University of Virginia Library

    四七

 その夜六時すぎ、つやが来て 障子 ( しょうじ ) を開いてだんだん満ちて行こうとする月が ( かわら ) 屋根の重なりの上にぽっかりのぼったのをのぞかせてくれている時、見知らぬ看護婦が美しい花束と大きな西洋封筒に入れた手紙とを持ってはいって来てつやに渡した。つやはそれを葉子の ( まくら ) もとに持って来た。葉子はもう花も何も見る気にはなれなかった。電気もまだ来ていないのでつやにその手紙を読ませてみた。つやは薄明りにすかしすかし読みにくそうに文字を拾った。

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 「あなたが手術のために入院なさった事を岡君から聞かされて驚きました。で、きょうが外出日であるのを幸いにお見舞いします。

 「 ( ぼく ) はあなたにお目にかかる気にはなりません。僕はそれほど偏狭に出来上がった人間です。けれども僕はほんとうにあなたをお気の毒に思います。倉地という人間が日本の軍事上の秘密を外国にもらす商売に関係した事が知れるとともに、姿を隠したという報道を新聞で見た時、僕はそんなに驚きませんでした。しかし倉地には 二人 ( ふたり ) ほどの 外妾 ( がいしょう ) があると付け加えて書いてあるのを見て、ほんとうにあなたをお気の毒に思いました。この手紙を皮肉に取らないでください。 ( ぼく ) には皮肉はいえません。

 「僕はあなたが失望なさらないように祈ります。僕は来週の月曜日から 習志野 ( ならしの ) のほうに演習に行きます。木村からのたよりでは、彼は窮迫の絶頂にいるようです。けれども木村はそこを突き抜けるでしょう。

 「花を持って来てみました。お大事に。

                                 古 藤 生」

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 つやはつかえつかえそれだけを読み終わった。始終古藤をはるか年下な子供のように思っている葉子は、一種 侮蔑 ( ぶべつ ) するような無感情をもってそれを聞いた。倉地が 外妾 ( がいしょう ) 二人 ( ふたり ) 持ってるといううわさは初耳ではあるけれども、それは新聞の記事であってみればあて[#「あて」に傍点]にはならない。その外妾二人というのが、美人屋敷と評判のあったそこに住む自分と愛子ぐらいの事を想像して、記者ならばいいそうな事だ。ただそう軽くばかり思ってしまった。

 つやがその花束をガラスびんにいけて、なんにも飾ってない床の上に置いて行ったあと、葉子は前同様にハンケチを顔にあてて、機械的に働く心の影と戦おうとしていた。

 その時突然死が――死の問題ではなく――死がはっきり[#「はっきり」に傍点]と葉子の心に立ち現われた。もし手術の結果、子宮底に 穿孔 ( せんこう ) ができるようになって腹膜炎を起こしたら、命の助かるべき見込みはないのだ。そんな事をふと思い起こした。 部屋 ( へや ) の姿も自分の心もどこといって特別に変わったわけではなかったけれども、どことなく葉子の周囲には確かに死の影がさまよっているのをしっかりと感じないではいられなくなった。それは葉子が生まれてから夢にも経験しない事だった。これまで葉子が死の問題を考えた時には、どうして死を招き寄せようかという事ばかりだった。しかし今は死のほうがそろそろと近寄って来ているのだ。

 月はだんだん光を増して行って、電灯に ( ) もともっていた。目の先に見える屋根の間からは、炊煙だか、 蚊遣 ( かや ) ( ) だかがうっすらと水のように澄みわたった空に消えて行く。 ( ) ( もの ) 、車馬の類、汽笛の音、うるさいほどの人々の話し声、そういうものは葉子の部屋をいつものとおり取り巻きながら、そして部屋の中はとにかく 整頓 ( せいとん ) して ( ) がともっていて、少しの不思議もないのに、どことも知れずそこには死がはい寄って来ていた。

 葉子はぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]として、血の代わりに心臓の中に氷の水を ( そそ ) ぎこまれたように思った。死のうとする時はとうとう葉子には来ないで、思いもかけず死ぬ時が来たんだ。今までとめどなく流していた涙は、近づくあらしの前のそよ風のようにどこともなく姿をひそめてしまっていた。葉子はあわてふためいて、大きく目を見開き、鋭く耳をそびやかして、そこにある物、そこにある響きを捕えて、それにすがり付きたいと思ったが、目にも耳にも何か感ぜられながら、何が何やら少しもわからなかった。ただ感ぜられるのは、心の中がわけもなくただわくわくとして、すがりつくものがあれば何にでもすがりつきたいと 無性 ( むしょう ) にあせっている、その目まぐるしい欲求だけだった。葉子は震える手で ( まくら ) をなで回したり、シーツをつまみ上げてじっ[#「じっ」に傍点]と握り締めてみたりした。冷たい油汗が手のひらににじみ出るばかりで、握ったものは何の力にもならない事を知った。その失望は形容のできないほど大きなものだった。葉子は一つの努力ごとにがっかり[#「がっかり」に傍点]して、また懸命にたよりになるもの、根のあるようなものを追い求めてみた。しかしどこをさがしてみてもすべての努力が全くむだなのを心では本能的に知っていた。

 周囲の世界は少しのこだわり[#「こだわり」に傍点]もなくずるずると平気で日常の営みをしていた。看護婦が 草履 ( ぞうり ) で廊下を歩いて行く、その音一つを考えてみても、そこには明らかに生命が見いだされた。その足は確かに廊下を踏み、廊下は ( いしずえ ) に続き、礎は大地に ( ) えられていた。患者と看護婦との間に取りかわされる言葉一つにも、それを与える人と受ける人とがちゃん[#「ちゃん」に傍点]と大地の上に存在していた。しかしそれらは奇妙にも葉子とは全く無関係で没交渉だった。葉子のいる所にはどこにも底がない事を知らねばならなかった。深い谷に誤って落ち込んだ人が落ちた瞬間に感ずるあの焦躁……それが連続してやむ時なく葉子を襲うのだった。深さのわからないような暗い ( やみ ) が、葉子をただ 一人 ( ひとり ) まん中に据えておいて、果てしなくそのまわりを包もうと静かに静かに近づきつつある。葉子は少しもそんな事を欲しないのに、葉子の心持ちには 頓着 ( とんじゃく ) なく、休む事なくとどまる事なく、 悠々 ( ゆうゆう ) 閑々として近づいて来る。葉子は恐ろしさにおびえて声も ( ) 上げなかった。そしてただそこからのがれ出たい一心に心ばかりがあせりにあせった。

 もうだめだ、力が尽き切ったと、観念しようとした時、しかし、その奇怪な死は、すうっ[#「すうっ」に傍点]と朝霧が晴れるように、葉子の周囲から消えうせてしまった。見た所、そこには何一つ変わった事もなければ変わった物もない。ただ夏の ( ゆうべ ) が涼しく夜につながろうとしているばかりだった。葉子はきょとん[#「きょとん」に傍点]として ( ひさし ) の下に水々しく漂う月を見やった。

 ただ不思議な変化の起こったのは心ばかりだった。 荒磯 ( あらいそ ) に波また波が千変万化して追いかぶさって来ては激しく打ちくだけて、まっ白な 飛沫 ( ひまつ ) を空高く突き上げるように、これといって取り留めのない執着や、憤りや、悲しみや、恨みやが 蛛手 ( くもで ) によれ合って、それが自分の周囲の人たちと結び付いて、わけもなく葉子の心をかきむしっていたのに、その夕方の不思議な経験のあとでは、一筋の透明なさびしさだけが秋の水のように果てしもなく流れているばかりだった。不思議な事には寝入っても忘れきれないほどな頭脳の激痛も ( あと ) なくなっていた。

 神がかりにあった人が神から見放された時のように、葉子は深い肉体の疲労を感じて、寝床の上に打ち伏さってしまった。そうやっていると自分の過去や現在が手に取るようにはっきり[#「はっきり」に傍点]考えられ出した。そして冷ややかな悔恨が泉のようにわき出した。

 「間違っていた……こう世の中を歩いて来るんじゃなかった。しかしそれはだれの罪だ。わからない。しかしとにかく自分には後悔がある。できるだけ、生きてるうちにそれを償っておかなければならない」

 内田の顔がふと葉子には思い出された。あの厳格なキリストの教師ははたして葉子の所に尋ねて来てくれるかどうかわからない。そう思いながらも葉子はもう一度内田にあって話をしたい心持ちを止める事ができなかった。

 葉子は ( まくら ) もとのベルを押してつやを呼び寄せた。そして手文庫の中から洋紙でとじた手帳を取り出さして、それに毛筆で葉子のいう事を書き取らした。

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 「木村さんに。

 「わたしはあなたを ( いつわ ) っておりました。わたしはこれから他の男に嫁入ります。あなたはわたしを忘れてくださいまし。わたしはあなたの所に行ける女ではないのです。あなたのお思い違いを充分御自分で調べてみてくださいまし。

 「倉地さんに。

 「わたしはあなたを死ぬまで。けれども 二人 ( ふたり ) とも間違っていた事を今はっきり[#「はっきり」に傍点]知りました。死を見てから知りました。あなたにはおわかりになりますまい。わたしは何もかも恨みはしません。あなたの奥さんはどうなさっておいでです。……わたしは一緒に泣く事ができる。

 「内田のおじさんに。

 「わたしは今夜になっておじさんを思い出しました。おば様によろしく。

 「 木部 ( きべ ) さんに。

 「 一人 ( ひとり ) の老女があなたの所に女の子を連れて参るでしょう。その子の顔を見てやってくださいまし。

 「愛子と貞世に。

 「愛さん、 ( さあ ) ちゃん、もう一度そう呼ばしておくれ。それでたくさん。

 「岡さんに。

 「わたしはあなたをも ( おこ ) ってはいません。

 「古藤さんに。

 「お花とお手紙とをありがとう。あれからわたしは死を見ました。

                            七月二十一日  葉子」

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 つやはこんなぽつり[#「ぽつり」に傍点]ぽつりと短い葉子の言葉を書き取りながら、時々 怪訝 ( けげん ) な顔をして葉子を見た。葉子の口びるはさびしく震えて、目にはこぼれない程度に涙がにじみ出していた。

 「もうそれでいいありがとうよ。あなただけね、こんなになってしまったわたしのそばにいてくれるのは。……それだのに、わたしはこんなに零落した姿をあなたに見られるのがつらくって、来た日は途中からほかの病院に行ってしまおうかと思ったのよ。ばかだったわね」

 葉子は口ではなつかしそうに笑いながら、ほろほろと涙をこぼしてしまった。

 「それをこの ( まくら ) の下に入れておいておくれ。今夜こそはわたし久しぶりで安々とした心持ちで寝られるだろうよ、あすの手術に疲れないようによく寝ておかないといけないわね。でもこんなに弱っていても手術はできるのかしらん……もう 蚊帳 ( かや ) をつっておくれ。そしてついでに寝床をもっとそっちに引っぱって行って、月の光が顔にあたるようにしてちょうだいな。戸は寝入ったら引いておくれ。……それからちょっとあなたの手をお貸し。……あなたの手は ( あたた ) かい手ね。この手はいい手だわ」

 葉子は人の手というものをこんなになつかしいものに思った事はなかった。力をこめた手でそっと[#「そっと」に傍点]抱いて、いつまでもやさしくそれをなでていたかった。つやもいつか葉子の気分に引き入れられて、鼻をすするまでに涙ぐんでいた。

 葉子はやがて打ち開いた障子から 蚊帳 ( かや ) 越しにうっとり[#「うっとり」に傍点]と月をながめながら考えていた。葉子の心は月の光で清められたかと見えた。倉地が自分を捨てて逃げ出すために書いた狂言が計らずその筋の 嫌疑 ( けんぎ ) を受けたのか、それとも恐ろしい売国の罪で金をすら葉子に送れぬようになったのか、それはどうでもよかった。よしんば ( めかけ ) が幾人あってもそれもどうでもよかった。ただすべてがむなしく見える中に倉地だけがただ 一人 ( ひとり ) ほんとうに生きた人のように葉子の心に住んでいた。互いを堕落させ合うような愛しかたをした、それも今はなつかしい思い出だった。木村は思えば思うほど涙ぐましい不幸な男だった。その思い入った心持ちは何事もわだかまりのなくなった葉子の胸の中を 清水 ( しみず ) のように流れて通った。多年の迫害に 復讐 ( ふくしゅう ) する時機が来たというように、岡までをそそのかして、葉子を見捨ててしまったと思われる愛子の心持ちにも葉子は同情ができた。愛子の情けに引かされて葉子を裏切った岡の気持ちはなおさらよくわかった。泣いても泣いても泣き足りないようにかわいそうなのは貞世だった。愛子はいまにきっと自分以上に恐ろしい道に踏み迷う女だと葉子は思った。その愛子のただ一人の妹として……もしも自分の命がなくなってしまった後は……そう思うにつけて葉子は内田を考えた。すべての人は何かの力で流れて行くべき先に流れて行くだろう。そしてしまいにはだれでも自分と同様に一人ぼっちになってしまうんだ。……どの人を見てもあわれまれる……葉子はそう思いふけりながら静かに静かに西に回って行く月を見入っていた。その月の輪郭がだんだんぼやけて来て、空の中に浮き漂うようになると、葉子のまつ毛の一つ一つにも月の光が宿った。涙が目じりからあふれて両方のこめかみの所をくすぐるようにする[#「する」に傍点]すると流れ下った。口の中は粘液で粘った。許すべき 何人 ( なんびと ) もない。許さるべき何事もない。ただあるがまま……ただ 一抹 ( いちまつ ) の清い悲しい静けさ。葉子の目はひとりでに閉じて行った。整った呼吸が軽く小鼻を震わして流れた。

 つやが戸をたてにそーっ[#「そーっ」に傍点]とその 部屋 ( へや ) にはいった時には、葉子は病気を忘れ果てたもののように、がたぴし[#「がたぴし」に傍点]と戸を締める音にも目ざめずに安らけく寝入っていた。