University of Virginia Library

第十三

 月より外に立聞ける人ありとも知らで、件の侍は聲 ( ひそ ) ませて、『いかに 冷泉 ( れいぜい ) 折重 ( をりかさ ) ねし 薄樣 ( うすやう ) は薄くとも、こめし哀れは此秋よりも深しと覺ゆるに、彼の君の 氣色 ( けしき ) は如何なりしぞ。夜毎の月も數へ盡して、 ( まどか ) なる影は二度まで見たるに、身の願の滿たん日は何れの頃にや。頼み甲斐なき 懸橋 ( かけはし ) よ』。

 怨みの言葉を言はせも敢へず、老女は ( まば ) らなる 齒莖 ( はぐき ) を顯はしてホヽと 打笑 ( うちゑ ) み、『 ( ) りとは戀する御身にも似合はぬ事を。此の冷泉に 如才 ( じよさい ) は露なけれども、まだ都慣れぬ彼の君なれば、御身が事 可愛 ( いと ) しとは思ひながら、返す言葉のはしたなしと思はれんなど思ひ煩うてお ( ) すにこそ、咲かぬ ( うち ) こそ莟ならずや』。言ひつゝツと男の傍に立寄りて耳に口よせ、何事か暫し ( さゝや ) きしが、 一言毎 ( ひとことごと ) 點頭 ( うなづ ) きて ( ひやゝ ) かに打笑める男の肩を輕く叩きて、『お ( わか ) りになりしや、其時こそは此の 老婆 ( ばゞ ) にも、秋にはなき梶の葉なれば、渡しの ( しろ ) は忘れ給ふな、世にも憎きほど羨ましき二郎ぬしよ』。男は打笑ふ老女の袂を引きて、『そは誠か、時頼めはいよ/\思ひ切りしとか』。

 己れが名を聞きて、松影に潛める瀧口は愈々耳を澄しぬ。老女『此春より引きも切らぬ文の、此の二十日計りはそよとだに音なきは、言はでも ( ) るき、 ( あだ ) なる戀と思ひ絶えしにあんなれ。何事も此の 老婆 ( ばゞ ) に任せ給へ、又しても 心元 ( こゝろもと ) なげに見え給ふことの恨めしや、今こそ 枯技 ( かれえだ ) に雪のみ積れども、鶯鳴かせし昔もありし老婆、 ( よろづ ) 拔目 ( ぬけめ ) のあるべきや』。袖もて口を ( おほ ) ひ、さなきだに繁き額の皺を集めて、ホヽと打笑ふ樣、見苦しき事言はん方なし。

 後の日を約して小走りに歸り行く男の影をつく/″\見送りて、瀧口は枯木の如く立ちすくみ、何處ともなく見詰むる眼の光 ( たゞ ) ならず。『二郎、二郎とは 何人 ( なんびと ) ならん』。獨りごちつゝ首傾けて暫し思案の ( さま ) なりしが、忽ち 眉揚 ( まゆあが ) 眼鋭 ( まなこするど ) く『さては』とばかり、 面色 ( めんしよく ) 見る/\變りて握り詰めし拳ぶる/\と震ひぬ。何に驚きてか、垣根の蟲、 ( はた ) と泣き止みて、空に 時雨 ( しぐ ) るゝ落葉 ( ) る響だにせず。 ( やゝ ) ありて瀧口、顏色 ( やは ) らぎて握りし拳も ( おのづか ) ら緩み、只々 太息 ( といき ) のみ深し。『何事も今の身には還らぬ夢の、恨みもなし。友を賣り人を詐る末の世と思へば、我が爲に善知識ぞや、誠なき人を戀ひしも浮世の習と思へば少しも腹立たず』。

 立上りつゝ 築垣 ( ついがき ) 那方 ( あなた ) を見やれば、琴の ( ) ( かす ) かに聞ゆ。月を友なる怨聲は、若しや我が慕ひてし人にもやと思へば、一 ( ) の哀れ ( おのづか ) ら催されて、ありし昔は 流石 ( さすが ) ( あだ ) ならず、あはれ、よりても合はぬ 片絲 ( かたいと ) の我身の ( うん ) は是非もなし。只々塵の世に我が思ふ人の ( とこしな ) へに ( けが ) れざれ。戀に望みを失ひても、世を 果敢 ( はか ) なみし心の願、優に貴し。

 千緒萬端の胸の思ひを一念「無常」の熔爐に ( ) かし去りて、澄む月に比べん心の明るさ。何れ終りは同じ紙衣玉席、白骨を抱きて榮枯を計りし昔の ( ゆめ ) 、觀じ來れば世に秋風の哀れもなし。君も、父も、戀も、 ( なさけ ) も、さては世に 産聲 ( うぶごゑ ) 擧げてより二十三年の旦夕に疊み上げ折重ねし一切の衆縁、六尺の皮肉と共に 夜半 ( よは ) の嵐に吹き籠めて、行衞も知らぬ雲か煙。跡には秋深く 夜靜 ( しづか ) にして、亙る ( かりがね ) の聲のみ高し。