University of Virginia Library

第三

 當時小松殿の侍に 齋藤瀧口 ( さいとうのたきぐち ) 時頼と云ふ武士ありけり。父は左衞門 茂頼 ( もちより ) とて、 齡古稀 ( よはひこき ) に餘れる 老武者 ( おいむしや ) にて、壯年の頃より數ケ所の戰場にて 類稀 ( たぐひまれ ) なる 手柄 ( てがら ) を顯はししが、今は年老たれば其子の行末を頼りに殘年を樂みける。小松殿は其功を ( ) で給ひ、時頼を瀧口の侍に取立て、 數多 ( あまた ) の侍の中に殊に恩顧を給はりける。

 時頼 ( ) の時年二十三、 ( せい ) 濶達にして身の ( たけ ) 六尺に近く、筋骨飽くまで ( たくま ) しく、早く母に別れ、武骨一邊の父の 膝下 ( ひざもと ) に養はれしかば、朝夕 ( みゝ ) にせしものは名ある武士が先陣 拔懸 ( ぬけが ) けの ( ほまれ ) れある 功名談 ( こうみやうばなし ) にあらざれば、弓箭甲冑の 故實 ( こじつ ) 髻垂 ( もとどりた ) れし幼時より ( つるぎ ) の光、 ( ゆづる ) の響の裡に人と爲りて、浮きたる世の 雜事 ( ざれごと ) は刀の ( つか ) の塵程も知らず、 美田 ( みた ) の源次が 堀川 ( ほりかは ) の功名に ( うつゝ ) ( ) かして 赤樫 ( あかがし ) の木太刀を振り舞はせし十二三の昔より、 空肱撫 ( からひぢな ) でて長劒の輕きを ( かこ ) つ二十三年の春の 今日 ( けふ ) まで、世に畏ろしきものを見ず、 出入 ( いでい ) る息を ( のぞ ) きては、六尺の ( からだ ) 、何處を膽と分つべくも見えず、實に 保平 ( ほうへい ) の昔を其儘の六波羅武士の模型なりけり。 ( ) れば小松殿も時頼を 末頼母 ( すゑたのも ) しきものに思ひ、行末には御子維盛卿の 附人 ( つきびと ) になさばやと常々目を懸けられ、左衞門が 伺候 ( しこう ) の折々に『茂頼、 其方 ( そち ) は善き ( せがれ ) を持ちて 仕合者 ( しあはせもの ) ぞ』と仰せらるゝを、七十の老父、 ( まが ) りし背も ( ) らん計りにぞ嬉しがりける。

 時は 治承 ( ぢしよう ) の春、世は平家の盛、そも 天喜 ( てんぎ ) 康平 ( かうへい ) 以來九十年の 春秋 ( はるあき ) 、都も ( ひな ) も打ち靡きし源氏の 白旗 ( しらはた ) も、 保元 ( ほうげん ) 平治 ( へいぢ ) の二度の ( いくさ ) を都の名殘に、脆くも武門の哀れを東海の隅に留めしより、六十餘州に到らぬ ( くま ) なき平家の權勢、 ( おご ) るもの久しからずとは驕れるもの如何で知るべき。 養和 ( やうわ ) の秋、富士河の 水禽 ( みづとり ) も、まだ 一年 ( ひととせ ) ( ) ぬ夢なれば、一門の 公卿殿上人 ( こうけいてんじやうびと ) は言はずもあれ、上下の武士 何時 ( いつ ) しか 文弱 ( ぶんじやく ) ( ながれ ) ( ) みて、嘗て 丈夫 ( ますらを ) の譽に見せし向ふ疵も、いつの間にか 水鬢 ( みづびん ) ( かげ ) ( おほ ) はれて、 ( おも ) きを誇りし 圓打 ( まるうち ) 野太刀 ( のだち ) も、何時しか 銀造 ( しろがねづくり ) の細鞘に ( そり ) を打たせ、清らなる 布衣 ( ほい ) の下に 練貫 ( ねりぬき ) の袖さへ見ゆるに、弓矢持つべき手に管絃の 調 ( しらべ ) とは、言ふもうたてき事なりけり。

 時頼 ( ) の有樣を觀て 熟々 ( つら/\ ) 思ふ ( やう ) 、扨も心得ぬ六波羅武士が 擧動 ( ふるまひ ) かな、父なる人、祖父なる人は、昔知らぬ若殿原に行末短き 榮耀 ( ええう ) の夢を貪らせんとて其の膏血はよも ( そゝ ) がじ。萬一 事有 ( ことあ ) るの曉には 絲竹 ( いとたけ ) に鍛へし ( かひな ) 白金造 ( しろがねづくり ) 打物 ( うちもの ) は何程の用にか立つべき。 射向 ( いむけ ) の袖を却て覆ひに 捨鞭 ( すてむち ) のみ烈しく打ちて、笑ひを敵に殘すは ( ) のあたり見るが如し。君の御馬前に 天晴 ( あつぱれ ) 勇士の名を ( あらは ) して 討死 ( うちじに ) すべき 武士 ( ものゝふ ) が、何處に二つの命ありて、歌舞優樂の遊に ( すさ ) める所存の程こそ知られね。――弓矢の外には武士の住むべき世ありとも思はぬ一徹の時頼には、兎角 ( なげか ) はしく、 苦々 ( にが/\ ) しき事のみ耳目に觸れて、平和の世の ( なか ) 面白からず、あはれ何處にても 一戰 ( ひといくさ ) の起れかし、いでや二十餘年の風雨に鍛へし我が技倆を顯はして、日頃我れを 武骨物 ( ぶこつもの ) と嘲りし優長武士に 一泡 ( ひとあわ ) 吹かせんずと思ひけり。衆人醉へる中に獨り醒むる者は ( ) れられず、斯かる氣質なれば時頼は ( おのづ ) から 儕輩 ( ひと/″\ ) ( うとん ) ぜられ、瀧口時頼とは武骨者の 異名 ( いみやう ) よなど嘲り合ひて、 時流外 ( なみはづ ) れに粗大なる布衣を着て 鐵卷 ( くろがねまき ) の丸鞘を 鴎尻 ( かもめじり ) ( よこた ) へし 後姿 ( うしろすがた ) を、蔭にて ( ゆびさ ) し笑ふ者も少からざりし。

            *        *

       *        *

 西八條の花見の宴に時頼も ( つらな ) りけり。其夜 更闌 ( かうた ) けて家に歸り、其の翌朝は常に似ず朝日影 ( まど ) に差込む頃やうやく 臥床 ( ふしど ) を出でしが、顏の色少しく 蒼味 ( あをみ ) を帶びたり、 終夜 ( よもすがら ) 眠らでありしにや。

 此夜、御所の溝端に人跡絶えしころ、中宮の御殿の前に月を負ひて歩むは、 ( まが ) ふ方なく先の夜に老女を捉へて横笛が名を尋ねし武士なり。物思はしげに御門の邊を行きつ戻りつ、月の光に振向ける顏見れば、まさしく齋藤瀧口時頼なりけり。