University of Virginia Library

第三十一

 何事と眉を ( ひそ ) むる瀧口を、重景は ( おそ ) ろしげに打ち

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( みまも ) り、『重景、 今更 ( いまさら ) 御邊 ( ごへん ) 面合 ( おもてあは ) する面目もなけれども、我身にして我身にあらぬ今の我れ、 ( のが ) れんに道もなく、厚かましくも先程よりの ( てい ) たらく、 御邊 ( ごへん ) の目には嘸や厚顏とも鐵面とも見えつらん。維盛卿の前なれば心を ( あか ) さん折もなく、 ( しば ) しの ( あひだ ) ながら御邊の顏見る毎に胸を裂かるゝ思ひありし、そは他事にもあらず、横笛が事』。言ひつゝ瀧口が顏、 ( ぬす ) むが如く見上ぐれば、默然として眼を閉ぢしまゝ、衣の袖の ( ゆる ) ぎも見せず。『世を捨てし御邊が清き心には、今は昔の恨みとて殘らざるべけれ共、 凡夫 ( ぼんぷ ) の悲しさは、一度 ( をか ) せる惡事は善きにつけ惡しきにつけ、影の如く附き ( まと ) ひて、此の年月の心苦しさ、自業自得なれば誰れに向ひて憂を分たん術もなく、なせし罪に比べて只々我が苦しみの輕きを恨むのみ。 ( のう ) 、瀧口殿、 最早 ( もは ) や世に浮ぶ瀬もなき此身、今更 ( ) しむべき譽もなければ、誰れに恥づべき名もあらず、重景が一 ( ) 懺悔 ( ざんげ ) 聞き給へ。 御邊 ( ごへん ) 可惜 ( あたら ) 武士を捨てて世を ( のが ) れ給ひしも、扨は横笛が深草の里に 果敢 ( はか ) なき終りを ( ) げたりしも、起りを糾せば ( みな ) 此の重景が所業にて候ぞや』。瀧口は猶ほも默然として、聞いて驚く樣も見えず。重景は語を續けて、『事の始めはくだくだしければ言はず、何れ 若氣 ( わかげ ) の春の駒、止めても止まらぬ戀路をば行衞も知らず踏み迷うて、 ( やつ ) 憂身 ( うきみ ) も誰れ故とこそ思ひけめ。我が心の萬一も ( ) みとらで、 何處 ( どこ ) までもつれなき横笛、冷泉と云へる知れる老女を懸橋に樣子を探れば、御身も疾ぐより心を寄する由。扨は横笛、我に 難面 ( つれな ) きも御邊に義理を立つる爲と、心に ( ねた ) ましく思ひ、彼の老女を 傳手 ( つて ) に御邊が事、色々惡樣に言ひなせし事、いかに戀路に迷ひし人の常とは言へ、今更我れながら心の程の怪しまるゝばかり。又夫れのみならず、 御邊 ( ごへん ) に横笛が事を思ひ切らせん爲め、潛かに御邊が父左衞門殿に、 親實 ( しんじつ ) ( うは ) べに言ひ入れしこともあり、皆之れ重景ならぬ女色に心を奪はれし戀の ( やつこ ) の爲せし ( わざ ) 、云ふも中々慚愧の至りにこそ。御邊が世を捨てしと聞きて、あゝ許し給へ、六波羅の人々知るも知らぬも哀れと思はざるはなかりしに、同じ小松殿の 御内 ( みうち ) に朝夕顏を見合せし朋輩の我、却て心の底に喜びしも戀てふ惡魔のなせる ( わざ ) 。あはれ時こそ來りたれ、外に戀を爭ふ人なければ、横笛こそは我れに靡かめと、夜となく晝とも言はず 掻口説 ( かきくど ) きしに、思ひ懸けなや、横笛も亦程なく行衞しれずなりぬ。跡にて人の噂に聞けば、世を捨つるまで己れを慕ひし御邊の誠に感じ、其身も深草の邊に庵を結びて御邊が爲に節を守りしが、乙女心の ( うき ) に耐へ得で、秋をも待たず 果敢 ( はか ) なくなりしとかや。思ひし人は世を去りて、殘る哀れは我れにのみ集まり、迷の夢醒めて、初めて ( さと ) る我身の罪、あゝ我れ ( なか ) りせば、御邊も 可惜 ( あたら ) 武士を捨てじ、横笛も亦世を早うせじ、とても叶はぬ戀とは知らで、道ならぬ 手段 ( てだて ) を用ひても望みを貫かんと務めし愚さよ。唯々我れありし爲め浮世の義理に明けては言はぬ互の心、底の流れの通ふに由なく、御邊と言ひ、横笛と言ひ、皆盛年の身を以て、或は墨染の衣に世を遁れ、或は咲きもせぬ蕾のまゝに散り果てぬ、世の恨事何物も之に過ぐべうも覺えず。 今宵 ( こよひ ) ( はし ) なく御邊に遇ひ、ありしにも似ぬ體を見るにつけ、皆是れ重景が ( ) せる業と思へば、いぶせき庵に多年の行業にも若し知り給はば、嘸や我を恨み給ひけん。――此期に及び多くは言はじ、只々御邊が ( ゆる ) しを願ふのみ』。慚愧と悲哀に情迫り聲さへうるみて、 ( ひたひ ) の汗を拭ひ敢へず。

 重景が事、斯くあらんとは ( かね ) てより 略々 ( ほぼ ) 察し知りし瀧口なれば、さして騷がず、只々横笛が ( こと ) ( はし ) なく胸に浮びては、 流石 ( さすが ) に色に忍びかねて、法衣の濡るゝを覺えず。 打蕭 ( うちしを ) れたる重景が樣を見れば、今更憎む心も出でず、世にときめきし昔に思ひ比べて、哀れは 一入 ( ひとしほ ) 深し。『若き時の 過失 ( あやまち ) 人毎 ( ひとごと ) ( まねか ) れず、 懺悔 ( ざんげ ) めきたる述懷は瀧口 ( かへつ ) て迷惑に存じ候ぞや。戀には ( もろ ) き我れ人の心、など御邊一人の罪にてあるべき。言うて還らぬ事は言はざらんには ( ) かず、何事も過ぎし昔は恨みもなく喜びもなし。世に望みなき瀧口、今更 何隔意 ( なにきやくい ) の候べき、只々世にある御邊の行末永き忠勤こそ願はしけれ』。淡きこと水の如きは大人の心か、昔の仇を夢と見て、今の ( うつゝ ) に報いんともせず、恨みず、亂れず、光風霽月の雅量は、流石は世を觀じたる瀧口入道なり。