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高山樗牛 (Takiguchi nyudo) | ![]() |
第十八
女子 ( をなご ) こそ世に 優 ( やさ ) しきものなれ。戀路は 六 ( む ) つに變れども、思ひはいづれ一つ魂に 映 ( うつ ) る哀れの影とかや。つれなしと見つる浮世に 長生 ( ながら ) へて、朝顏の 夕 ( ゆふべ ) を竣たぬ身に 百年 ( もゝとせ ) の 末懸 ( すゑか ) けて、 覺束 ( おぼつか ) なき 朝夕 ( あさゆふ ) を過すも胸に包める情の露のあればなり。戀かあらぬか、女子の 命 ( いのち ) はそも何に喩ふべき。人知らぬ思ひに心を 傷 ( やぶ ) りて、あはれ 一山風 ( ひとやまかぜ ) に跡もなき 東岱 ( とうたい ) 前後 ( ぜんご ) の烟と立ち昇るうら 弱 ( わか ) き 眉目好 ( みめよ ) き 處女子 ( むすめ ) は、 年毎 ( としごと ) に幾何ありとするや。世の 隨意 ( まゝ ) ならぬは是非もなし、只ゝいさゝ川、底の流れの通ひもあらで、人はいざ、我れにも語らで、世を 果敢 ( はか ) なむこそ浮世なれ。
然 ( さ ) れば横笛、我れ故に武士一人に世を捨てさせしと思へば、 乙女心 ( をとめごゝろ ) の一徹に思ひ返さん 術 ( すべ ) もなく、此の朝夕は只々泣き暮らせども、影ならぬ身の失せもやらず、せめて嵯峨の奧にありと聞く瀧口が庵室に 訪 ( おとづ ) れて我が誠の心を 打明 ( うちあ ) かさばやと、さかしくも思ひ 決 ( さだ ) めつ。 誰彼時 ( たそがれどき ) に 紛 ( まぎ ) れて只々一人、うかれ出でけるこそ 殊勝 ( しゆしよう ) なれ。
頃は 長月 ( ながつき ) の 中旬 ( なかば ) すぎ、入日の影は雲にのみ殘りて野も出も 薄墨 ( うすずみ ) を流せしが如く、 月未 ( つきいま ) だ 上 ( のぼ ) らざれば、星影さへも 最 ( い ) と稀なり。 袂 ( たもと ) に寒き 愛宕下 ( おたぎおろ ) しに秋の哀れは 一入 ( ひとしほ ) 深く、まだ露 下 ( お ) りぬ 野面 ( のもせ ) に、我が袖のみぞ早や 沾 ( うるほ ) ひける。 右近 ( うこん ) の馬場を 右手 ( めて ) に見て、何れ昔は 花園 ( はなぞの ) の里、 霜枯 ( しもが ) れし 野草 ( のぐさ ) を心ある身に踏み 摧 ( しだ ) きて、 太秦 ( うづまさ ) わたり 辿 ( たど ) り行けば、 峰岡寺 ( みねをかでら ) の五輪の塔、 夕 ( ゆふべ ) の空に形のみ見ゆ。やがて月は 上 ( のぼ ) りて桂の川の 水烟 ( みづけぶり ) 、山の 端白 ( はしろ ) く 閉罩 ( とぢこ ) めて、尋ぬる方は朧ろにして見え 分 ( わ ) かず。 素 ( もと ) より慣れぬ 徒歩 ( かち ) なれば、 數 ( あまた ) たび或は里の子が 落穗 ( おちぼ ) 拾はん 畔路 ( あぜみち ) にさすらひ、或は露に伏す 鶉 ( うづら ) の 床 ( とこ ) の 草村 ( くさむら ) に 立迷 ( たちまよ ) うて、絲より細き蟲の 音 ( ね ) に、覺束なき行末を 喞 ( かこ ) てども、問ふに聲なき影ばかり。名も 懷 ( なつか ) しき 梅津 ( うめづ ) の里を過ぎ、 大堰川 ( おほゐがは ) の 邊 ( ほとり ) を 沿 ( そ ) ひ行けば、 河風寒 ( かはかぜさむ ) く身に 染 ( し ) みて、月影さへもわびしげなり。裾は露、袖は涙に 打蕭 ( うちしを ) れつ、霞める眼に見渡せば、嵯峨野も 何時 ( いつ ) しか奧になりて、 小倉山 ( をぐらやま ) の峰の 紅葉 ( もみぢば ) 、月に 黒 ( くろ ) みて、釋迦堂の山門、 木立 ( こだち ) の間に 鮮 ( あざやか ) なり。噂に聞きしは嵯峨の奧とのみ、何れの院とも坊とも知らざれば、何を 便 ( たより ) に尋ぬべき、 燈 ( ともしび ) の光を 的 ( あて ) に、 數 ( かず ) もなき 在家 ( ざいけ ) を 彼方 ( あなた ) 此方 ( こなた ) に 彷徨 ( さまよ ) ひて問ひけれども、絶えて知るものなきに、愈々心惑ひて只々茫然と 野中 ( のなか ) に 彳 ( たゝず ) みける。折から向ふより庵僧とも覺しき 一個 ( ひとり ) の僧の通りかゝれるに、横笛、 渡 ( わたり ) に舟の思ひして、『 慮外 ( りよぐわい ) ながら此のわたりの 庵 ( いほり ) に、近き頃 樣 ( さま ) を 變 ( か ) へて都より來られし、 俗名 ( ぞくみやう ) 齋藤時頼と 名告 ( なの ) る 年壯 ( としわか ) き武士のお 在 ( は ) さずや』。 聲震 ( こゑふる ) はして尋ぬれば、件の僧は、横笛が姿を見て 暫 ( しば ) し 首傾 ( くびかたむ ) けしが、『露しげき野を 女性 ( によしやう ) の唯々一人、さても/\痛はしき御事や。げに 然 ( さ ) る人ありとこそ聞きつれど、まだ其人に遇はざれば、御身が尋ぬる人なりや、否やを知りがたし』。『して其人は 何處 ( いづこ ) にお 在 ( は ) する』。『そは 此處 ( こゝ ) より程 遠 ( とほ ) からぬ 往生院 ( わうじやうゐん ) と 名 ( なづ ) くる古き僧庵に』。
僧は 最 ( い ) と 懇 ( ねんご ) ろに道を教ふれば、横笛 世 ( よ ) に嬉しく思ひ、禮もいそ/\別れ行く 後影 ( うしろかげ ) 、鄙には見なれぬ緋の袴に、夜目にも輝く五柳の 一重 ( ひとへ ) 。件の僧は暫したヽずみて訝しげに見送れば、焚きこめし 異香 ( いきやう ) 、吹き 來 ( く ) る風に時ならぬ春を匂はするに、俄に 忌 ( いま ) はしげに 顏背 ( かほそむ ) けて 小走 ( こばし ) りに立ち去りぬ。
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