ち、何處かの人が、親 を蔑ろにして、更にいふことを用ひず、何時身を極めるといふ考へも無い、とて苦情 をならべ出すと、娘の親は、失禮な、なに此娘の姿色なら、ゆく/\は「立派な官員 さん」でも夫に持ツて、親に安樂をさせることで有らう、と云ツて、嘲けるやうに高 く笑ふ。見やう見眞似に、娘までが、お勢の方を顧みて、これもまた嘲けるやうに、 ほゝと笑ふ。お勢はおそろしく赤面して、さも面目なげに俯向いたが、十分も經たぬ うちに、座鋪を出て仕舞ツた。我部屋へ戻ツてから、初て、後馳に憤然となツて、 「一生、お嫁になんぞ行くもんか、」ト奮激した。

 客は、一日、打くつろいで話して、夜に入ツてから歸ツた。歸ツた後に、お政 はまた人の幸福をいひだして、羨むので、お勢は最早勘辨がならず、胸に積る晝間か らの鬱憤を、一時に霽らさうといふ意氣込で、言葉鋭く云ひまくツてみると、母の方 にも存外な道理が有ツて、つひにはお勢も成程と思ツたか、少し受太刀になツた。が、 負けじ魂から、滅多には屈服せず、尚ほ彼此と諍論ツてゐる。そのうちに、お政は、 何か妙案を思ひ浮べたやうに、俄に顏色を和げ、今にも笑出しさうな眼付をして、 「そんな事をお云ひだけれども、本田さんならどうだえ? 本田さんでも、お嫁に行 くのは厭かえ?」トいふ。「厭なこツた。」ト云ツて、お勢は今まで顏へ出してゐた 思慮を、盡く内へ引込まして仕舞ふ。「おや、何故だらう。本田さんなら、いゝぢや ないか。ちよいと氣が利いてゐて、小金も少とは持ツてゐなさりさうだし、それに、 第一男が好くツて。」「厭なこツた。」「でも若し本田さんが呉れろと云ツたら。何 と云はう?」ト云はれて、お勢は少し躊躇ツたが、狼狽へて、「い……いやなこツ た。」お政はじろりと其樣子をみて、何を思ツてか、高く笑ツたばかりで、再び娘を 詰らなかツた。その後は、お勢は故らに、何喰はぬ顏を作ツてみても、どうも旨くい かぬやうすで、動もすれば沈んで、眼を細くして、何處か遠方を凝視め、恍惚として、 夢現の境に迷ふやうに見えたことも有ツた。「十一時になるよ。」ト母親に氣を附け られたときは、夢の覺めたやうな顏をして、溜息さへ吐いた。

 部屋へ戻ツても、尚ほ氣が確かにならず、何心なく寢衣を着代へて、力無ささ うに、ベツたりと床の上へ坐ツたまま、身動きもしない。何を思ツてゐるのか? 母 の端なく云ツた一言の答を求めて、求め得んのか? 夢のやうに過ぎこした昔へ、心 を引戻して、これまで文三如き者に拘ツて、良縁をも求めず、徒らに歳月を送ツたを、 惜しい事に思ツてゐるのか?

 或は母の言葉の放ツた光に、我身をめぐる暗黒を破られ、 初て今が浮沈の潮界、一生の運の定まる時と心附いたのか? 抑また狂ひ出す妄想に つれられて、我知らず心を華やかな娯しい未來へ走らし、望みを事實にし、現に夢を 見て、嬉しく、畏ろしい思をしてゐるのか? 恍惚として顏に映る内の想が無いから、 何を思ツてゐることか、すこしも解らないが、兎に角良久くの間は、身動きをもしな かツた。其儘で、十分ばかり經ツたころ、忽然として、眼が嬉しさうに光り出すかと 思ふ間に、見る/\耐へようにも耐へ切れなささうな微笑が、口頭に浮び出て、頬さ へいつしか紅を潮す。閉ぢた胸の、一時に開けた爲め、天成の美も一段の光を添へて、 艶なうちにも、何處か、豁然と晴れやかに、快ささうな所も有りて、宛然蓮の花の開 くを觀るやうに、見る眼も覺める許りで有ツた。突然、お勢は跳ね起きて、嬉しさが こみあげて、徒は坐ツてゐられぬやうに、そして、柱に懸けた薄暗い姿見に對ひ、模 糊寫る己が笑顏を覗き込んで、あやすやうな眞似をして、片足浮かせて、床の上でぐ るりと囘り、舞踏でもするやうな運歩で、部屋の中を跳ね廻ツて、また床の上へ來る と、其儘、其處へ臥倒れる拍子に、手ばしこく枕を取ツて、頭に宛がひ、渾身を搖り ながら、締殺したやうな聲を漏らして笑ひ出した。

 此狂氣じみた事の有ツた當座は、昇が來ると、お勢は、臆するでもなく、恥ら ふでもなく、只何となく落着が惡いやうで有ツた。何か心に持ツてゐる、それを悟ら れまいため、矢張今迄どほり、をさなく、愛度氣なく待遇はうと、蔭では思ふが、い ざ昇と顏を合せると、どうも、もう、さうはいかないと云ひさうな調子で、いふ事に さしたる變りも無いが、それをいふ調子に、何處か今までに無いところが有ツて、濁 ツて、厭味を含む。用も無いに、座鋪を出たり、はひツたり、をかしくも無いことに 高く笑ツたり、誰やらに顏を見られてゐるなと心附きながら、それを故意と心附かぬ 風をして、磊落に母親に物をいツたりするはまだな事。昇と眼を見合して、狼狽へて 横へ外らしたことさへ、度々有ツた。總て今までとは樣子が違ふ。それを昇の居る前 で、母親に怪しまれた時は、お勢もぱツと顏を赧めて、如何にも極りが惡さうに見え た。が、その極り惡さうなもいつしか失せて、其後は、昇に飽いたのか、珍らしくな くなツたのか、それとも何か爭ひでもしたのか、どうしたのか解らないが、兎に角昇 が來ないとても、もウ心配もせず、來たとて、一向構はなくなツた。以前は鬱々とし てゐる時でも、昇が來れば、すぐ冴えたものを、今は其反對で、冴えてゐる時でも、 昇の顏を見れば、すぐ顏を曇らして、冷淡になつて、餘り口數もきかず、總て仲のわ るい從兄妹同士のやうに、遠慮氣なく餘所々々しく待遇す。昇はさして變らず、尚ほ 折節には戯言など言ひ掛けてみるが、云ツても、もウ、お勢が相手にならず、勿論嬉 しさうにも無く、たゞ「知りませんよ、」ト彼方向くばかり。其故に、昇の戯ばみも 鋒先が鈍ツて、大抵は、泣眠入るやうに眠入ツて仕舞ふ。かうまで昇を冷遇する。其 代り、昇の來て居ない時は、おそろしい冴えやうで、誰彼の見さかひなく戯れかゝツ て、詩吟するやら、唱歌するやら、いやがる下女をとらへて舞踏の眞似をするやら、 飛んだり、跳ねたり、高笑ひをしたり、さまざまに騒ぎ散らす。が、かう冴えてゐる 時でも、昇の顏さへ見れば、不意にまた眼の中を雲らして、落着いて、冷淡になツて 仕舞ふ。

 けれど、母親には大層やさしくなツて、騒いで叱られたとて、鎭まりもしない が、惡まれ口もきかず。却ツて憎氣なく、母親にまでだれかゝるので、母親も初のう ちは苦い顏を作ツてゐたものの、竟には、どうかかうか釣込まれて、叱る聲を崩して 笑ツて仕舞ふ。但し、朝起される時だけは、それは例外で、其時ばかりは少し頬を膨 らせる。が、それも其程が過ぎれば、我から機嫌を直して、華やいで、時には母親に 媚びるのか、と思ふほどの事をもいふ。初の程は、お政も不審顏をしてゐたが、慣 れゝば、それも常となツてか、後には何とも思はぬ樣子で有ツた。

 そのうちに、お勢が編物の夜稽古に通ひたいといひだす。編物よりか心易い者 に、日本の裁縫を教へる者が有るから、晝間其處へ通へ、と母親のいふを押反して、 幾度か/\、掌を合せぬばかりにして、是非に編物をと頼む。西洋の處女なら、今に も母の首にしがみ付いて頬の邊に接吻しさうに、あまえた、強請るやうな眼付で、顏 をのぞかれ、やいやいとせがまれて、母親は意氣地なく、「えゝ、うるさい! どう なと勝手におし。」と賺されて仕舞ツた。

 編物の稽古は、英語よりも面白いとみえて、隔晩の稽古を、樂しみにして通ふ。 お勢は全體、本化粧が嫌ひで、これまで外出するにも、薄化粧ばかりしてゐたが、編 物の稽古を始めてからは、「皆が大層作ツて來るから、私一人なにしないと……」と、 咎める者も無いに、我から分疏をいひ/\、こツてりと人品を落すほどに粧ツて、衣 服も成丈美いのを選んで着て行く。夜だから、此方ので宜いぢやないかと、美くない 衣服を出されゝば、それを厭とは拒みはしないが、何となく機嫌がわるい。

 お政は、そは/\して出て行く娘の後姿を、何時も請難さうに見送る……。

 昇は何時からともなく、足を遠くして仕舞ツた。