University of Virginia Library

8. 第八囘 團子坂の觀菊 下

 お勢母子の者の出向いた後、文三は漸く些し沈着いて、徒然と机の邊に蹲踞ツ た儘、腕を拱み、顋を襟に埋めて、懊惱たる物思ひに沈んだ。

 どうも氣に懸る、お勢の事が氣に懸る。此樣な區々たる事は、苦に病むだけが 損だ/\、と思ひながら、ツイどうも氣に懸ツてならぬ。

 凡そ相愛する二の心は、一體分身で、孤立する者でもなく、又仕ようとて出來 るものでない故に、一方の心が歡ぶ時には、他方の心も共に歡び、一方の心が悲しむ 時には、他方の心も共に悲しみ、一方の心が樂しむ時には、他方の心も共に樂しみ、 一方の心が苦しむ時には、他方の心も共に苦しみ、嬉笑にも相感じ、怒罵にも相感じ、 愉快適悦、不平煩悶にも相感じ、氣が氣に通じ、心が心を喚起し、決して齟齬し、扞 挌する者で無い。と、今日が日まで文三は思ツてゐたに、今文三の痛痒をお勢の感ぜ ぬは、如何したものだらう。

 どうも氣が知れぬ、文三には平氣で澄ましてゐるお勢の心意氣が呑込めぬ。

 若し相愛してゐなければ、文三に親しんでから、お勢が言葉遣ひを改め、起居 動作を變へ、蓮葉を罷めて、優に艶しく女性らしく成る筈もなし。又今年の夏、一夕 の情話に、我から隔の關を取り除け、乙な眼遣ひをし、麁な言葉を遣ツて、折節に物思ひをする理由もない。

 若し相愛してゐなければ、婚姻の相談が有ツた時、お勢が戯談に託辭けて、そ れとなく文三の腹を探る筈もなし、また叔母と悶着をした時、他人同然の文三を庇護 ツて、眞實の母親と抗論する理由もない。

「イヤ、妄想ぢや無い、おれを思ツてゐるに違ひない。……が……。」

 そのまた、思ツてゐるお勢が、そのまた死なば同穴と、心に誓ツた形の影が、 そのまた共に感じ、共に思慮し、共に呼吸生息する身の片割が、從兄弟なり、親友な り、未來の……夫ともなる文三の、鬱々として樂しまぬを餘所に見て、行かぬと云ツ ても勸めもせず、平氣で澄まして不知顏でゐる而已か、文三と意氣が合はねばこそ、 自家も常から嫌ひだと云ツてゐる、昇如き者に伴はれて、物觀遊山に出懸けて行く… …。

「解らないな。どうしても解らん。」

 解らぬ儘に、文三が想像、辨別の兩刀を執ツて、種々にして、此の氣懸りなお 勢の冷淡を解剖して見るに、何か物が有ツて其中に籠ツてゐるやうに思はれる。イヤ、 籠ツてゐるに相違ない。が、何だか、地體は更に解らぬ。依て、更に又勇氣を振起し て、唯此の一點に注意を集め、傍目を觸らず一心不亂に、?處を先途と解剖し て見るが、歌人の所謂箒木で、有りとは見えて、どうも解らぬ。文三は徐々ジレ出し た。スルト惡戯な妄想奴が、彌次馬に飛び出して來て、アヽでは無いか、斯うでは無 いか、と眞赤な贋物、宛事も無い邪推を掴ませる。贋物だ、邪推だ と、必ずしも見 透かしてゐるでもなく、又必ずしも居ないでもなく、ウカ/\と文三が掴ませられる 儘に掴んで、あえたり、揉んだり、圓めたり、また引延ばしたりして、骨を折つて事 實にして仕舞ひ、今目前にその事が出來したやうに、足掻きつ、もがきつ、四苦八苦の苦楚を嘗め、然る後フト正眼を得て、さて 觀ずれば、何の事だ。皆夢だ、邪推だ、取越苦勞だ。腹立ち紛れに贋物を取ツて、骨 灰微塵と打碎き、ホツと一息吐き敢ず、また穿鑿に取り懸り、また贋物を掴ませられ て、また事實にして、また打碎き、打碎いてはまた掴み、掴んではまた打碎くと、何 時まで經ツても果しも附かず、始終同じ處に而已止まツてゐて、前へも進まず、後へ も退かぬ。而して退いて能く視れば、尚ほ何物だか、冷淡の中に在ツて、朦朧として 見透かされる。

 文三ホツと精を盡かした。今は最う進んで穿鑿する氣力も竭き、勇氣も沮んだ。 乃ち眼を閉ぢ、頭顱を抱へて、其處へ横に倒れた儘、五官を馬鹿にし、七情の守を解 いて、是非も、曲直も、榮辱も、窮達も、叔母も、お勢も、我の吾たるをも、何も角 も忘れて仕舞ツて、一瞬時なりとも、此苦惱、此煩悶を解脱れようと力め、良暫くの 間といふものは、身動きもせず、息氣をも吐かず、死人の如くに成ツてゐたが、倏忽 勃然と跳ね起きて、

「もしや本田に……。」

 ト言ひ懸けて、敢て言ひ詰めず。宛然何歟搜索でもするやうに、愕然として四 邊を環視した。それにしても、此の疑念は何處から生じたもので有らう。天より降ツ たか、地より沸いたか、抑もまた文三の僻みから出た蜃樓海市か。忽然として生じて、 思はずして來り、恍々惚々として其來處を知るに由なし。とはいへど、何にもせよ、 彼程までに、足掻きつ、もがきつして、穿鑿しても解らなか ツた、所謂冷淡中の一物を、今譯もなく造作もなく、ツイチヨツト、突留めたらしい 心持がして、文三覺えず身の毛が彌立ツた。

 とは云ふものの、心持は未だ事實でない。事實から出た心持で無ければ、ウカ とは信を措き難い。依て今迄のお勢の擧動を憶出して、熟思審察して見るに、さらに 其樣な氣色は見えない。成程お勢はまだ若い。血氣もまだ定らない。志操も或は根強 く有るまい。が、栴檀は二葉から馨ばしく、蛇は一寸にして人を呑む氣が有る。文三 の眼より見る時は、お勢は所謂女豪の萌芽だ。見識も高尚で、氣韻も高く、洒洒落々 として愛すべく、尊ぶべき少女であツて見れば、假令道徳を飾物にする僞君子、磊落 を粧ふ似而非豪傑には、或は欺かれもしよう、迷ひもしようが、昇如き彼樣な卑屈な、 輕薄な、犬畜生にも劣ツた奴に、怪我にも迷ふ筈はない。さればこそ、常から文三に は親切でも昇には冷淡で、文三をば推尊してゐても、昇をば輕蔑してゐる。相愛は相 敬の隣に棲む。輕蔑しつゝ迷ふといふは、我輩人間の能く了解し得る事でない。

「して見れば、大丈夫かしら。……が……。」

 ト、また引懸りが有る、まだ決徹しない。文三が周章ててブル/\と首を振ツ て見たが、それでも未だ散りさうにもしない。此の「が」奴が、藕絲孔中蚊睫の間に も這入りさうな此の眇然たる一小「が」奴が、眼の中の星よりも邪魔になり、地平線 上に現はれた砲車一片の雲よりも畏ろしい。

 然り、畏ろしい。此の「が」の先には、如何な不了簡が竊まツてゐるかも知れ ぬ、と思へば文三畏ろしい。物にならぬ内に一刻も早く散らして仕舞ひたい。しかし、 散らして仕舞ひたいと思ふほど尚ほ散り難る。加之も、時刻の移るに隨つて、枝雲は 出來る、砲車雲は擴がる、今にも一大颶風が吹起りさうに見える。氣が氣で無い……。

 國許より郵便が參ツた。散らし藥には屈竟の物が參ツた。飢ゑた蒼鷹が小鳥を 抓むのは、此樣な鹽梅で有らうか、と思ふ程に、文三が手紙を引掴んで、封目を押切 ツて、故意と聲高に讀み出したが、中頃に至ツて……フト默して考へて……また讀出 して……また默して……また考へて……遂に天を仰いで、轟然と一大笑を發した。何 を云ふかと思へば、

「お勢を疑ふなんぞと云ツて、我も餘程如何かしてゐる。アハヽヽヽ。歸ツて來 たら全然咄して、笑ツて仕舞はう。お勢を疑ふなんぞと云ツて、アハヽヽヽ。」

 此最後の大笑で、砲車雲は全く打拂ツたが、其代り、手紙は何を讀んだのだか、 皆無判らない。

 ハツと氣を取直して、文三が眞面目に成ツて落着いて、さて再び母の手紙を讀 んで見ると、免職を知らせ手紙のその返辭で、老耋の惡い耳、愚癡を溢したり薄命を 歎いたりしさうなものの、文の面を見れば、其樣なけびらひは露程もなく、何も角も 因縁づくと斷念めた、思切りのよい文言。しかし、流石に心細いと見えて、返す書に、 跡で憶出して書き加へたやうに、薄墨で、

「かう申せば、そなたはお笑ひ被成候かは存じ不申候へども、手紙の着きし當日 より、一日も早く、舊のやうにお成り被成候やうに、○○のお祖師さまへ茶斷して、 願掛け致し居り候まゝ、そなたもその積りにて、油斷なく御奉公口をお尋ね被下度念 じまいらせそろ。」

 文三は手紙を下に措いて、默然として腕を拱んだ。

 叔母ですら愛想を盡かすに、親なればこそ子なればこそ、ふがひないと云ツて 愚癡をも溢さず、茶斷までして子を勵ます、その親心を汲分けては、難有泪に暮れさ うなもの、トサ、文三自分にも思ツたが、如何したものか感涙も流れず、唯、何とな くお勢の歸りが待遠しい。

「畜生、慈母さんが是程までに思ツて下さるのに、お勢なんぞの事を……不孝極 まる。」

 ト勃然として、自ら叱責ツて、お勢の貌を視るまでは、外出などを做度く無い が、故意と意地惡く、「是から往ツて頼んで來よう。」

 ト口に言ツて、「お勢の歸ツて來ない内に」と、内心で言足しをして、憤々し ながら晩餐を喫して宿所を立出で、疾足に番町へ參ツて、知己を尋ねた。

 知己と云ふのは石田某と云ツて、某學校の英語の教師で、文三とは師弟の間繋、 曾て某省へ奉職したのも、實は此の男の周旋で。

 此の男は曾て、英國に留學した事が有るとかで、英語は一通り出來る。當人の 噺に據れば、彼地では經濟學を修めて、隨分上出來の方で有ツたと云ふ事で、歸朝後 も、經濟學で立派に押し廻される所では有るが、少々仔細有ツて、當分の内(七八年 來の當分の内)唯の英語の教師をしてゐると云ふ事で。

 英國の學者社會に、多人數の知己が有る中に、夫の有名のハ アバアト・スペンサアとも、曾て半面の識が有るが、しかし、最う七八年も以前の事 ゆゑ、今面會したら、恐らくは互に面忘れをしてゐるだらうと云ふ、是も當人の噺で。

 兎も角も、流石は留學しただけ有りて、英國の事情、即ち、上下議員の宏壯、 龍動府市街の繁昌、車馬の華美、料理の献立、衣服、杖履、日用 諸雜品の名稱等、凡て閭巷猥瑣の事には、能く通曉してゐて、骨牌を弄ぶ事も出來、 紅茶の好惡を飮別ける事も出來、指頭で紙卷烟草を製する事も出來、片手で鼻汗を拭 く事も出來るが、其代り日本の事情は皆無解らない。

 日本の事情は皆無解らないが、當人は一向苦にしないのみならず、凡そ一切の 事、一切の物を、「日本の」トさへ冠詞が附けば、則ち鼻息でフムと吹飛ばして仕舞 ツて、而して平氣で濟ましてゐる。

 まだ中年の癖に、此男は宛も老人の如くに、過去の追想而已で生活してゐる。 人に會へば必ず先づ、留學して居た頃の手柄噺を咄し出す。尤も之を封じては、更に 談話の出來ない男で。

 知己の者は、此男の事を種々に評判する。或は、「懶惰」ト云ひ、或は「鐵面 皮だ」ト云ひ、或は「自惚だ」ト云ひ、或は「法螺吹きだ」ト云ふ。此の最後の説だ けには、新知、故交、統括めて總起立。藥種屋の丁稚が、熱に浮かされたやうに、 「さうだ」トいふ。

「しかし、毒が無くツて宜い、」ト誰だか評した者が有ツたが、是は極めて確評 で、恐らくは毒が無いから、懶惰で、鐵面皮で、自惚で、法螺を吹くのだ、と云ツた ら、或は「イヤ懶惰で、鐵面皮で、自惚で、法螺を吹くから、それで毒が無いやうに 見えるのだ、」ト云ふ説も出ようが、兎も角も文三は然う信じてゐるので。

 尋ねて見ると、幸ひ在宿。乃ち面會して委細を咄して依頼すると、「よろしい、 承知した。」ト手輕な挨拶。文三は肚の裏で、「毒がないから安請合をするが、其代 り、身を入れて周旋はして呉れまい。」ト思ツて、私に嘆息した。

「是れが英國だと、君一人位どうでもなるんだが、日本だからいかん、我輩かう 見えても、英國にゐた頃は、隨分知己が

[_]
[12]有ツたものだ。タイム ス新聞の
社員で某サ、それから……。」

 と記憶に存した知己の名を、一々言ひ立てての噺。屡々聞いて、耳にタコが入 つてゐる程では有るが、イエ、其のお噺なら、最う承りましたとも言兼ねて、文三も 初て聞くやうな面相をして、耳を貸してゐる。その焦れツたさ、もどかしさ。モヂ/ \しながら到頭二時間許りといふもの、無間斷に受けさせられた。その受賃といふ譯 でも有るまいが、歸り際になツて、

「新聞の翻譯物が有るから周旋しよう。明後日午後に來給へ、取寄せて置かう。」

 トいふから、文三は喜びを述べた。

「フン新聞か。……日本の新聞は、英國の新聞から見りや、全で小兒の新聞だ、 見られたものぢやない……。」

 文三は狼狽てて、告別の挨拶を仕直して、匆々に戸外へ立ち出で、ホツと一息 溜息を吐いた。

 早くお勢に逢ひたい。早くつまらぬ心配をした事を咄して仕舞ひたい。早く心 の清い所を見せてやり度い。ト、一心に思詰めながら、文三がいそ/\歸宅して見る と、お勢はゐない、お鍋に聞けば、一旦歸ツて、また入湯に往ツたといふ。文三些し 拍子拔けがした。

 居間へ戻ツて燈火を點じ、臥て見たり、起きて見たり、立ツて見たり、坐ツて 見たりして、今か/\と文三が一刻千秋の思ひをして、頸を延ばして待構へてゐると、 頓て格子戸の開く音がして、縁側に優しい聲がして、梯子段を上る跫音がして、お勢 が目前に現はれた。只見れば常さへ艶やかな緑の黒髮は水氣を含んで、天鵞絨をも欺 くばかり、玉と透徹る肌は鹽引の色を帶びて、眼元にはホンノリと紅を潮した鹽梅。 何處やらが惡戯らしく見えるが、ニツコリとした口元の可憐らしい處を見ては、是非 を論ずる遑がない。文三は何も角も忘れて仕舞ツて、だらしも無くニタニタと笑ひな がら、

「お歸んなさい。如何でした、團子坂は。」

「非常に雜沓しましたよ、お天氣が宜いのに、日曜だつたもんだから。」

 と言ひながら、膝から先へベツタリ坐ツて、お勢は兩手で嬌面を掩ひ、

「アヽせつない。厭だと云ふのに、本田さんが無理にお酒を飮まして。」

「母親さんは。」

 ト文三が尋ねた。お勢が何を言ツたのだか、トント解らないやうで。

「お湯から買物に回ツて……而してネ、自家もモウ好加減に酔 ツてる癖に、私が飮めないと云ふとネ、助けて遣るツて、ガブ/\、それこそ牛飮し たもんだから、究竟にはグデングデンに醉ツて仕舞ツて。」

 ト聞いて、文三は、滿面の笑を半ば引込ませた。

「それからネ、私共を家へ送り込んでから、仕樣が無いんですものヲ、巫山戲て /\。それに慈母さんも惡いのよ、今夜だけは大眼に看て置くなんぞツて、云ふもん だから、好い氣になツて尚ほ巫山戲て……オホヽヽ。」

 ト思出し笑をして、

「眞個に失敬な人だよ。」

 文三は全く笑を引込ませて仕舞ツて、腹立しさうに、

「そりや、嘸面白かツたでせう。」

 ト云ツて顏を皺めたが、お勢はさらに氣が附かぬ樣子。暫く默然として、何歟 考へてゐたが、頓てまた思出し笑をして、

「眞個に失敬な人だよ。」

 つまらぬ心配をした事を全然咄して、快く一笑に付して、心の清い所を見せて、 お勢に……お勢に……感心させて、而して自家も安心しようといふ文三の胸算用は、 是に至ツてガラリ外れた。昇が酒を強ひた、飮めぬと云ツたら助けた。何でも無い事。 送込んでから巫山戲た。……道學先生に開かせたら、巫山戲させて置くのが惡いと云 ふかも知れぬが、しかし是とても酒の上の事、一時の戲なら、然う立腹する譯にもい かなかツたらう。要するに、お勢の噺に於て、深く咎むべき節も無い。が、しかし、 文三には氣に喰はぬ。お勢の言樣が氣に喰はぬ。「昇如き犬畜生にも劣ツた奴の事を、 さも嬉しさうに、本田さん/\と、噂をしなくツても宜ささうなものだ、」ト思へば、 又不平になツて、又面白くなくなツて、又お勢の心意氣が呑込めなく成ツた。文三は 差俯向いた儘で、默然として考へてゐる。

「何を其樣に、鬱いでお出でなさるの。」

「何も鬱いぢやゐません。」

「然う、私はまた、お留さん(大方老母が文三の嫁に欲しいと云つた娘の名で) とかの事を懷出して、それで、鬱いでお出でなさるのかと思ツたら、オホヽヽ。」

 文三は愕然として、お勢の貌を暫く凝視めて、ホツと溜息を吐いた。

「オホヽヽ溜息をして、矢張當ツたんでせう。ネ、然うでせう。オホヽヽ、當ツ たもんだから默ツて仕舞ツて。」

「そんな氣樂ぢや有りません。今日母の處から郵便が來たから、讀んで見れば、 私のかういふ身に成ツたを心配して、此頃ぢや茶斷して願掛けしてゐるさうだし… …。」

「茶斷して、慈母さんが。オホヽヽ、慈母さんもまだ舊弊だ事ネー。」

 文三はジロリとお勢を尻眼に懸けて、恨めしさうに、

「貴孃にや可笑しいか知らんが、私にや薩張可笑しく無い。薄命とは云ひながら、 私の身が定らん許りで、老耋ツた母にまで、心配掛けるかと思へば、隨分……耐らな い。それに慈母さんも……。」

「また、何とか云ひましたか。」

「イヤ何とも仰しやりはしないが、アレ以來始終氣不味い顏ばかりしてゐて、打 解けては下さらんし……それに……それに……。」

「貴孃も。」ト口頭まで出たが、如何も鐵面皮しく、嫉妬も言ひかねて、思ひ返 して仕舞ひ、

「兎も角も、一日も早く、身を定めなければ成らぬと思ツて、今も石田の處へ往 ツて頼んでは來ましたが、しかし、是れとても恃にはならんし、實に……弱りました。 唯私一人苦しむのなら、何でもないが、私の身の定らぬ爲めに方方が我他彼此するの で、誠に困る。」

 ト萎れ返ツた。

「然うですネー。」

 ト今まで冴えに冴えてゐたお勢も、トウ/\引込まれて、共に氣をめいらして 仕舞ひ、暫くの間、默然としてつまらぬものでゐたが、頓て小さな欠伸をして、

「アヽ睡く成ツた。ドレ最う往ツて寢ませう。お休みなさいまし。」

 ト會釋をして起立ツて、フト立止まり、

「ア、然うだツけ……文さん、貴君はアノー、課長さんの令妹を御存知。」

「知りません。」

「さう。今日ネ、團子坂でお眼に懸ツたの。年紀は十六七でネ、隨分別嬪は…… 別嬪だツたけれども、束髮の癖に、ヘゲル程白粉を施けて、……薄化粧なら宜いけれ ども、彼樣に施けちやア、厭味ツたらしくツてネー。……オヤ好い氣なもんだ。また 噺込んでゐる積りだと見えるよ。お休みなさいまし。」

 ト再び會釋して、お勢は二階を降りて仕舞ツた。縁側で、唯今歸ツた許りの母 親に出逢ツた。

「お勢。」

「エ。」

「エぢやないよ。またお前、二階へ上ツてたネ。」

 また始まツたと云ツたやうな面相をして、お勢は返答をもせず、其儘子舎へ這 入ツて仕舞ツた。さて子舎へ這入ツてから、お勢は手疾く寢衣を着替へて床へ這入り、 暫くの間、臥ながら今日の新聞を覽てゐたが、……フト新聞を取落した。寢入ツたの かと思へば、然うでもなく、眼はパツチリ視開いてゐる。其癖靜まり返ツてゐて、身 動きをもしない。頓て、

「何故、アヽ不活溌だらう。」

 ト口へ出して、考へて、フト兩足を踏伸ばして嫣然笑ひ、狼狽てて起揚ツて、 枕頭の洋燈を吹消して仕舞ひ、枕に就いて、二三度臥反りを打ツたかと思ふと、間も 無くスヤスヤと寢入ツた。