瀧口入道
高山樗牛 (Takiguchi nyudo) | ||
第六
思へば我しらで 戀路 ( こひぢ ) の闇に迷ひし瀧口こそ哀れなれ。 鳥部野 ( とりべの ) の煙絶ゆる時なく、仇し野の露置くにひまなき、まゝならぬ世の習はしに漏るゝ我とは思はねども、相見ての刹那に 百年 ( もゝとせ ) の契をこむる頼もしき 例 ( ためし ) なきにもあらぬ世の中に、いかなれば我のみは、天の 羽衣 ( はごろも ) 撫で 盡 ( つく ) すらんほど永き悲しみに、只々 一時 ( ひととき ) の望みだに 得協 ( えかな ) はざる。思へば 無情 ( つれな ) の横笛や、過ぎにし春のこのかた、書き 連 ( つら ) ねたる 百千 ( もゝち ) の文に、今は我には言殘せる誠もなし、 良 ( よ ) しあればとて此上短き言の葉に、胸にさへ餘る長き思を寄せん 術 ( すべ ) やある。 情 ( つれ ) なの横笛や、よしや送りし文は拙くとも、變らぬ 赤心 ( まこと ) は此の春秋の永きにても知れ。一夜の松風に夢さめて、 思寂 ( おもひさび ) しき 衾 ( ふすま ) の中に、 我 ( わが ) ありし事、 薄 ( すゝき ) が末の露程も思ひ出ださんには、など 一言 ( ひとこと ) の哀れを返さぬ事やあるべき。思へば/\心なの横笛や。
然 ( さ ) はさりながら、 他 ( あだ ) し人の心、我が誠もて 規 ( はか ) るべきに非ず。 路傍 ( みちのべ ) の柳は折る人の心に 任 ( まか ) せ、 野路 ( のぢ ) の花は摘む 主 ( ぬし ) 常ならず、數多き女房曹司の中に、いはば 萍 ( うきくさ ) の浮世の風に任する一女子の身、今日は何れの汀に留まりて、 明日 ( あす ) は何處の岸に吹かれやせん。 千束 ( ちづか ) なす我が文は讀みも了らで捨てやられ、さそふ秋風に桐一葉の哀れを殘さざらんも知れず。 況 ( まし ) てや、あでやかなる彼れが 顏 ( かんばせ ) は、浮きたる色を 愛 ( め ) づる世の中に、そも幾その人を惱しけん。かの宵にすら、かの老女を捉へて色清げなる人の、嫉ましや、早や彼が名を尋ねしとさへ言へば、思ひを寄するもの我のみにてはなかりけり。よしや 他 ( ひと ) にはあらぬ 赤心 ( まこと ) を寄するとも、風や何處と聞き流さん。浮きたる都の 艷女 ( たをやめ ) に二つなき心盡しのかず/\は我身ながら恥かしや、アヽ心なき人に心して我のみ迷いし愚さよ。
待てしばし、 然 ( さ ) るにても 立波荒 ( たつなみあら ) き 大海 ( わたつみ ) の下にも、人知らぬ 眞珠 ( またま ) の光あり、 外 ( よそ ) には見えぬ 木影 ( こかげ ) にも、 情 ( なさけ ) の露の宿する 例 ( ためし ) 。まゝならぬ世の習はしは、善きにつけ、惡しきにつけ、 人毎 ( ひとごと ) に 他 ( ひと ) には測られぬ 憂 ( うき ) はあるものぞかし。あはれ後とも言はず今日の今、我が此思ひを其儘に、いづれいかなる由ありて、我が思ふ人の悲しみ居らざる事を誰か知るや。想へば、 那 ( か ) の 氣高 ( けだか ) き
※ ( らふ ) たけたる横笛を 萍 ( うきくさ ) の浮きたる 艷女 ( たをやめ ) とは 僻 ( ひが ) める我が心の誤ならんも知れず。さなり、我が心の誤ならんも知れず。鳴く蝉よりも鳴かぬ螢の身を焦すもあるに、聲なき哀れの深さに 較 ( くら ) ぶれば、 仇浪 ( あだなみ ) 立てる此胸の淺瀬は物の 數 ( かず ) ならず。そもや心なき草も春に遇へば笑ひ、 情 ( じやう ) なき蟲も秋に感ずれば鳴く。血にこそ染まね、千束なす 紅葉重 ( もみぢがさね ) の燃ゆる計りの我が思ひに、薄墨の跡だに 得還 ( えかへ ) さぬ人の心の 有耶無耶 ( ありやなしや ) は、誰か測り、誰か知る。 然 ( さ ) なり、 情 ( つれ ) なしと見、心なしと思ひしは、僻める我身の誤なりけり。然るにても――瀧口の胸は麻の如く亂れ、とつおいつ、或は恨み、或は疑ひ、或は惑ひ、或は慰め、去りては來り、往きては還り、念々不斷の妄想、流は千々に 異 ( かは ) れども、落行く末はいづれ同じ戀慕の淵。迷の 羈絆 ( きづな ) 目に見えねば、勇士の刃も切らんに 術 ( すべ ) なく、あはれや、鬼も 挫 ( ひし ) がんず六波羅一の 剛 ( がう ) の 者 ( もの ) 、 何時 ( いつ ) の 間 ( ま ) にか戀の 奴 ( やつこ ) となりすましぬ。
一夜 時頼 ( ときより ) 、 更闌 ( かうた ) けて尚ほ眠りもせず、意中の 幻影 ( まぼろし ) を追ひながら、爲す事もなく茫然として机に 憑 ( よ ) り居しが、越し方、行末の事、 端 ( はし ) なく胸に浮び、今の我身の有樣に引き 比 ( くら ) べて、思はず 深々 ( ふかぶか ) と 太息 ( といき ) つきしが、何思ひけん、一聲高く胸を叩いて躍り 上 ( あが ) り、『嗚呼 過 ( あやま ) てり/\』。
瀧口入道
高山樗牛 (Takiguchi nyudo) | ||