瀧口入道
高山樗牛 (Takiguchi nyudo) | ||
第二十三
深草の里に老婆が物語、聞けば 他事 ( ひとごと ) ならず、いつしか身に振りかゝる哀の露、 泡沫夢幻 ( はうまつむげん ) と悟りても、今更ら驚かれぬる世の 起伏 ( おきふし ) かな。樣を變へしとはそも何を觀じての 發心 ( ほつしん ) ぞや、憂ひに死せしとはそも誰れにかけたる恨みぞ。あゝ横笛、吾れ人共に誠の道に入りし上は、影よりも 淡 ( あは ) き昔の事は問ひもせじ語りもせじ、 閼伽 ( あか ) の 水汲 ( みづく ) み絶えて流れに宿す影留らず、觀經の音 已 ( や ) みて梢にとまる響なし。いづれ 業繋 ( ごふけ ) の身の、心と違ふ事のみぞ多かる世に、 夢中 ( むちゆう ) に夢を 喞 ( かこ ) ちて我れ何にかせん。
瀧口入道、横笛が墓に來て見れば、墓とは名のみ、小高く 盛 ( も ) りし 土饅頭 ( どまんぢゆう ) の上に一片の卒塔婆を立てしのみ。里人の手向けしにや、 半 ( なかば ) 枯 ( か ) れし 野菊 ( のぎく ) の花の仆れあるも哀れなり。 四邊 ( あたり ) は斷草離離として 趾 ( あと ) を着くべき道ありとも覺えず、荒れすさぶ夜々の嵐に、ある程の木々の葉吹き落とされて、山は 面痩 ( おもや ) せ、森は 骨立 ( ほねだ ) ちて目もあてられぬ悲慘の風景、聞きしに増りて哀れなり。ああ是れぞ横笛が最後の 住家 ( すみか ) よと思へば、 流石 ( さすが ) の瀧口入道も 法衣 ( ほふえ ) の袖を 絞 ( しぼ ) りあへず、世にありし時は花の如き 艷 ( あで ) やかなる 乙女 ( をとめ ) なりしが、一旦無常の嵐に 誘 ( さそ ) はれては、いづれ 遁 ( のが ) れぬ古墳の一墓の 主 ( あるじ ) かや。そが初めの内こそ憐れと思ひて 香花 ( かうげ ) を 手向 ( たむ ) くる人もあれ、やがて星移り 歳經 ( としふ ) れば、冷え行く人の 情 ( なさけ ) に 隨 ( つ ) れて顧みる人もなく、あはれ何れをそれと知る由もなく荒れ果てなんず、思へば 果敢 ( はか ) なの吾れ人が運命や。 都大路 ( みやこおほぢ ) に世の榮華を 嘗 ( な ) め 盡 ( つく ) すも、 賤 ( しづ ) が 伏屋 ( ふせや ) に 畦 ( あぜ ) の 落穗 ( おちぼ ) を 拾 ( ひろ ) ふも、暮らすは同じ五十年の夢の朝夕。 妻子珍寶及王位 ( さいしちんぱうおよびわうゐ ) 、 命終 ( いのちをは ) る時に隨ふものはなく、 野邊 ( のべ ) より 那方 ( あなた ) の友とては、 結脈 ( けちみやく ) 一つに 珠數 ( じゆず ) 一聯のみ。之を想へば世に悲しむべきものもなし。
瀧口 衣 ( ころも ) の袖を打はらひ、墓に向つて 合掌 ( がつしやう ) して言へらく、『 形骸 ( かたち ) は 良 ( よ ) しや冷土の中に 埋 ( うづも ) れても、魂は定かに六尺の上に聞こしめされん。そもや御身と我れ、時を同うして此世に生れしは 過世 ( すぐせ ) 何の 因 ( いん ) 、何の 果 ( くわ ) ありてぞ。同じ哀れを身に 擔 ( にな ) うて、そを語らふ折もなく、世を隔て樣を異にして此の悲しむべき對面あらんとは、そも又何の 業 ( ごふ ) 、何の報ありてぞ。我は世に救ひを得て、御身は 憂 ( う ) きに心を 傷 ( やぶ ) りぬ。思へば三界の 火宅 ( くわたく ) を 逃 ( のが ) れて、聞くも嬉しき 眞 ( まこと ) の道に入りし御身の、 欣求淨土 ( ごんぐじやうど ) の一念に浮世の 絆 ( きづな ) を 解 ( と ) き得ざりしこそ恨みなれ。戀とは言はず、情とも謂はず、 遇 ( あ ) ふや 柳因 ( りういん ) 、 別 ( わか ) るゝや 絮果 ( ぢよくわ ) 、いづれ迷は同じ 流轉 ( るてん ) の 世事 ( せじ ) 、今は言ふべきことありとも覺えず。只々此上は 夜毎 ( よごと ) の 松風 ( まつかぜ ) に 御魂 ( みたま ) を 澄 ( すま ) されて、 未來 ( みらい ) の 解脱 ( げだつ ) こそ 肝要 ( かんえう ) なれ。仰ぎ願くは三世十方の諸佛、 愛護 ( あいご ) の 御手 ( おんて ) を垂れて 出離 ( しゆつり ) の道を得せしめ給へ。 過去精麗 ( くわこしやうりやう ) 、 出離生死 ( しゆつりしやうじ ) 、 證大菩提 ( しようだいぼだい ) 』。 生 ( い ) ける人に向へるが如く言ひ了りて、暫し默念の眼を閉ぢぬ。花の 本 ( もと ) の半日の 客 ( かく ) 、月の前の一夜の友も、名殘は惜しまるゝ習ひなるに、一向所感の身なれば、先の世の法縁も淺からず思はれ、 流石 ( さすが ) の瀧口、 限 ( かぎ ) りなき感慨 胸 ( むね ) に 溢 ( あふ ) れて、 轉々 ( うたゝ ) 今昔 ( こんじやく ) の 情 ( じやう ) に堪へず。今かゝる哀れを見んことは、神ならぬ身の知る由もなく、嵯峨の奧に 夜半 ( よは ) かけて迷ひ來りし時は我れ情なくも 門 ( かど ) をば 開 ( あ ) けざりき。恥をも名をも思ふ 遑 ( いとま ) なく、樣を變へ身を殺す迄の哀れの深さを思へば、我れこそ中々に罪深かりけれ。あゝ横笛、花の如き姿 今 ( いま ) いづこにある、 菩提樹 ( ぼだいじゆ ) の 蔭 ( かげ ) 、 明星 ( みやうじやう ) 額 ( ひたひ ) を 照 ( て ) らす 邊 ( ほとり ) 、 耆闍窟 ( ぎしやくつ ) の 中 ( うち ) 、 香烟 ( かうえん ) 肘 ( ひぢ ) を 繞 ( めぐ ) るの前、昔の夢を 空 ( あだ ) と見て、猶ほ我ありしことを思へるや否。逢ひ見しとにはあらなくに、別れ 路 ( ぢ ) つらく覺ゆることの、我れながら 訝 ( いぶか ) しさよ。思ひ胸に迫りて、 吁々 ( あゝ ) と 吐 ( は ) く 太息 ( といき ) に覺えず我れに 還 ( かへ ) りて 首 ( かうべ ) を 擧 ( あ ) ぐれば日は 半 ( なかば ) 西山 ( せいざん ) に入りて、峰の松影色黒み、 落葉 ( おちば ) を 誘 ( さそ ) ふ谷の嵐、夕ぐれ寒く身に 浸 ( し ) みて、ばら/\と顏打つものは露か 時雨 ( しぐれ ) か。
瀧口入道
高山樗牛 (Takiguchi nyudo) | ||