瀧口入道
高山樗牛 (Takiguchi nyudo) | ||
第二十四
其の年の秋の暮つかた、小松の内大臣重盛、 豫 ( かね ) ての 所勞 ( しよらう ) 重 ( おも ) らせ給ひ、御年四十三にて薨去あり。一門の人々、思顧の 侍 ( さむらひ ) は言ふも更なり、都も鄙もおしなべて、 悼 ( いた ) み 惜 ( を ) しまざるはなく、町家は商を休み、農夫は業を廢して 哀號 ( あいがう ) の 聲 ( こゑ ) 到る處に 充 ( み ) ちぬ。 入道相國 ( にふだうしやうこく ) が 非道 ( ひだう ) の 擧動 ( ふるまひ ) に 御恨 ( おんうら ) みを含みて時の 亂 ( みだれ ) を願はせ給ふ 法住寺殿 ( ほふぢゆうじでん ) の 院 ( ゐん ) と、三代の無念を呑みて 只 ( ひた ) すら時運の熟すを待てる源氏の殘黨のみ、 内府 ( ないふ ) が 遠逝 ( ゑんせい ) を喜べりとぞ聞えし。
士は己れを知れる者の爲に死せんことを願ふとかや。今こそ 法體 ( ほつたい ) なれ、ありし昔の瀧口が 此君 ( このきみ ) の 御爲 ( おんため ) ならばと誓ひしは 天 ( あめ ) が下に小松殿 只 ( たゞ ) 一人。 父祖 ( ふそ ) 十代の 御恩 ( ごおん ) を集めて此君一人に 報 ( かへ ) し參らせばやと、風の 旦 ( あした ) 、雪の 夕 ( ゆふべ ) 、 蛭卷 ( ひるまき ) のつかの 間 ( ま ) も忘るゝ 隙 ( ひま ) もなかりしが、思ひもかけぬ世の 波風 ( なみかぜ ) に、身は嵯峨の奧に吹き寄せられて、二十年來の 志 ( こゝろざし ) も皆 空事 ( そらごと ) となりにける。世に望みなき身ながらも、我れから好める斯かる身の上の君の 思召 ( おぼしめし ) の如何あらんと、 折々 ( をり/\ ) 思ひ出だされては 流石 ( さすが ) に 心苦 ( こゝろぐる ) しく、只々長き 將來 ( ゆくすゑ ) に 覺束 ( おぼつか ) なき 機會 ( きくわい ) を頼みしのみ。小松殿 逝去 ( せいきよ ) と聞きては、それも 協 ( かな ) はず、 御名殘 ( おんなごり ) 今更 ( いまさら ) に 惜 ( を ) しまれて、其日は一日 坊 ( ばう ) に 閉籠 ( とぢこも ) りて、内府が平生など思ひ出で、
※向三昧 ( ゑかうざんまい ) に餘念なく、夜に入りては讀經の聲いと 蕭 ( しめ ) やかなりし。先には横笛、深草の里に哀れをとゞめ、今は小松殿、盛年の御身に世をかへ給ふ。彼を思ひ是を思ふに、身一つに 降 ( ふ ) りかゝる 憂 ( う ) き事の露しげき 今日 ( けふ ) 此ごろ、瀧口三 衣 ( え ) の袖を絞りかね、 法體 ( ほつたい ) の 今更 ( いまさら ) 遣瀬 ( やるせ ) なきぞいぢらしき。 實 ( げ ) にや縁に從つて一念 頓 ( とみ ) に 事理 ( じり ) を悟れども、 曠劫 ( くわうごふ ) の 習氣 ( しふき ) は一朝一夕に 淨 ( きよ ) むるに由なし。 變相殊體 ( へんさうしゆたい ) に身を苦しめて、 有無流轉 ( うむるてん ) と 觀 ( くわん ) じても、猶ほ此世の悲哀に 離 ( はな ) れ得ざるぞ是非もなき。
徳を以て、 將 ( はた ) 人を以て、柱とも石とも頼まれし小松殿、世を去り給ひしより、誰れ言ひ合はさねども、心ある者の心にかゝるは、同じく平家の行末なり。 四方 ( よも ) の 波風靜 ( なみかぜしづか ) にして、世は 盛 ( さか ) りとこそは見ゆれども、入道相國が多年の非道によりて、天下の望み 已 ( すで ) に離れ、敗亡の機はや熟してぞ見えし。今にも 蛭 ( ひる ) が 小島 ( こじま ) の頼朝にても、 筑波 ( つくば ) おろしに 旗揚 ( はたあ ) げんには、源氏譜代の恩顧の士は言はずもあれ、 苟 ( いやしく ) も志を當代に得ず、怨みを 平家 ( へいけ ) に 銜 ( ふく ) める者、響の如く應じて關八州は日ならず平家の 有 ( もの ) に非ざらん。萬一斯かる事あらんには、大納言殿(宗盛)は兄の内府にも似ず、 暗弱 ( あんじやく ) の 性質 ( うまれつき ) なれば、 素 ( もと ) より物の用に立つべくもあらず。御子 三位 ( さんみ ) の中將殿(維盛)は 歌道 ( かだう ) より外に 何長 ( なにちやう ) じたる事なき御身なれば、 紫宸殿 ( ししいでん ) の階下に 源家 ( げんけ ) の 嫡流 ( ちやくりう ) と 相挑 ( あひいど ) みし父の 卿 ( きやう ) の勇膽ありとしも覺えず。 頭 ( とう ) の中將殿(重衡)も 管絃 ( くわんげん ) の 奏 ( しらべ ) こそ 巧 ( たく ) みなれ、千軍萬馬の間に立ちて 采配 ( さいはい ) とらん 器 ( うつは ) に非ず。只々數多き 公卿 ( くげ ) 殿上人 ( てんじやうびと ) の中にて、 知盛 ( とももり ) 、 教經 ( のりつね ) の二人こそ 天晴 ( あつぱれ ) 未來事 ( みらいこと ) ある時の大將軍と覺ゆれども、これとても 螺鈿 ( らでん ) の 細太刀 ( ほそだち ) に 風雅 ( ふうが ) を誇る六波羅上下の武士を如何にするを得べき。中には 越中次郎兵衞盛次 ( ゑつちゆうのじらうびやうゑもりつぐ ) 、上總五郎兵衞忠光、 惡七兵衞景清 ( あくしちびやうゑかげきよ ) なんど、名だたる 剛者 ( がうのもの ) なきにあらねど、言はば之れ 匹夫 ( ひつぷ ) の 勇 ( ゆう ) にして、 大勢 ( たいせい ) に於て 元 ( もと ) より 益 ( えき ) する所なし。思へば 風前 ( ふうぜん ) の 燈 ( ともしび ) に似たる平家の運命かな。一門 上下 ( しやうか ) 花 ( はな ) に 醉 ( ゑ ) ひ、月に 興 ( きやう ) じ、 明日 ( あす ) にも 覺 ( さ ) めなんず榮華の夢に、 萬代 ( よろづよ ) かけて行末祝ふ、武運の程ぞ淺ましや。
入道ならぬ元の瀧口は平家の武士。 忍辱 ( にんにく ) の衣も主家興亡の夢に 襲 ( おそ ) はれては、今にも 掃魔 ( さうま ) の 堅甲 ( けんかふ ) となりかねまじき 風情 ( ふぜい ) なり。
瀧口入道
高山樗牛 (Takiguchi nyudo) | ||