University of Virginia Library

第十六

 鋭き言葉に言い ( こら ) されて、餘儀なく立ち ( あが ) る冷泉を、引き立てん計りに送り出だし、 本意 ( ほい ) なげに見返るを 見向 ( みむき ) もやらず、其儘障子を ( はた ) ( ) めて、仆るゝが如く座に就ける横笛。暫しは 恍然 ( うつとり ) として氣を失へる如く、いづこともなく ( きつ ) 凝視 ( みつ ) め居しが、星の如き眼の ( うち ) には ( あふ ) るゝばかりの涙を ( たゝ ) へ、珠の如き頬にはら/\と振りかゝるをば拭はんともせず、蕾の ( くちびる ) 惜氣 ( をしげ ) もなく喰ひしばりて、噛み碎く息の切れ/″\に全身の哀れを忍ばせ、はては耐へ得で、體を 岸破 ( がば ) とうつ伏して、人には見えぬ ( まぼろし ) に我身ばかりの ( うつゝ ) を寄せて、よゝとばかりに泣き ( まろ ) びつ。涙の中にかみ絞る袂を漏れて、 ( かすか ) に聞ゆる 一言 ( ひとこと ) は、誰れに聞かせんとてや、『ユ許し給はれ』。

  ( ) しや眼前に ( かばね ) の山を積まんとも涙一滴こぼさぬ勇士に、世を 果敢 ( はか ) なむ迄に物の哀れを感じさせ、 夜毎 ( よごと ) の秋に 浮身 ( うきみ ) をやつす六波羅一の 優男 ( やさをとこ ) を物の見事に狂はせながら、「許し給はれ」とは今更ら何の 醉興 ( すゐきよう ) ぞ。 吁々 ( あゝ ) ( ) に非ず、 何處 ( いづこ ) までの浮世なれば、心にもあらぬ ( つれ ) なさに、互ひの胸の隔てられ、恨みしものは恨みしまゝ、恨みられしものは恨みられしまゝに、あはれ皮 一重 ( ひとへ ) を堺に、身を換へ世を隔てても胡越の思ひをなす、吾れ人の運命こそ 果敢 ( はか ) なけれ。横笛が胸の裏こそ、中々に口にも筆にも盡されね。

  飛鳥川 ( あすかがは ) 明日 ( あす ) をも俟たで、絶ゆる ( ) もなく移り變る世の 淵瀬 ( ふちせ ) に、 百千代 ( もゝちよ ) を貫きて變らぬものあらば、そは人の情にこそあんなれ。 女子 ( をなご ) ( いのち ) 只一 ( たゞひと ) つの戀、あらゆる此世の望み、樂み、さては ( いう ) にやさしき 月花 ( つきはな ) の哀れ、何れ戀ならぬはなし。胸に燃ゆる情の ( ほのほ ) は、他を燒かざれば其身を ( ) かん、まゝならぬ 戀路 ( こひぢ ) に世を ( かこ ) ちて、秋ならぬ風に散りゆく露の 命葉 ( いのちば ) 、或は 墨染 ( すみぞめ ) ( ころも ) 有漏 ( うろ ) の身を ( つゝ ) む、さては 淵川 ( ふちかは ) に身を棄つる、何れか戀の ( ほむら ) 其躯 ( そのみ ) を燒き ( ) くし、殘る冷灰の哀れにあらざらんや。女子の ( さが ) の斯く 情深 ( なさけふか ) きに、いかで横笛のみ濁り 無情 ( つれな ) かるべきぞ。

 人知らぬ思ひに秋の 夜半 ( よは ) を泣きくらす横笛が心を尋ぬれば、次の如くなりしなり。

 想ひ

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( まは ) せば、はや半歳の昔となりぬ。西八條の 屋方 ( やかた ) に花見の ( うたげ ) ありし時、人の ( すゝ ) めに ( もだ ) し難く、舞ひ終る一曲の春鶯囀に、 ( かず ) ならぬ身の ( はし ) なくも人に知らるゝ身となりては、 御室 ( おむろ ) ( さと ) に靜けき 春秋 ( はるあき ) ( たの ) しみし身の 心惑 ( こゝろまど ) はるゝ事のみ多かり。見も知らず、聞きも習はぬ人々の 人傳 ( ひとづて ) に送る 薄色 ( うすいろ ) の折紙に、我を 宛名 ( あてな ) の哀れの 數々 ( かず/\ ) 都慣 ( みやこな ) れぬ身には只々胸のみ驚かれて、何と答へん ( すべ ) だに知らず、其儘心なく打ち過ぐる程に、雲井の月の 懸橋 ( かけはし ) ( ) えしと思ひてや、心を寄するものも漸く ( すくな ) くなりて、始めに ( かは ) らず文をはこぶは只々二人のみぞ殘りける。一人は齋藤瀧口にして、他の一人は足助二郎なり。横笛今は 稍々 ( やゝ ) 浮世に慣れて、風にも露にも、 餘所 ( よそ ) ならぬ思ひ忍ばれ、墨染の ( ゆふべ ) の空に只々一人、 ( ) ( わた ) る雁の行衞 ( ) ゆるまで見送りて、思はず 太息 ( といき ) ( ) く事も多かりけり。二人の文を見るに付け、何れ劣らぬ情の ( こまや ) かさに心迷ひて、一つ身の何れを ( それ ) とも別ち兼ね、其れとは無しに人の噂に耳を傾くれば、或は瀧口が武勇 ( ひと ) ( すぐ ) れしを ( ) むるもあれば、或は二郎が 容姿 ( すがたかたち ) の優しきを ( たゝ ) ふるもあり。共に小松殿の御内にて、世にも知られし屈指の名士。横笛愈々 心惑 ( こゝろまど ) ひて、人の哀れを 二重 ( ふたへ ) に包みながら、浮世の義理の ( しがらみ ) 何方 ( いづかた ) へも一言の ( いら ) へだにせず、無情と見ん人の恨みを思ひやれば、身の 心苦 ( こゝろぐる ) しきも數ならず、夜半の夢 屡々 ( しば/\ ) 駭きて、涙に浮くばかりなる 枕邊 ( まくらべ ) に、 燻籠 ( ふせご ) の匂ひのみ ( しめ ) やかなるぞ ( あは ) れなる。

 或日のこと。瀧口時頼が 發心 ( ほつしん ) せしと、誰れ言ふとなく 大奧 ( おほおく ) に傳はりて、さなきだに 口善惡 ( くちさが ) なき女房共、寄ると ( さは ) ると瀧口が噂に、 横笛轟 ( とゞろ ) く胸を ( おさ ) へて蔭ながら樣子を聞けば、 ( つれ ) なき戀路に世を 果敢 ( はか ) なみての ( わざ ) と言ひ ( はや ) すに、人の手前も打ち忘れ、覺えず『そは誠か』と力を入れて尋ぬれば、女房共、『罪造りの横笛殿、 可惜 ( あたら ) 勇士を木の ( はし ) とせし』。人の哀れを面白げなる 高笑 ( たかわらひ ) に、是れはとばかり、 早速 ( さそく ) のいらへもせず、ツと ( おの ) が部屋に走り歸りて、 終日夜 ( ひねもすよ ) もすがら泣き明かしぬ。