University of Virginia Library

3. 第三囘 餘程風變りな戀の初峰入り 下

 今年の仲の夏、或る一夜、文三が散歩より歸ツて見れば、叔母のお政は夕暮よ り所用あツて出た儘未だ歸宅せず、下女のお鍋も入湯にでも參ツたものか、是も留守。 唯お勢の子舎に而已光明が射してゐる。文三初は何心なく二階の梯子段を二段三段登 ツたが、不圖立止まり、何か切りに考へながら、一段降りてまた立止まり、また考へ てまた降りる。……俄に氣を取直して、將に再び二階へ登らんとする時、忽ちお勢の 子舎の中に聲がして、

「誰方。」

 トいふ。

「私。」

 ト返答をして、文三は肩を縮める。

「オヤ、誰方かと思ツたら文さん。……淋敷ツてならないから、些とお噺しに入 らツしやいな。」

「エ、多謝う。だが、最う些と後にしませう。」

「何歟御用が有るの。」

「イヤ、何も用はないが……。」

「それぢやア宜いぢやア有りませんか。ネー入らツしやいよ。」

 文三は些し躊躇つて梯子段を降り果て、お勢の子舎の入口まで參りは參ツたが、 中へとては立入らず、唯鵠立んでゐる。

「お這入ンなさいな。」

「エ、エー……。」

 ト言ツた儘、文三は尚ほ鵠立んでモヂ/\してゐる。何歟這入り度くもあり這 入り度くもなし、といつた樣な容子。

「何故貴君、今夜に限ツてそう遠慮なさるの。」

「デモ、貴孃お一人ツ切りぢやア……なんだか……。」

「オヤマア、貴君にも似合はない……アノ何時か、氣が弱くツちやア主義の實行 は到底覺束ない、と仰しやツたのは何人だツけ。」

 ト、しんの首を斜に傾げて嫣然、片 頬に含んだお勢の微笑に釣られて文三は部屋に這入り込み、座に着きながら、

「さう言はれちやア一言もないが、しかし……。」

「些とお遣ひなさいまし。」

 ト、お勢は團扇を取出して文三に勸め、

「しかしどうしましたと。」

「エ、ナニサ、陰口がどうも五月蠅くツて。」

「それはネ。どうせ些とは何かと言ひますのサ。また何とか言ツたツて宜いぢや ア有りませんか、若しお互に潔白なら。どうせ貴君、二千年來の習慣を破るんですも のヲ、多少の艱苦は免れツこは有りませんワ。」

「トハ思つてゐるやうなものの、まさか陰口が耳に入ると厭なものサ。」

「夫はさうですよネー。此間もネ貴君、鍋が生意氣に可笑しな事を言つて私に嬲 ふのですよ。夫からネ、私が餘り五月蠅くなツたから、到底解るまいとは思ひました けれども、試みに男女交際論を説いて見たのですヨ。さうしたらネ、アノなんですツ て、私の言葉には漢語が雜るから、全然何を言ツたのだか解りませんて……眞個に教 育のないといふ者は、仕樣のないものですネー。」

「アハヽヽ其奴は大笑ひだ。……しかし可笑しく思ツてゐるのは、鍋ばかりぢや ア有りますまい、必と母親さんも…。」

「母ですか、母はどうせ下等の人物ですから、始終可笑しな事を言つちやアから かひますのサ、其れでもネ、其たんびに私が辱しめ/\爲い爲いしたら、あれでも些 とは恥ぢたと見えてネ、此頃ぢやア其樣に言はなくなりましたよ。」

「ヘー、からかふ。どんな事を仰しやツて。」

「アノーなんですツて、其樣に親しくする位なら、寧ろ貴君と……(すこしモヂ /\して

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[2]言ひかねて)
結婚して仕舞へツて……。」

 ト聞くと等しく文三は、駭然としてお勢の顏を見守める。されど此方は平氣の 體で、

「ですがネ、教育のない者ばかりを責める譯にもゆきませんよネー、私の朋友な んぞは、教育の有ると言ふ程有りやしませんがネ、それでもマア普通の教育は享けて ゐるんですよ。それでゐて貴君。西洋主義の解るものは廿五人の内に僅四人しかない の。その四人もネ、塾にゐるうちだけで、外へ出てからはネ、口程にもなく兩親に壓 制せられて、みんなお嫁に往ツたりお婿を取ツたりして仕舞ひましたの。だから今ま で此樣な事を言ツてるものは私ばツかりだとおもふと、何だか心細くツて/\なりま せん。でしたがネ、此頃は貴君といふ親友が出來たから、アノー大變氣丈夫になりま したワ。」

 文三はチヨイと一禮して、

「お世辭にも嬉しい。」

「アラお世辭ぢやア有りませんよ、眞實ですよ。」

「眞實なら尚ほ嬉しいが、しかし私にやア貴孃と親友の交際は到底出來ない。」

「オヤ何故ですエ、何故親友の交際が出來ませんエ。」

「何故といへば、私には貴孃が解らず、また貴孃には私が解らないから、どうも 親友の交際は……。」

「さうですか、それでも私には貴君はよく解ツてゐる積りですよ。貴君は學識が 有ツて、品行が方正で、親に孝行で……。」

「だから貴孃には、私が解らないといふのです。貴孃は私を、親に孝行だと仰し やるけれども、孝行ぢやア有りません。私には……親より……大切な者があります… …。」

 ト、吃りながら言ツて、文三は差俯向いて仕舞ふ。お勢は不思議さうに文三の 容子を眺めながら、

「親より大切な者……親より……大切な……者。親より大切な者は、私にも有り ますワ。」

 文三はうな垂れた頸を振揚げて、

「エ、貴孃にも有りますと。」

「ハア、有りますワ。」

「誰……誰れが。」

「人ぢやアないの。アノ眞理。」

「眞理。」

 ト文三は慄然と胴震ひをして、脣を喰ひしめた儘、暫く無言。稍あツて俄に喟 然として歎息して、

「アヽ貴孃は清淨なものだ、潔白なものだ。……親よりも大切なものは眞理…… アヽ潔白なものだ。……しかし感情といふ者は實に妙なものだナ。人と愚にしたり、 人を泣かせたり、笑はせたり、人をあへたり、揉んだりして玩弄する。玩弄されると 薄々氣が附きながら、其れを制することが出來ない、アヽ自分ながら……。」

 ト些し考へて、稍ありて熱氣となり、

「ダガ、思ひ切れない……どう有ツても思ひ切れない……お勢 さん、貴孃は御自分が潔白だから此樣な事を言ツてもお解りがないかも知れんが、私 には眞理よりか……眞理よりか大切な者があります。去年の暮から全半年、其者の爲 めに感情を支配せられて、寢ても寤めても忘らればこそ、死ぬより辛いおもひをして ゐても、先では毫しも汲んで呉れない。寧ろ強顏なくされたならば、また思ひ切りや うも

[_]
[3]有らうけれども
……。」

 ト些し聲をかすませて、

「なまじひ力におもふの、親友だのといはれて見れば、私は……どうも……どう 有ツても思ひ……。」

「アラ月が。……まるで、竹の中から出るやうですよ。鳥渡御覽なさいよ。」

 庭の一隅に栽込んだ、十竿ばかりの纖竹の葉を分けて出る月のすゞしさ。月夜 見の神の力の測りなくて、斷雲一片の翳だもない蒼空一面にてりわたる清光素色、唯 亭々皎々として雫も滴るばかり。初は隣家の隔ての竹垣に遮られて庭の半より這初め、 中途は縁側へ上ツて座鋪へ這込み、稗蒔の水に流されては金瀲え ん、簷馬の玻璃に透りては玉玲瓏、坐賞の一に影を添へて、孤燈一穗の光を奪ひ、 終に間の壁へ這上る。涼風一陣吹到る毎に、ませ籬によろぼひ懸る夕顏の影法師が婆 娑として舞ひ出し、さては百合の葉末にすがる露の珠が、忽ち螢と成ツて飛迷ふ。艸 花立樹の風に揉まれる音の、颯々とするにつれて、しばしは人の心も騒ぎ立つとも須 臾にして風が吹罷めば、また四邊蕭然となつて、軒の下艸に喞く蟲の音のみ獨り高く 聞ゆる。眼に見る景色はあはれに面白い。とはいへ、心に物ある兩人の者の眼には止 まらず、唯お勢が口ばかりで、

「アヽ佳いこと。」

 トいつて、何故ともなく莞然と笑ひ、仰向いて月に見惚れる風をする。其半面 を文三が偸むが如く眺め遣れば、眼鼻口の美しさは常に變ツたこともないが、月の光 を受けて些し蒼味を帶んだ瓜實顏にほつれ掛ツたいたづら髮二筋三筋、扇頭の微風に 戰いで頬の邊を往來する所は慄然とするほど凄味が有る。暫く文三がシゲ/\と眺め てゐると、頓て凄味のある半面が次第々々に此方へ捻れて……パツチリとした涼しい 眼がジロリと動き出して……見とれてゐた眼とピツタリ出逢ふ。螺の壺々口に莞然と 含んだ微笑を細根大根に白魚を五本竝べたやうな手が持つてゐた團扇で隱蔽して、恥 かしさうなこなし。文三の眼は俄に光り出す

「お勢さん。」

 但し震聲で。

「ハイ。」

 但し小聲で。

「お勢さん貴孃もあんまりだ、餘り……殘酷だ。私が是れ……是れ程までに… …。」

 トいひさして、文三は顏に手を宛てて默つて仕舞ふ。意を注めて能く見れば、 壁に寫ツた影法師が、慄然とばかり震へてゐる。今一言……今一言の言葉の關を踰え れば、先は妹背山。蘆垣の間近き人を戀ひ初めてより、晝は終日、夜は終夜、唯其人 の面影而已常に眼前にちらついて、砧に映る軒の月の拂ツてもまた去りかねてゐなが ら人の心を測りかねて、末摘花の色にも出さず、岩堰水の音にも立てず、獨りクヨ/ \物をおもふ胸のうやもや、もだくだを、拂ふも拂はぬも、今一言の言葉の綾……今 一言……僅一言……其一言をまだ言はぬ……折柄がら/\と表の格子戸の開く音がす る。……吃驚して文三はお勢と顏を見合はせる。蹶然と起上る。轉げるやうに部屋を 驅出る。但し其晩は是れ切りの事で、別段にお話なし。

 翌朝に至りて、兩人の者は初て顏を見合はせる。文三はお勢よりも氣まりを惡 るがツて口數をきかず。此夏の事務の鞅掌さ、暑中休暇も取れぬので匆々に出勤する。 十二時頃に歸宅する。下座鋪で晝食を濟まして二階の居間へ戻り、「アヽ熱かツた」 ト風を納れてゐる所へ、梯子パタ/\でお勢が上ツて參り、二つ三つ英語の不審を質 問する。質問して仕舞へば最早用の無い筈だが、何かモヂ/\して交野の鶉を極めて ゐる。頓て差俯向いた儘で鉛筆を玩弄にしながら、

「アノー、昨夜は貴君どうなすつたの。」

 返答なし。

「何だか私が殘酷だツて、大變憤ツていらツしたが、何が殘酷ですの。」

 ト笑顏を擡げて文三の顏を窺くと、文三は狼狽てて彼方を向いて仕舞ひ、

「大抵察してゐながら、其樣な事を。」

「アラ、それでも私にや何だか解りませんものヲ……。」

「解らなければ解らないでよう御座んす。」

「オヤ可笑しな。」

 其から後は文三と差向ひになる毎に、お勢は例の事を種にして、乙う搦んだ水 向け文句。やいの/\と責め立てて、終には「仰しやらぬとくすぐりますヨ、」とま で迫ツたが、石地藏と生れ付いたせうがには、情談のどさくさ紛れに、チヨツクリチ ヨイといツて除ける事の出來ない文三、然らばといふ口付からまづ重くろしく、折目 正しく居ずまツて、しかつべらしく思ひのたけを言ひ出さうとすれば、お勢はツイと 彼方を向いて、「アラ、鳶が飛んでますヨ、」と知らぬ顏の半兵衞模擬。さればとい ツて、手を引けばまた意あり氣な色目遣ひ。トかうじらされて文三は些とウロが來た が、兎も角も觸らば散らうといふ下心の、自ら素振に現はれるに、「ハヽア」と氣が 附いて見れば、嬉しく有難く辱けなく、罪も報も忘れ果てて、命もトントいらぬ顏附。 臍の下を住家として魂が何時の間にか有頂天外へ宿替をすれば靜には坐ツてもゐられ ず、ウロ/\坐鋪を徘徊いて、舌を吐いたり、肩を縮めたり、思ひ出し笑ひをしたり、 又は變ぽうらいな手附をしたりなど、よろづに瘋癲じみるまで喜びは喜んだが、しか しお勢の前ではいつも四角四面に喰ひしばつて、猥褻がましい擧動はしない。最も曾 てじやらくらが嵩じて、どやくやと成ツた時、今まで嬉しさうに笑ツてゐた文三が俄 に兩眼を閉ぢて靜まり返り、何と言ツても口をきかぬので、お勢が笑ひながら、「そ んなに眞面目にお成んなさると、かう爲るからいゝ、」とくすぐりに懸ツた。其の手 頭を拂ひ除けて文三が熱氣となり、「アヽ我々の感情はまだ習慣の奴隸だ。お勢さん 下へ降りて下さい。」といつた爲めに、お勢に憤られたこともあツたが、……しかし、 お勢も日を經るまゝに草臥れたか、餘りじやらくらもしなくなつて、高笑ひを罷めて、 靜かになツて、此頃では折々物思ひをするやうに成ツたが、文三に向ツては、ともす ればぞんざいな言葉遣ひをする所を見れば、泣寢入りに寢入ツたのでもない光景。

 アヽ偶々咲懸ツた戀の蕾も、事情といふ思はぬ沍にかじけて、可笑しくも葛藤 れた縁の絲のすぢりもぢつた間柄。海へも附かず、河へも附かぬ中ぶらりん。月下翁 の惡戯か、それにしても餘程風變りな戀の初峯入り。

 文三の某省へ奉職したは、昨日今日のやうに思ふ間に、既に二年近くになる。 年頃節儉の功が現はれて、此頃では些しは貯金も出來た事ゆゑ、老耋ツたお袋に何時 までも一人住の不自由をさせて置くも不孝の沙汰。今年の暮には東京へ迎へて一家を 成して、而して……と思ふ旨を半分報知せてやれば、母親は大悦び、文三にはお勢と いふ心

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が出來たことは知らぬが佛のやうな慈悲心から、「早く相應な 者を宛がつて、初孫の顏を見度いとおもふは、親の私としてもかうなれど、其地へ往 ツて一軒の家を成すやうになれば、家の大黒柱とて無くて叶はぬは妻。到底貰ふ事な ら親類某の次女お何どのは内端で温順く、器量も十人竝で、私には至極氣に入ツたが、 此娘を迎へて妻としては」と寫眞まで添へての相談に、文三はハツと當惑の眉を顰め て物の序に云々と叔母のお政に話せば、是れもまた當惑の體。初めお勢が退塾して家 に歸ツた頃「勇といふ嗣子があツて見れば、お勢は到底嫁に遣らなければならぬが、 如何だ文三に配偶せては」と孫兵衞に相談をかけられた事も有ツたが、其頃はお政も 左樣さネと生返事。何方附かずに綾なして月日を送る内、お勢の甚だ文三に親しむを 見てお政も遂に其氣になり、當今では孫兵衞が「あヽ仲が好いのは仕合はせなやうな ものの、兩方とも若い者同志だから、さうでもない心得違ひが有ツてはならぬから、 お前が始終看張ツてゐなくツてはなりませぬぜ。」トいツても、お政は「ナアニ大丈 夫ですよ、また些とやそツとの事なら有ツたツて好う御座んさアネ、到底早かれ晩か れ一所にしようと思ツてる所ですものヲ。」と、ズツと粹を通し顏でゐる所ゆゑ、今 文三の話説を聞いて當惑をしたも其筈の事で。「お袋の申さるゝ通り家を有ツやうに なれば、到底妻を貰はずに置けますまいが、しかし氣心も解らぬ者を無暗に貰ふのは 餘りドツとしませぬから、此縁談はまず辭ツてやらうかと思ひます。」と常に變ツた 文三の決心を聞いて、お政は漸く眉を開いて切りに點頭き、「さうともネ/\、幾程 母親さんの氣に入ツたからツて、肝腎のお前さんの氣に入らなきやア不熟の基だ。し かし、よくお話しだツた。實はネ、お前さんのお嫁の事に就ちやア、些イト良人でも 考へてる事があるんだから、是から先き母親さんが、どんな事を言ツておよこしでも、 チヨイと私に耳打してから返事を出すやうにしてお呉んなさいヨ。いづれ良人でお話 し申すだらうが、些イと考へてる事があるんだから……それは然うと、母親さんの貰 ひ度いとお言ひのは、どんなお子だか、チヨイと其寫眞をお見せナ」トいはれて、文 三はさもきまりの惡るさうに、

「エ、寫眞ですか、寫眞は……私の所には有りません。先刻アノ何が……お勢さ んが何です……持ツて往ツてお仕舞ひなすツた……。」

 トいふ光景で、母親も叔父夫婦の者も、宛とする所は思ひ思ひながら、一樣に 今年の晩れるを待侘びてゐる矢端、誰れの望みも、彼れの望みも、一ツにからげて背 負ツて立つ文三が(話を第一囘に戻して)今日思懸けなくも……諭旨免職となツた。 さてもまはりあはせといふものは、是非のないもの。トサ、 昔氣質の人ならば、言ふ所でも有らうか。