University of Virginia Library

    四二

 「おねえ様……行っちゃいやあ……」

 まるで四つか五つの幼児のように 頑是 ( がんぜ ) なくわがままになってしまった貞世の声を聞き残しながら葉子は病室を出た。おりからじめじめと降りつづいている 五月雨 ( さみだれ ) に、廊下には夜明けからの薄暗さがそのまま残っていた。白衣を着た看護婦が暗いだだっ ( ぴろ ) い廊下を、 上草履 ( うわぞうり ) の大きな音をさせながら案内に立った。十日の余も、 夜昼 ( よるひる ) の見さかいもなく、帯も解かずに看護の手を尽くした葉子は、どうかするとふらふらとなって、頭だけが五体から離れてどこともなく漂って行くかとも思うような不思議な錯覚を感じながら、それでも緊張しきった心持ちになっていた。すべての音響、すべての色彩が極度に誇張されてその感覚に触れて来た。貞世が腸チブスと診断されたその晩、葉子は担架に乗せられたそのあわれな小さな妹に付き添ってこの大学病院の隔離室に来てしまったのであるが、その時別れたなりで、倉地は一度も病院を尋ねては ( ) なかったのだ。葉子は愛子 一人 ( ひとり ) が留守する 山内 ( さんない ) の家のほうに、少し不安心ではあるけれどもいつか暇をやったつやを呼び寄せておこうと思って、宿もとにいってやると、つやはあれから看護婦を志願して 京橋 ( きょうばし ) のほうのある病院にいるという事が知れたので、やむを得ず倉地の下宿から年を取った女中を一人頼んでいてもらう事にした。病院に来てからの十日――それはきのうからきょうにかけての事のように短く思われもし、一日が一年に相当するかと疑われるほど長くも感じられた。

 その長く感じられるほうの期間には、倉地と愛子との姿が不安と 嫉妬 ( しっと ) との対照となって葉子の心の目に立ち現われた。葉子の家を預かっているものは倉地の下宿から来た女だとすると、それは倉地の犬といってもよかった。そこに一人残された愛子……長い時間の ( あいだ ) にどんな事でも起こり得ずにいるものか。そう気を回し出すと葉子は貞世の寝台のかたわらにいて、熱のために口びるがかさ[#「かさ」に傍点]かさになって、半分目をあけたまま 昏睡 ( こんすい ) しているその小さな顔を見つめている時でも、思わずかっ[#「かっ」に傍点]となってそこを飛び出そうとするような衝動に駆り立てられるのだった。

 しかしまた短く感じられるほうの期間にはただ貞世ばかりがいた。末子として両親からなめるほど 溺愛 ( できあい ) もされ、葉子の唯一の 寵児 ( ちょうじ ) ともされ、健康で、快活で、無邪気で、わがままで、病気という事などはついぞ知らなかったその子は、引き続いて父を失い、母を失い、葉子の病的な 呪詛 ( じゅそ ) の犠牲となり、突然死病に取りつかれて、夢にもうつつにも思いもかけなかった死と向かい合って、ひたすらに恐れおののいている、その姿は、千丈の谷底に続く ( がけ ) のきわに両手だけでぶら下がった人が、そこの土がぼろぼろとくずれ落ちるたびごとに、懸命になって助けを求めて泣き叫びながら、少しでも手がかりのある物にしがみつこうとするのを見るのと異ならなかった。しかもそんなはめ[#「はめ」に傍点]に貞世をおとしいれてしまったのは結局自分に責任の大部分があると思うと、葉子はいとしさ悲しさで胸も ( はらわた ) も裂けるようになった。貞世が死ぬにしても、せめては自分だけは貞世を愛し抜いて死なせたかった。貞世をかりにもいじめるとは……まるで天使のような心で自分を信じきり愛し抜いてくれた貞世をかりにも 没義道 ( もぎどう ) に取り扱ったとは……葉子は自分ながら葉子の心の ( らち ) なさ恐ろしさに悔いても悔いても及ばない悔いを感じた。そこまで ( せん ) じつめて来ると、葉子には倉地もなかった。ただ命にかけても貞世を病気から救って、貞世が元通りにつやつやしい健康に帰った時、貞世を大事に大事に自分の胸にかき ( いだ ) いてやって、

 「 ( さあ ) ちゃんお前はよくこそなおってくれたね。ねえさんを恨まないでおくれ。ねえさんはもう今までの事をみんな後悔して、これからはあなたをいつまでもいつまでも 後生 ( ごしょう ) 大事にしてあげますからね」

 としみじみと泣きながらいってやりたかった。ただそれだけの願いに固まってしまった。そうした心持ちになっていると、時間はただ矢のように飛んで過ぎた。死のほうへ貞世を連れて行く時間はただ矢のように飛んで過ぎると思えた。

 この奇怪な心の 葛藤 ( かっとう ) に加えて、葉子の健康はこの十日ほどの激しい興奮と活動とでみじめにもそこない傷つけられているらしかった。緊張の極点にいるような今の葉子にはさほどと思われないようにもあったが、貞世が死ぬかなおるかして一息つく時が来たら、どうして肉体をささえる事ができようかと危ぶまないではいられない予感がきびしく葉子を襲う瞬間は幾度もあった。

 そうした苦しみの最中に珍しく倉地が尋ねて来たのだった。ちょうど何もかも忘れて貞世の事ばかり気にしていた葉子は、この案内を聞くと、まるで生まれかわったようにその心は倉地でいっぱいになってしまった。

 病室の中から叫びに叫ぶ貞世の声が廊下まで響いて聞こえたけれども、葉子はそれには 頓着 ( とんじゃく ) していられないほどむきになって看護婦のあとを追った。歩きながら 衣紋 ( えもん ) を整えて、例の左手をあげて ( びん ) の毛を器用にかき上げながら、応接室の所まで来ると、そこはさすがにいくぶんか明るくなっていて、開き戸のそばのガラス窓の向こうに 頑丈 ( がんじょう ) な倉地と、思いもかけず岡の 華車 ( きゃしゃ ) な姿とがながめられた。

 葉子は看護婦のいるのも岡のいるのも忘れたようにいきなり[#「いきなり」に傍点]倉地に近づいて、その胸に自分の顔を ( うず ) めてしまった。何よりもかによりも長い長い間あい得ずにいた倉地の胸は、数限りもない連想に飾られて、すべての疑惑や不快を一掃するに足るほどなつかしかった。倉地の胸から触れ慣れた ( きぬ ) ざわりと、強烈な膚のにおいとが、葉子の病的に ( こう ) じた感覚を乱酔さすほどに伝わって来た。

 「どうだ、ちっとはいいか」

 「おゝこの声だ、この声だ」……葉子はかく思いながら悲しくなった。それは長い間 ( やみ ) の中に閉じこめられていたものが偶然 ( ) の光を見た時に胸を突いてわき出て来るような悲しさだった。葉子は自分の立場をことさらあわれに描いてみたい衝動を感じた。

 「だめです。貞世は、かわいそうに死にます」

 「ばかな……あなたにも似合わん、そう ( はよ ) う落胆する法があるものかい。どれ一つ見舞ってやろう」

 そういいながら倉地は先刻からそこにいた看護婦のほうに振り向いた様子だった。そこに看護婦も岡もいるという事はちゃんと知っていながら、葉子はだれもいないもののような心持ちで振る舞っていたのを思うと、自分ながらこのごろは心が狂っているのではないかとさえ疑った。看護婦は倉地と葉子との対話ぶりで、この美しい婦人の 素性 ( すじょう ) をのみ込んだというような顔をしていた。岡はさすがにつつましやかに心痛の色を顔に現わして 椅子 ( いす ) の背に手をかけたまま立っていた。

 「あゝ、岡さんあなたもわざわざお見舞いくださってありがとうございました」

 葉子は少し 挨拶 ( あいさつ ) の機会をおくらしたと思いながらもやさしくこういった。岡は ( ほお ) ( あか ) らめたまま黙ってうなずいた。

 「ちょうど今見えたもんだで御一緒したが、岡さんはここでお帰りを願ったがいいと思うが……(そういって倉地は岡のほうを見た)何しろ病気が病気ですから……」

 「わたし、貞世さんにぜひお会いしたいと思いますからどうかお許しください」

 岡は思い入ったようにこういって、ちょうどそこに看護婦が持って来た二枚の白い ( うわ ) ( ) りのうち少し古く見える一枚を取って倉地よりも先に着始めた。葉子は岡を見るともう一つのたくらみ[#「たくらみ」に傍点]を心の中で案じ出していた。岡をできるだけたびたび 山内 ( さんない ) の家のほうに遊びに行かせてやろう。それは倉地と愛子とが接触する機会をいくらかでも妨げる結果になるに違いない。岡と愛子とが互いに愛し合うようになったら……なったとしてもそれは悪い結果という事はできない。岡は病身ではあるけれども地位もあれば金もある。それは愛子のみならず、自分の将来に取っても役に立つに相違ない。……とそう思うすぐその下から、どうしても虫の ( ) かない愛子が、葉子の意志の ( もと ) にすっかり[#「すっかり」に傍点]つなぎつけられているような岡をぬすんで行くのを見なければならないのが ( つら ) 憎くも ( ねた ) ましくもあった。

 葉子は 二人 ( ふたり ) の男を案内しながら先に立った。暗い長い廊下の両側に立ちならんだ病室の中からは、呼吸困難の中からかすれたような声でディフテリヤらしい幼児の泣き叫ぶのが聞こえたりした。貞世の病室からは 一人 ( ひとり ) の看護婦が半ば身を乗り出して、 部屋 ( へや ) の中に向いて何かいいながら、しきりとこっちをながめていた。貞世の何かいい募る言葉さえが葉子の耳に届いて来た。その瞬間にもう葉子はそこに倉地のいる事なども忘れて、急ぎ足でそのほうに走り近づいた。

 「そらもう帰っていらっしゃいましたよ」

 といいながら顔を引っ込めた看護婦に続いて、飛び込むように病室にはいって見ると、貞世は乱暴にも寝台の上に起き上がって、 ( ひざ ) 小僧もあらわになるほど取り乱した姿で、手を顔にあてたままおいおいと泣いていた。葉子は驚いて寝台に近寄った。

 「なんというあなたは聞きわけのない…… ( さあ ) ちゃんその病気で、あなた、寝台から起き上がったりするといつまでもなおりはしませんよ。あなたの好きな倉地のおじさんと岡さんがお見舞いに来てくださったのですよ。はっきり[#「はっきり」に傍点]わかりますか、そら、そこを御覧、横になってから」

 そう言い言い葉子はいかにも愛情に満ちた器用な手つきで軽く貞世をかかえて床の上に ( ) かしつけた。貞世の顔は今まで盛んな運動でもしていたように美しく 活々 ( いきいき ) 紅味 ( あかみ ) がさして、ふさふさした髪の毛は少しもつれて汗ばんで額ぎわに粘りついていた。それは病気を思わせるよりも過剰の健康とでもいうべきものを思わせた。ただその両眼と口びるだけは明らかに尋常でなかった。すっかり充血したその目はふだんよりも大きくなって、 二重 ( ふたえ ) まぶたになっていた。そのひとみは熱のために燃えて、おどおどと何者かを見つめているようにも、何かを見いだそうとして尋ねあぐんでいるようにも見えた。その様子はたとえば葉子を見入っている時でも、葉子を貫いて葉子の後ろの ( かた ) はるかの所にある ( ) る者を見きわめようとあらん限りの力を尽くしているようだった。口びるは上下ともからからになって 内紫 ( うちむらさき ) という 柑類 ( かんるい ) の実をむいて 天日 ( てんぴ ) に干したようにかわいていた。それは見るもいたいたしかった。その口びるの中から高熱のために一種の臭気が呼吸のたびごとに吐き出される、その臭気が口びるの著しいゆがめかたのために、目に見えるようだった。貞世は葉子に注意されて 物惰 ( ものう ) げに少し目をそらして倉地と岡とのいるほうを見たが、それがどうしたんだというように、少しの興味も見せずにまた葉子を見入りながらせっせ[#「せっせ」に傍点]と肩をゆすって苦しげな呼吸をつづけた。

 「おねえさま……水……氷……もういっちゃいや……」

 これだけかすかにいうともう苦しそうに目をつぶってほろほろと大粒の涙をこぼすのだった。

 倉地は 陰鬱 ( いんうつ ) 雨脚 ( あまあし ) で灰色になったガラス窓を背景にして突っ立ちながら、黙ったまま不安らしく首をかしげた。岡は日ごろのめったに泣かない性質に似ず、倉地の後ろにそっ[#「そっ」に傍点]と引きそって涙ぐんでいた。葉子には後ろを振り向いて見ないでもそれが目に見るようにはっきり[#「はっきり」に傍点]わかった。貞世の事は自分 一人 ( ひとり ) で背負って立つ。よけいなあわれみはかけてもらいたくない。そんないらいらしい反抗的な心持ちさえその場合起こらずにはいなかった。過ぐる十日というもの一度も見舞う事をせずにいて、今さらその 由々 ( ゆゆ ) しげな顔つきはなんだ。そう倉地にでも岡にでもいってやりたいほど葉子の心はとげとげしくなっていた。で、葉子は後ろを振り向きもせずに、 ( はし ) の先につけた 脱脂綿 ( だっしめん ) を氷水の中に浸しては、貞世の口をぬぐっていた。

 こうやってもののやや二十分が過ぎた。飾りけも何もない板張りの病室にはだんだん夕暮れの色が催して来た。 五月雨 ( さみだれ ) はじめじめと 小休 ( おや ) みなく戸外では降りつづいていた。「おねえ様なおしてちょうだいよう」とか「苦しい……苦しいからお薬をください」とか「もう熱を計るのはいや」とか時々 囈言 ( うわごと ) のように言っては、葉子の手にかじりつく貞世の姿はいつ 息気 ( いき ) を引き取るかもしれないと葉子に思わせた。

 「ではもう帰りましょうか」

 倉地が岡を促すようにこういった。岡は倉地に対し葉子に対して少しの ( あいだ ) 返事をあえてするのをはばかっている様子だったが、とうとう思いきって、倉地に向かって言っていながら少し葉子に対して嘆願するような調子で、

 「わたし、きょうはなんにも用がありませんから、こちらに残らしていただいて、葉子さんのお手伝いをしたいと思いますから、お先にお帰りください」

 といった。岡はひどく意志が弱そうに見えながら一度思い入っていい出した事は、とうとう 仕畢 ( しおお ) せずにはおかない事を、葉子も倉地も今までの経験から知っていた。葉子は結局それを許すほかはないと思った。

 「じゃわしはお先するがお葉さんちょっと……」

 といって倉地は入り口のほうにしざって行った。おりから貞世はすやすやと 昏睡 ( こんすい ) に陥っていたので、葉子はそっ[#「そっ」に傍点]と自分の ( そで ) を捕えている貞世の手をほどいて、倉地のあとから病室を出た。病室を出るとすぐ葉子はもう貞世を看護している葉子ではなかった。

 葉子はすぐに倉地に引き添って肩をならべながら廊下を応接室のほうに伝って行った。

 「お前はずいぶんと疲れとるよ。用心せんといかんぜ」

 「大丈夫……こっちは大丈夫です。それにしてもあなたは……お忙しかったんでしょうね」

 たとえば自分の言葉は 稜針 ( かどばり ) で、それを倉地の心臓に ( ) み込むというような鋭い語気になってそういった。

 「全く忙しかった。あれからわしはお前の家には一度もよう行かずにいるんだ」

 そういった倉地の返事にはいかにもわだかまりがなかった。葉子の鋭い言葉にも少しも引けめを感じているふうは見えなかった。葉子でさえが危うくそれを信じようとするほどだった。しかしその瞬間に葉子は 燕返 ( つばめがえ ) しに自分に帰った。何をいいかげんな……それは 白々 ( しらじら ) しさが少し過ぎている。この十日の間に、倉地にとってはこの上もない機会の与えられた十日の間に、 杉森 ( すぎもり ) の中のさびしい家にその足跡の ( しる ) されなかったわけがあるものか。……さらぬだに、病み果て疲れ果てた頭脳に、極度の緊張を加えた葉子は、ぐらぐらとよろけた足もとが廊下の板に着いていないような 憤怒 ( ふんぬ ) に襲われた。

 応接室まで来て ( うわ ) ( ) りを脱ぐと、看護婦が 噴霧器 ( ふんむき ) を持って来て倉地の身のまわりに消毒薬を振りかけた。そのかすかなにおいがようやく葉子をはっきり[#「はっきり」に傍点]した意識に返らした。葉子の健康が一日一日といわず、一時間ごとにもどんどん弱って行くのが身にしみて知れるにつけて、倉地のどこにも批点のないような 頑丈 ( がんじょう ) な五体にも心にも、葉子はやりどころのないひがみと憎しみを感じた。倉地にとっては葉子はだんだんと用のないものになって行きつつある。絶えず何か目新しい冒険を求めているような倉地にとっては、葉子はもう散りぎわの花に過ぎない。

 看護婦がその ( へや ) を出ると、倉地は窓の所に寄って行って、 衣嚢 ( かくし ) の中から大きな 鰐皮 ( わにがわ ) のポケットブックを取り出して、拾円札のかなりの束を引き出した。葉子はそのポケットブックにもいろいろの記憶を持っていた。 竹柴館 ( たけしばかん ) で一夜を過ごしたその朝にも、その後のたびたびのあいびき[#「あいびき」に傍点]のあとの支払いにも、葉子は倉地からそのポケットブックを受け取って、ぜいたくな支払いを心持ちよくしたのだった。そしてそんな記憶はもう二度とは繰り返せそうもなく、なんとなく葉子には思えた。そんな事をさせてなるものかと思いながらも、葉子の心は妙に弱くなっていた。

 「また足らなくなったらいつでもいってよこすがいいから……おれのほうの仕事はどうもおもしろくなくなって ( ) おった。正井のやつ何か容易ならぬ 悪戯 ( わるさ ) をしおった様子もあるし、油断がならん。たびたびおれがここに来るのも考え物だて」

 紙幣を渡しながらこういって倉地は応接室を出た。かなりぬれているらしい ( くつ ) をはいて、雨水で重そうになった 洋傘 ( こうもり ) をばさ[#「ばさ」に傍点]ばさいわせながら開いて、倉地は軽い 挨拶 ( あいさつ ) を残したまま 夕闇 ( ゆうやみ ) の中に消えて行こうとした。間を置いて道わきにともされた電灯の ( ) が、ぬれた青葉をすべり落ちてぬかるみの中に ( りん ) のような光を漂わしていた。その中をだんだん南門のほうに遠ざかって行く倉地を見送っていると葉子はとてもそのままそこに居残ってはいられなくなった。

 だれの ( ) ( もの ) とも知らずそこにあった 吾妻下駄 ( あづまげた ) をつっかけて葉子は雨の中を玄関から走り出て倉地のあとを追った。そこにある広場には ( けやき ) や桜の木がまばらに立っていて、大規模な増築のための材料が、 煉瓦 ( れんが ) や石や、ところどころに積み上げてあった。東京の中央にこんな所があるかと思われるほど物さびしく静かで、街灯の光の届く所だけに白く光って斜めに雨のそそぐのがほのかに見えるばかりだった。寒いとも暑いともさらに感じなく過ごして来た葉子は、雨が 襟脚 ( えりあし ) に落ちたので初めて寒いと思った。関東に時々襲って来る時ならぬ冷え ( ) でその日もあったらしい。葉子は軽く身ぶるいしながら、いちずに倉地のあとを追った。やや十四五 ( けん ) も先にいた倉地は足音を聞きつけたと見えて立ちどまって振り返った。葉子が追いついた時には、肩はいいかげんぬれて、雨のしずくが前髪を伝って額に流れかかるまでになっていた。葉子はかすかな光にすかして、倉地が迷惑そうな顔つきで立っているのを知った。葉子はわれにもなく倉地が ( かさ ) を持つために水平に曲げたその腕にすがり付いた。

 「さっきのお金はお返しします。義理ずくで他人からしていただくんでは胸がつかえますから……」

 倉地の腕の所で葉子のすがり付いた手はぶるぶると震えた。傘からはしたたりがことさら ( しげ ) く落ちて、 単衣 ( ひとえ ) をぬけて葉子の ( はだ ) ににじみ通った。葉子は、熱病患者が冷たいものに触れた時のような不快な 悪寒 ( おかん ) を感じた。

 「お前の神経は全く少しどうかしとるぜ。おれの事を少しは思ってみてくれてもよかろうが……疑うにもひがむにもほどがあっていいはずだ。おれはこれまでにどんな 不貞腐 ( ふてくさ ) れをした。いえるならいってみろ」

 さすがに倉地も気にさえているらしく見えた。

 「いえないように 上手 ( じょうず ) 不貞腐 ( ふてくさ ) れをなさるのじゃ、いおうったっていえやしませんわね。なぜあなたははっきり[#「はっきり」に傍点]葉子にはあきた、もう用がないとおいいになれないの。男らしくもない。さ、取ってくださいましこれを」

 葉子は紙幣の束をわなわなする手先で倉地の胸の所に押しつけた。

 「そしてちゃん[#「ちゃん」に傍点]と奥さんをお呼び ( もど ) しなさいまし。それで何もかも元通りになるんだから。はばかりながら……」

 「愛子は」と口もとまでいいかけて、葉子は恐ろしさに 息気 ( いき ) を引いてしまった。倉地の 細君 ( さいくん ) の事までいったのはその夜が始めてだった。これほど 露骨 ( ろこつ ) 嫉妬 ( しっと ) の言葉は、男の心を葉子から遠ざからすばかりだと知り抜いて慎んでいたくせに、葉子はわれにもなく、がみ[#「がみ」に傍点]がみと妹の事までいってのけようとする自分にあきれてしまった。

 葉子がそこまで走り出て来たのは、別れる前にもう一度倉地の強い腕でその暖かく広い胸に抱かれたいためだったのだ。倉地に ( あく ) たれ口をきいた瞬間でも葉子の願いはそこにあった。それにもかかわらず口の上では全く反対に、倉地を自分からどんどん離れさすような事をいってのけているのだ。

 葉子の言葉が募るにつれて、倉地は人目をはばかるようにあたり[#「あたり」に傍点]を見回した。互い互いに殺し合いたいほどの執着を感じながら、それを言い現わす事も信ずる事もできず、要もない 猜疑 ( さいぎ ) と不満とにさえぎられて、見る見る路傍の人のように遠ざかって行かねばならぬ、――そのおそろしい運命を葉子はことさら痛切に感じた。倉地があたりを見回した――それだけの挙動が、機を見計らっていきなり[#「いきなり」に傍点]そこを逃げ出そうとするもののようにも思いなされた。葉子は倉地に対する 憎悪 ( ぞうお ) の心を ( せつ ) ないまでに募らしながら、ますます相手の腕に堅く寄り添った。

 しばらくの沈黙の後、倉地はいきなり[#「いきなり」に傍点] 洋傘 ( こうもり ) をそこにかなぐり捨てて、葉子の頭を右腕で巻きすくめようとした。葉子は本能的に激しくそれにさからった。そして紙幣の束をぬかるみの中にたたきつけた。そして 二人 ( ふたり ) は野獣のように争った。

 「勝手にせい……ばかっ」

 やがてそう激しくいい捨てると思うと、倉地は腕の力を急にゆるめて、 洋傘 ( こうもり ) を拾い上げるなり、あとをも向かずに南門のほうに向いてずんずんと歩き出した。憤怒と 嫉妬 ( しっと ) とに興奮しきった葉子は 躍起 ( やっき ) となってそのあとを追おうとしたが、足はしびれたように動かなかった。ただだんだん遠ざかって行く後ろ姿に対して、熱い涙がとめどなく流れ落ちるばかりだった。

 しめやかな音を立てて雨は降りつづけていた。隔離病室のある限りの窓にはかん[#「かん」に傍点]かんと ( ) がともって、白いカーテンが引いてあった。陰惨な病室にそう赤々と灯のともっているのはかえってあたりを物すさまじくして見せた。

 葉子は紙幣の束を拾い上げるほか、 ( すべ ) のないのを知って、しおしおとそれを拾い上げた。貞世の入院料はなんといってもそれで仕払うよりしようがなかったから。いいようのないくやし涙がさらにわき返った。