University of Virginia Library

第三十

 二人の賓客を次の室にやすませて、瀧口は孤燈の ( もと ) に只々一人 ( ) もやらず、つら/\

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思※ ( おもひめぐ ) らせば、痛はしきは維盛卿が身の上なり。誰れあらん小松殿の嫡男として、名門の跡を繼ぐべき御身なるに、天が下に此山ならで身を寄せ給ふ處なきまでに 零落 ( おちぶ ) れさせ給ひしは、 過世 ( すぐせ ) 如何なる因縁あればにや。習ひもお ( ) さぬ 徒歩 ( かち ) の旅に、知らぬ山川を ( ) る/″\ 彷徨 ( さまよ ) ひ給ふさへあるに、玉の ( ふすま ) 、錦の ( とこ ) ( ひま ) もる風も厭はれし昔にひき換へて、露にも堪へぬかゝる 破屋 ( あばらや ) に一夜の宿を願ひ給ふ御 可憐 ( いと ) しさよ。變りし世は 隨意 ( まゝ ) ならで、 ( ) せる都には得も行き給はず、心にもあらぬ落髮を ( ) げてだに、相見んと ( こが ) れ給ふ妻子の恩愛は如何に深かるべきぞ。 御容 ( おんかたち ) さへ ( やつ ) れさせ給ひて、此年月の忍び給ひし 憂事 ( うきこと ) も思ひやらる。思ひ出せば治承の春、西八條の花見の宴に、櫻かざして青海波を舞ひ給ひし御姿、今尚ほ ( きのふ ) の如く覺ゆるに、 ( わき ) を勤めし重景さへ同じ 落人 ( おちうど ) となりて、都ならぬ高野の夜嵐に、昔の哀れを物語らんとは、怪しきまで ( ) しき縁なれ。あはれ、肩に懸けられし恩賜の御衣に一門の譽を擔ひ、 ( ) み居る人よりは 深山木 ( みやまぎ ) の楊梅と ( たゝ ) へられ、枯野の小松と歌はれし其時は、人も我も誰れかは 今日 ( けふ ) あるを想ふべき。昔は夢か今は ( うつゝ ) か。十年にも足らぬ間に變り果てたる世の樣を見るもの哉。

  ( はて ) しなき 今昔 ( こんじやく ) の感慨に、瀧口は柱に ( ) りしまゝしばし茫然たりしが、 不圖 ( ふと ) ( いなづま ) の如く胸に感じて、想ひ起したる小松殿の言葉に、 ( ひそ ) みし眉動き、沈みたる 眼閃 ( ひら ) めき、 ( くづ ) せし膝立て直し ( きつ ) ( ころも ) の襟を 掻合 ( かきあ ) はせぬ。思へば思へば、情なき人を恨み侘びて樣を變へんと思ひ ( さだ ) めつゝ、 餘所 ( よそ ) ながら此世の告別に伺候せし時、世を捨つる我とも知り給はで、頼み置かれし維盛卿の御事、盛りと見えし世に衰へん世の末の事、愚なる我の思ひ ( はか ) らん由もなければ少しも心に懸けざりしが、扨は斯からん後の今の事を仰せ置かれしよ。『少將は心弱き者、一朝事あらん時、妻子の愛に ( ) かされて未練の最後に一門の恥を ( さら ) さんも ( はか ) られず、時頼、たのむは其方一人』。幾度となく繰返されし 御仰 ( おんおほせ ) 、六波羅上下の武士より、我れ一人を擇ばれし御心の、我は只々忝なさに前後をも ( わきま ) へざりしが、今の維盛卿の有樣、正に御遺言に適中せり。都を跡に西國へ落ち給ひしさへ 口惜 ( くちを ) しきに、屋島の浦に 明日 ( あす ) にも亡びん一門の人々を振り捨てて、武士は櫻木、散りての後の名をも惜しみ給はで、妻子の愛にめゝしくも茲まで迷ひ來られし 御心根 ( おんこゝろね ) 、哀れは深からぬにはあらねども、平家の嫡流として未練の ( そし ) りは 末代 ( まつだい ) までも ( のが ) れ給はじ。斯くならん末を思ひ ( はか ) らせ給ひたればこそ、故内府殿の扨こそ我に仰せ置かれしなれ。 此處 ( こゝ ) ぞ御恩の報じ處、 ( なさけ ) を殺し心を鬼にして、 ( つれ ) なき諫言を進むるも、御身の爲め御家の爲め、さては過ぎ去り給ひし父君の御爲ぞや。世に 埋木 ( うもれぎ ) の花咲く事もなかりし我れ、 ( はか ) らずも御恩の萬一を報ゆるの機會に遇ひしこそ、息ある内の面目なれ。あゝ ( ) なり、 ( ) なりと 點頭 ( うなづ ) きしが、然るにても痛はしきは維盛卿、斯かる由ありとも知り給はで、情なの者よ、變りし世に心までがと、一 ( ) に我を恨み給はん事の 心苦 ( こゝろぐる ) しさよ。あゝ忠義の爲めとは言ひながら、君を恨ませ、 ( はづか ) しめて、 ( ) たり顏なる我はそも何の困果ぞや。

 義理と情の 二岐 ( ふたみち ) かけて、瀧口が心はとつおいつ、外には見えぬ胸の嵐に亂脈打ちて、 暫時 ( しばし ) 思案に暮れ居しが、やゝありて、兩眼よりはら/\と落涙し、思はず 口走 ( くちばし ) る絞るが如き一語『オ 御許 ( おゆるし ) あれや、君』。言ひつゝ眼を閉ぢ、維盛卿の 御寢間 ( おんねま ) に向ひ 岸破 ( がば ) と打伏しぬ。

  折柄 ( をりから ) ( すぎ ) 妻戸 ( つまど ) を徐ろに押し ( ) くる音す、瀧口 ( かうべ ) を擧げ、 ( ともしび ) ( ) し向けて何者と打見やれば、足助二郎重景なり。 ( はし ) なくは進まず、 ( かうべ ) を垂れて ( しを ) れ出でたる有樣は仔細ありげなり。瀧口訝しげに、『足助殿には未だ御寢ならざるや』と問へば、重景太息吐き、『瀧口殿』、聲を忍ばせて、『重景改めて御邊に謝罪せねばならぬ事あり』。『何と仰せある』。