University of Virginia Library

   第五

 打つて變りし瀧口が 今日此頃 ( けふこのごろ ) の有樣に、あれ見よ、當世嫌ひの 武骨者 ( ぶこつもの ) も一度は折らねばならぬ我慢なるに、笑止や 日頃 ( ひごろ ) 吾等を尻目に懸けて輕薄武士と言はぬ計りの顏、今更 何處 ( どこ ) に下げて吾等に ( むか ) ひ得るなど、 後指 ( うしろゆび ) さして嘲り笑ふものあれども、瀧口少しも意に介せざるが如く、應對等は常の如く振舞ひけり。されど自慢の頬鬢 掻撫 ( かいな ) づる ( ひま ) もなく、青黛の跡絶えず鮮かにして、 萌黄 ( もえぎ ) 狩衣 ( かりぎぬ ) 摺皮 ( すりかは ) 藺草履 ( ゐざうり ) など、よろづ派手やかなる 出立 ( いでたち ) は人目に ( それ ) ( まが ) うべくもあらず。 顏容 ( かほかたち ) さへ稍々 ( やつ ) れて、 起居 ( たちゐ ) ( ものう ) きがごとく見ゆれども、人に向つて 氣色 ( きしよく ) ( すぐ ) れざるを喞ちし事もなく、 偶々 ( たま/\ ) 病などなきやと問ふ人あれば、却つて意外の 面地 ( おももち ) して、常にも増して健かなりと答へけり。

 皆是れ戀の ( わざ ) なりとは、哀れや時頼未だ夢にも心づかず、我ともなく人ともあらで只々思ひ煩へるのみ。思ひ煩へる事さへも心自ら知らず、例へば夢の中に 伏床 ( ふしど ) を拔け出でて 終夜出 ( よもすがらやま ) ( いたゞき ) 、水の ( ほとり ) を迷ひつくしたらん人こそ、さながら瀧口が今の有樣に似たりとも見るべけれ。

 人にも我にも行衞知れざる戀の夢路をば、瀧口何處のはてまで辿りけん、夕とも言はず、曉とも言はず、屋敷を出でて行先は己れならで知る人もなく、只々 門出 ( かどで ) の勢ひに引きかへて、 戻足 ( もどりあし ) の打ち ( しお ) れたる樣、さすがに遠路の ( つかれ ) とも思はれず。 一月餘 ( ひとつきあまり ) も過ぎて其年の春も暮れ、青葉の影に 時鳥 ( ほとゝぎす ) の初聲聞く夏の初めとなりたれども、かゝる有樣の ( あらた ) まる色だに見えず、はては十幾年の間、朝夕樂みし弓馬の稽古さえ ( おのづか ) ら怠り勝になりて、 胴丸 ( どうまる ) に積もる ( ほこり ) ( うづたか ) きに目もかけず、名に負へる 鐵卷 ( くろがねまき ) は高く 長押 ( なげし ) に掛けられて、螺鈿の櫻を散らせる黒鞘に 摺鮫 ( すりざめ ) 鞘卷 ( さやまき ) ( ) し添ヘたる 立姿 ( たちすがた ) は、 ( ) し我ならざりせば 一月前 ( ひとつきまへ ) の時頼、唾も吐きかねざる 華奢 ( きやしや ) の風俗なりし。

 されば變り果てし容姿に慣れて、笑ひ ( そし ) る人も漸く少くなりし頃、 蝉聲 ( せみ ) ( かまびす ) しき夏の暮にもなりけん。瀧口が顏愈々やつれ、頬肉は目立つまでに落ちて眉のみ秀で、凄きほど色 蒼白 ( あを ) みて ( こまや ) かなる雙の鬢のみぞ、愈々其の ( つや ) を増しける。 氣向 ( きむ ) かねばとて、病と稱して小松殿が熊野參寵の ( とも ) にも立たず、 ( やゝ ) もすれば、己が室に閉籠りて、夜更くるまで寢もやらず、日頃は絶えて用なき机に向ひ、一 ( すゐ ) ( ともしび ) ( かゝ ) げて怪しげなる薄色の 折紙 ( をりがみ ) 延べ擴げ、 命毛 ( いのちげ ) の細々と認むる小筆の運び絶間なく、卷いてはかへす思案の胸に、果は 太息 ( といき ) と共に封じ納むる文の 數々 ( かず/\ ) 、燈の光に宛名を見れば、薄墨の色の哀れを籠めて、何時の間に習ひけん、 貫之流 ( つらゆきりう ) の流れ文字に『横笛さま』。

 世に ( なまめ ) かしき文てふものを初めて我が思ふ人に送りし時は、心のみを頼みに安からぬ日を覺束なくも暮らせしが、籬に觸るゝ夕風のそよとの ( たより ) だになし。前もなき只の一度に人の誠のいかで知らるべきと、更に心を籠めて寄する言の葉も亦 ( あだ ) し矢の返す響もなし。心せはしき 三度 ( みたび ) 五度 ( いつたび ) 、答なきほど迷ひは愈々深み、氣は愈々狂ひ、十度、二十度、哀れ六尺の 丈夫 ( ますらを ) が二つなき魂をこめし 千束 ( ちづか ) なす文は、底なき谷に投げたらん ( つぶて ) の如く、只の一度の返り ( ごと ) もなく、 ( あま ) ( ) ( わた ) る梶の葉に思ふこと書く頃も過ぎ、 何時 ( いつ ) しか秋風の哀れを送る夕まぐれ、露を命の蟲の音の葉末にすだく聲悲し。