University of Virginia Library

第二十二

 或日、 ( そら ) 長閑 ( のどか ) に晴れ渡り、 ( ころも ) を返す風寒からず、秋蝉の ( つばさ ) ( あたゝ ) 小春 ( こはる ) の空に、瀧口そゞろに心浮かれ、常には行かぬ ( かつら ) 鳥羽 ( とば ) わたり巡錫して、嵯峨とは都を隔てて 南北 ( みなみきた ) 深草 ( ふかくさ ) ( ほとり ) に來にける。此あたりは山近く林 ( みつ ) にして、 立田 ( たつた ) の姫が織り成せる木々の錦、二月の花よりも ( くれなゐ ) にして、匂あらましかばと ( ) しまるゝ美しさ、得も言はれず。 薪採 ( たきゞと ) る翁、牛ひく ( わらんべ ) 、餘念なく歌ふ ( ふし ) 、餘所に聞くだに樂しげなり。瀧口 ( ) く/\ 四方 ( よも ) の景色を打ち眺め、 稍々 ( やゝ ) 疲れを覺えたれば、とある路傍の民家に腰打ち掛けて、暫く休らひぬ。主婦は六十餘とも覺しき老婆なり、一椀の 白湯 ( さゆ ) を乞ひて ( のんど ) ( うるほ ) し、何くれとなき 浮世話 ( うきよばなし ) の末、瀧口、『 愚僧 ( ぐそう ) ( いほり ) は嵯峨の奧にあれば、此わたりには 今日 ( けふ ) が初めて。 何處 ( いづこ ) にも 土地 ( とち ) ( めづら ) しき話一つはある物ぞ、 ( いづ ) れ名にし ( ) はば、哀れも 一入 ( ひとしほ ) 深草の里と覺ゆるに、話して聞かせずや』。老女は笑ひながら、『かゝる 片邊 ( かたほとり ) なる ( ひな ) には何珍しき事とてはなけれども、其の哀れにて思ひ出だせし、世にも哀れなる一つの話あり。問ひ給ひしが 困果 ( いんぐわ ) 事長 ( ことなが ) くとも聞き給へ。御身の茲に來られし ( みち ) すがら、 溪川 ( たにがは ) のある ( あたり ) より、山の方にわびしげなる 一棟 ( ひとむね ) の僧庵を見給ひしならん。其庵の側に一つの ( さゝ ) やかなる新塚あり、主が名は言はで、此の里人は只々 戀塚 ( こひづか ) 々々と呼びなせり。此の戀塚の ( いはれ ) に就きて、 ( ) とも哀れなる物語の ( さふらふ ) なり』。『戀塚とは 餘所 ( よそ ) ながら ( ゆか ) しき思ひす、 ( ) らぬ ( まへ ) の我も戀塚の ( あるじ ) ( なか ) ばなりし事あれば』。言ひつゝ瀧口は 呵々 ( から/\ ) と打笑へば、老婆は 打消 ( うちけ ) し、『否、笑ふことでなし。此月の 初頃 ( はじめごろ ) なりしが、畫にある ( やう )

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上※ ( じやうらふ ) の如何なる故ありてか、かの 庵室 ( あんしつ ) ( こも ) りたりと想ひ給へ。花ならば蕾、月ならば新月、いづれ末は玉の 輿 ( こし ) にも乘るべき人が、品もあらんに世を ( よそ ) なる尼法師に樣を變へたるは、慕ふ ( をつと ) に別れてか、 ( つれ ) なき人を思うてか、 ( ) ( みち ) 、戀路ならんとの噂。薪とる 里人 ( さとびと ) の話によれば、庵の中には玉を ( まろ ) ばす如き ( やさ ) しき聲して、 讀經 ( どきやう ) 響絶 ( ひゞきた ) ゆる時なく、 折々 ( をり/\ ) 閼伽 ( あか ) 水汲 ( みづく ) みに、谷川に下りし姿見たる人は、 天人 ( てんにん ) 羽衣 ( はごろも ) ( ) ぎて 袈裟 ( けさ ) ( ) けしとて斯くまで美しからじなど罵り合へりし。心なき里人も世に痛はしく思ひて、色々の物など送りて ( なぐさ ) むる ( うち ) 、かの上※
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思重 ( おもひおも ) りてや、 ( ) みつきて程も ( ) ず返らぬ人となりぬ。言ひ殘せし 片言 ( かたごと ) だになければ、誰れも尼になるまでの事の由を知らず、里の人々相集りて涙と共に庵室の側らに心ばかりの埋葬を營みて、 卒塔婆 ( そとば ) ( ) ( あるじ ) とはせしが、誰れ言ふとなく戀塚々々と呼びなしぬ。 來慣 ( きな ) れぬ此里に 偶々 ( たま/\ ) 來て此話を聞かれしも 他生 ( たしやう ) 因縁 ( いんねん ) と覺ゆれば、 歸途 ( かへるさ ) には必らず立寄りて一片の
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※向 ( ゑかう ) をせられよ。いかに哀れなる話に候はずや』。老婆は話し了りて、燃えぬ薪の ( けぶり ) ( むせ ) びて、 ( なみだ ) 押拭 ( おしのご ) ひぬ。

 瀧口もやゝ哀れを催して、『そは氣の毒なる事なり、其の上※

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何處 ( いづこ ) 如何 ( いか ) なる人なりしぞ』。『人の噂に聞けば、 御所 ( ごしよ ) 曹司 ( ざうし ) なりとかや』。『ナニ曹司とや、其の名は聞き知らずや』。『 ( ) れば、 ( ) とやさしき名と覺えしが、何とやら、おゝ――それ ( たしか ) に横笛とやら言ひし。嵯峨の奧に 戀人 ( こひびと ) の住めると、人の話なれども、定かに知る由もなし。聞けば御僧の坊も同じ嵯峨なれば、 ( ) 心當 ( こゝろあたり ) の人もあらば、此事 ( つた ) へられよ。同じ世に在りながら、斯かる ( あで ) やかなる上※
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の樣を變へ、思ひ ( じに ) するまでに ( つれ ) なかりし男こそ、世に 罪深 ( つみふか ) き人なれ。 ( あだ ) し人の事ながら、誠なき男見れば取りも殺したく思はるゝよ』。 餘所 ( よそ ) の恨みを身に受けて、他とは思はぬ吾が哀れ、老いても女子は 流石 ( さすが ) にやさし。瀧口が樣見れば、先の ( こゝろよ ) げなる 氣色 ( けしき ) に引きかへて、 ( かうべ ) を垂れて 物思 ( ものおも ) ひの ( てい ) なりしが、やゝありて、『あゝ ( あま ) りに哀れなる物語に、 法體 ( ほつたい ) にも恥ぢず、思はず落涙に及びたり。 主婦 ( あるじ ) ( ことば ) に從ひ、愚僧は之れより其の戀塚とやらに立寄りて、暫し
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※向 ( ゑかう ) の杖を ( とど ) めん』。

  網代 ( あじろ ) の笠に 夕日 ( ゆふひ ) ( ) うて立ち去る瀧口入道が 後姿 ( うしろすがた ) 頭陀 ( づだ ) の袋に 麻衣 ( あさごろも ) 、鐵鉢を ( たなごゝろ ) ( さゝ ) げて、八つ目のわらんづ踏みにじる、形は 枯木 ( こぼく ) の如くなれども、 ( いき ) ある間は血もあり涙もあり。