University of Virginia Library

    一五

 葉子はある朝思いがけなく早起きをした。米国に近づくにつれて緯度はだんだん下がって行ったので、寒気も薄らいでいたけれども、なんといっても秋立った空気は朝ごとに ( ) ( ) えと引きしまっていた。葉子は温室のような船室からこのきりっ[#「きりっ」に傍点]とした空気に触れようとして 甲板 ( かんぱん ) に出てみた。 右舷 ( うげん ) を回って左舷に出ると計らずも目の前に陸影を見つけ出して、思わず足を止めた。そこには 十日 ( とおか ) ほど念頭から絶え果てていたようなものが海面から浅くもれ上がって続いていた。葉子は好奇な目をかがやかしながら、思わず一たんとめた足を動かして 手欄 ( てすり ) に近づいてそれを見渡した。オレゴン松がすくすくと白波の激しくかみよせる岸べまで密生したバンクーバー島の低い山なみがそこにあった。物すごく底光りのするまっさおな遠洋の色は、いつのまにか乱れた波の物狂わしく立ち騒ぐ沿海の青灰色に変わって、その先に見える暗緑の樹林はどんより[#「どんより」に傍点]とした雨空の下に荒涼として横たわっていた。それはみじめな姿だった。 ( へだた ) りの遠いせいか船がいくら進んでも景色にはいささかの変化も起こらないで、荒涼たるその景色はいつまでも目の前に立ち続いていた。 古綿 ( ふるわた ) に似た薄雲をもれる朝日の光が力弱くそれを照らすたびごとに、煮え切らない影と光の変化がかすかに山と海とをなでて通るばかりだ。長い長い海洋の生活に慣れた葉子の目には陸地の印象はむしろきたないものでも見るように不愉快だった。もう三日ほどすると船はいやでもシヤトルの桟橋につながれるのだ。向こうに見えるあの陸地の続きにシヤトルはある。あの松の林が切り倒されて少しばかりの平地となった所に、ここに一つかしこに一つというように小屋が建ててあるが、その小屋の数が東に行くにつれてだんだん多くなって、しまいには一かたまりの家屋ができる。それがシヤトルであるに違いない。うらさびしく秋風の吹きわたるその小さな港町の桟橋に、野獣のような諸国の労働者が群がる所に、この小さな絵島丸が疲れきった船体を横たえる時、あの木村が例のめまぐるしい機敏さで、アメリカ ( ふう ) になり済ましたらしい物腰で、まわりの景色に ( ) り合わない景気のいい顔をして、 船梯子 ( ふなばしご ) を上って来る様子までが、葉子には見るように想像された。

 「いやだいやだ。どうしても木村と一緒になるのはいやだ。私は東京に帰ってしまおう」

 葉子はだだっ子らしく今さらそんな事を本気に考えてみたりしていた。

 水夫長と 一人 ( ひとり ) のボーイとが押し並んで、 ( くつ ) 草履 ( ぞうり ) との音をたてながらやって来た。そして葉子のそばまで来ると、葉子が振り返ったので 二人 ( ふたり ) ながら 慇懃 ( いんぎん ) に、

 「お早うございます」

 と 挨拶 ( あいさつ ) した。その様子がいかにも親しい目上に対するような態度で、ことに水夫長は、

 「御退屈でございましたろう。それでもこれであと三日になりました。今度の航海にはしかしお陰様で大助かりをしまして、ゆうべからきわだってよくなりましてね」

 と付け加えた。

 葉子は一等船客の間の話題の ( まと ) であったばかりでなく、上級船員の間のうわさの ( たね ) であったばかりでなく、この長い航海中に、いつのまにか下級船員の間にも不思議な勢力になっていた。航海の八日目かに、ある老年の水夫がフォクスルで仕事をしていた時、 ( いかり ) の鎖に足先をはさまれて骨をくじいた。プロメネード・デッキで偶然それを見つけた葉子は、船医より早くその場に駆けつけた。結びっこぶのように丸まって、痛みのためにもがき苦しむその老人のあとに引きそって、水夫 部屋 ( べや ) の入り口まではたくさんの船員や船客が物珍しそうについて来たが、そこまで行くと船員ですらが中にはいるのを 躊躇 ( ちゅうちょ ) した。どんな秘密が潜んでいるかだれも知る人のないその内部は、船中では機関室よりも危険な一区域と見なされていただけに、その入り口さえが一種人を脅かすような薄気味わるさを持っていた。葉子はしかしその老人の苦しみもがく姿を見るとそんな事は手もなく忘れてしまっていた。ひょっとすると邪魔物扱いにされてあの老人は殺されてしまうかもしれない。あんな ( とし ) までこの海上の荒々しい労働に縛られているこの人にはたよりになる縁者もいないのだろう。こんな思いやりがとめどもなく葉子の心を襲い立てるので、葉子はその老人に引きずられてでも行くようにどんどん水夫部屋の中に降りて行った。薄暗い腐敗した空気は ( ) れ上がるように人を襲って、陰の中にうよ[#「うよ」に傍点]うよとうごめく群れの中からは太く ( ) びた声が投げかわされた。 ( やみ ) に慣れた水夫たちの目はやにわに葉子の姿を引っ捕えたらしい。見る見る一種の興奮が部屋のすみずみにまでみちあふれて、それが奇怪なののしり声となって物すごく葉子に ( せま ) った。だぶだぶのズボン一つで、節くれ立った厚みのある毛胸に一糸もつけない大男は、やおら 人中 ( ひとなか ) から立ち上がると、ずかずか葉子に突きあたらんばかりにすれ違って、すれ違いざまに葉子の顔を ( あな ) のあくほどにらみつけて、聞くにたえない 雑言 ( ぞうごん ) を高々とののしって、自分の群れを笑わした。しかし葉子は死にかけた子にかしずく母のように、そんな事には目もくれずに老人のそばに引き添って、 臥安 ( ねやす ) いように寝床を取りなおしてやったり、 ( まくら ) をあてがってやったりして、なおもその場を去らなかった。そんなむさ苦しいきたない所にいて老人がほったらかしておかれるのを見ると、葉子はなんという事なしに涙があとからあとから流れてたまらなかった。葉子はそこを出て無理に船医の興録をそこに引っぱって来た。そして権威を持った人のように水夫長にはっきりしたさしずをして、始めて安心して 悠々 ( ゆうゆう ) とその部屋を出た。葉子の顔には自分のした事に対して子供のような喜びの色が浮かんでいた。水夫たちは暗い中にもそれを見のがさなかったと見える。葉子が出て行く時には 一人 ( ひとり ) として葉子に 雑言 ( ぞうごん ) をなげつけるものがいなかった。それから水夫らはだれいうとなしに葉子の事を「 姉御 ( あねご ) 姉御」と呼んでうわさするようになった。その時の事を水夫長は葉子に感謝したのだ。

 葉子はしんみにいろいろと病人の事を水夫長に聞きただした。実際水夫長に話しかけられるまでは、葉子はそんな事は思い出しもしていなかったのだ。そして水夫長に思い出させられて見ると、急にその老水夫の事が心配になり出したのだった。足はとうとう不具になったらしいが痛みはたいていなくなったと水夫長がいうと葉子は始めて安心して、また陸のほうに目をやった。水夫長とボーイとの足音は廊下のかなたに遠ざかって消えてしまった。葉子の足もとにはただかすかなエンジンの音と波が ( ふなばた ) を打つ音とが聞こえるばかりだった。

 葉子はまた自分一人の心に帰ろうとしてしばらくじっ[#「じっ」に傍点]と単調な陸地に目をやっていた。その時突然岡が立派な西洋絹の 寝衣 ( ねまき ) の上に厚い 外套 ( がいとう ) を着て葉子のほうに近づいて来たのを、葉子は視角の一端にちらりと捕えた。夜でも朝でも葉子がひとりでいると、どこでどうしてそれを知るのか、いつのまにか岡がきっと 身近 ( みぢか ) に現われるのが常なので、葉子は待ち設けていたように振り返って、朝の新しいやさしい微笑を与えてやった。

 「朝はまだずいぶん冷えますね」

 といいながら、岡は少し人になれた少女のように顔を赤くしながら葉子のそばに身を寄せた。葉子は黙ってほほえみながらその手を取って引き寄せて、互いに小さな声で軽い親しい会話を取りかわし始めた。

 と、突然岡は大きな事でも思い出した様子で、葉子の手をふりほどきながら、

 「倉地さんがね、きょうあなたにぜひ願いたい用があるっていってましたよ」

 といった。葉子は、

 「そう……」

 とごく軽く受けるつもりだったが、それが思わず 息気 ( いき ) 苦しいほどの調子になっているのに気がついた。

 「なんでしょう、わたしになんぞ用って」

 「なんだかわたしちっとも知りませんが、話をしてごらんなさい。あんなに見えているけれども親切な人ですよ」

 「まだあなただまされていらっしやるのね。あんな高慢ちきな乱暴な人わたしきらいですわ。……でも 先方 ( むこう ) で会いたいというのなら会ってあげてもいいから、ここにいらっしゃいって、あなた今すぐいらしって呼んで来てくださいましな。会いたいなら会いたいようにするがようござんすわ」

 葉子は実際激しい言葉になっていた。

 「まだ寝ていますよ」

 「いいから構わないから起こしておやりになればよござんすわ」

 岡は自分に親しい人を親しい人に近づける機会が到来したのを誇り喜ぶ様子を見せて、いそいそと駆けて行った。その後ろ姿を見ると葉子は胸に時ならぬときめき[#「ときめき」に傍点]を覚えて、 ( まゆ ) の上の所にさっ[#「さっ」に傍点]と熱い血の寄って来るのを感じた。それがまた ( いきどお ) ろしかった。

 見上げると朝の空を今まで ( おお ) うていた綿のような初秋の雲は所々ほころびて、洗いすました青空がまばゆく切れ目切れ目に輝き出していた。青灰色によごれていた雲そのものすらが見違えるように白く軽くなって美しい 笹縁 ( ささべり ) をつけていた。海は目も ( あや ) な明暗をなして、単調な島影もさすがに 頑固 ( がんこ ) な沈黙ばかりを守りつづけてはいなかった。葉子の心は ( おさ ) えよう抑えようとしても軽くはなやかにばかりなって行った。決戦……と葉子はその勇み立つ心の底で叫んだ。木村の事などはとうの昔に頭の中からこそぎ取るように消えてしまって、そのあとにはただ何とはなしに、子供らしい浮き浮きした冒険の念ばかりが働いていた。自分でも知らずにいたような weird な激しい力が、想像も及ばぬ所にぐんぐんと葉子を引きずって行くのを、葉子は恐れながらもどこまでもついて行こうとした。どんな事があっても自分がその中心になっていて、 先方 ( むこう ) をひき付けてやろう。自分をはぐらかすような事はしまいと始終張り切ってばかりいたこれまでの心持ちと、この時わくがごとく持ち上がって来た心持ちとは比べものにならなかった。あらん限りの重荷を洗いざらい思いきりよく投げすててしまって、身も心も何か大きな力に任しきるその快さ心安さは葉子をすっかり 夢心地 ( ゆめごこち ) にした。そんな心持ちの相違を比べて見る事さえできないくらいだった。葉子は子供らしい期待に目を輝かして岡の帰って来るのを待っていた。

 「だめですよ。床の中にいて戸も明けてくれずに、 寝言 ( ねごと ) みたいな事をいってるんですもの」

 といいながら岡は当惑顔で葉子のそばに現われた。

 「あなたこそだめね。ようござんすわ、わたしが自分で行って見てやるから」

 葉子にはそこにいる岡さえなかった。少し 怪訝 ( けげん ) そうに葉子のいつになくそわそわした様子を見守る青年をそこに捨ておいたまま葉子は険しく細い 階子段 ( はしごだん ) を降りた。

 事務長の 部屋 ( へや ) は機関室と狭い暗い廊下一つを隔てた所にあって、日の目を見ていた葉子には手さぐりをして歩かねばならぬほど勝手がちがっていた。地震のように機械の震動が廊下の鉄壁に伝わって来て、むせ返りそうな ( なま ) 暖かい蒸気のにおいと共に人を不愉快にした。葉子は 鋸屑 ( おがくず ) を塗りこめてざらざらと手ざわりのいやな壁をなでて進みながらようやく事務室の戸の前に来て、あたりを見回して見て、ノックもせずにいきなりハンドルをひねった。ノックをするひまもないようなせかせか[#「せかせか」に傍点]した気分になっていた。戸は音も立てずにやすやすとあいた。「戸もあけてくれずに……」との岡の言葉から、てっきり[#「てっきり」に傍点] ( かぎ ) がかかっていると思っていた葉子にはそれが意外でもあり、あたりまえにも思えた。しかしその瞬間には葉子はわれ知らずはっ[#「はっ」に傍点]となった。ただ通りすがりの人にでも見付けられまいとする心が先に立って、葉子は前後のわきまえもなく、ほとんど無意識に 部屋 ( へや ) にはいると、同時にぱたん[#「ぱたん」に傍点]と音をさせて戸をしめてしまった。

 もうすべては後悔にはおそすぎた。岡の声で今寝床から起き上がったらしい事務長は、荒い 棒縞 ( ぼうじま ) のネルの 筒袖 ( つつそで ) 一枚を着たままで、目のはれぼったい顔をして、小山のような大きな五体を寝床にくねらして、突然はいって来た葉子をぎっ[#「ぎっ」に傍点]と見守っていた。とうの昔に心の中は見とおしきっているような、それでいて言葉もろくろくかわさないほどに 無頓着 ( むとんじゃく ) に見える男の前に立って、葉子はさすがにしばらくはいい ( ) づべき言葉もなかった。あせる気を押し ( しず ) め押ししずめ、顔色を動かさないだけの沈着を持ち続けようとつとめたが、今までに覚えない惑乱のために、頭はぐら[#「ぐら」に傍点]ぐらとなって、無意味だと自分でさえ思われるような微笑をもらす愚かさをどうする事もできなかった。倉地は葉子がその朝その 部屋 ( へや ) に来るのを前からちゃん[#「ちゃん」に傍点]と知り抜いてでもいたように落ち付き払って、朝の 挨拶 ( あいさつ ) もせずに、

 「さ、おかけなさい。ここが ( らく ) だ」

 といつものとおりな少し見おろした親しみのある言葉をかけて、昼間は 長椅子 ( ながいす ) がわりに使う寝台の座を少し譲って待っている。葉子は敵意を含んでさえ見える様子で立ったまま、

 「何か御用がおありになるそうでございますが……」

 固くなりながらいって、あゝまた見えすく事をいってしまったとすぐ後悔した。事務長は葉子の言葉を追いかけるように、

 「用はあとでいいます。まあおかけなさい」

 といってすましていた。その言葉を聞くと、葉子はそのいいなり放題になるよりしかたがなかった。「お前は結局はここにすわるようになるんだよ」と事務長は言葉の裏に未来を予知しきっているのが葉子の心を一種捨てばちなものにした。「すわってやるものか」という習慣的な男に対する反抗心はただわけもなくひしがれていた。葉子はつか[#「つか」に傍点]つかと進みよって事務長と押し並んで寝台に腰かけてしまった。

 この一つの挙動が――このなんでもない一つの挙動が急に葉子の心を軽くしてくれた。葉子はその瞬間に大急ぎで今まで失いかけていたものを自分のほうにたぐり ( もど ) した。そして事務長を流し目に見やって、ちょっとほほえんだその微笑には、さっきの微笑の愚かしさが潜んでいないのを信ずる事ができた。葉子の性格の深みからわき出るおそろしい自然さがまとまった姿を現わし始めた。

 「何御用でいらっしゃいます」

 そのわざとらしい造り声の中にかすかな親しみをこめて見せた言葉も、肉感的に厚みを帯びた、それでいて ( さか ) しげに締まりのいい二つの口びるにふさわしいものとなっていた。

 「きょう船が検疫所に着くんです、きょうの午後に。ところが検疫医がこれなんだ」

 事務長は 朋輩 ( ほうばい ) にでも打ち明けるように、大きな食指を 鍵形 ( かぎがた ) にまげて、たぐるような格好をして見せた。葉子がちょっと判じかねた顔つきをしていると、

 「だから飲ましてやらんならんのですよ。それからポーカーにも負けてやらんならん。美人がいれば拝ましてもやらんならん」

 となお手まねを続けながら、事務長は ( まくら ) もとにおいてある 頑固 ( がんこ ) なパイプを取り上げて、指の先で灰を押しつけて、吸い残りの 煙草 ( たばこ ) に火をつけた。

 「船をさえ見ればそうした 悪戯 ( わるさ ) をしおるんだから、海 坊主 ( ぼうず ) を見るようなやつです。そういうと頭のつるり[#「つるり」に傍点]とした 水母 ( くらげ ) じみた入道らしいが、実際は元気のいい意気な若い医者でね。おもしろいやつだ。一つ会ってごらん。わたしでからがあんな所に年じゅう置かれればああなるわさ」

 といって、右手に持ったパイプを ( ひざ ) がしらに置き添えて、向き直ってまともに葉子を見た。しかしその時葉子は倉地の言葉にはそれほど注意を払ってはいない様子を見せていた。ちょうど葉子の向こう側にある事務テーブルの上に飾られた何枚かの写真を物珍しそうにながめやって、右手の指先を軽く器用に動かしながら、 煙草 ( たばこ ) の煙が紫色に顔をかすめるのを払っていた。自分を ( おとり ) にまで使おうとする無礼もあなたなればこそなんともいわずにいるのだという心を事務長もさすがに ( すい ) したらしい。しかしそれにも係わらず事務長は言いわけ一ついわず、いっこう平気なもので、きれいな飾り紙のついた 金口 ( きんぐち ) 煙草の小箱を手を延ばして ( たな ) から取り上げながら、

 「どうです一本」

 と葉子の前にさし出した。葉子は自分が煙草をのむかのまぬかの問題をはじき飛ばすように、

 「あれはどなた?」と写真の一つに目を定めた。

 「どれ」

 「あれ」葉子はそういったままで指さしはしない。

 「どれ」と事務長はもう一度いって、葉子の大きな目をまじまじと見入ってからその視線をたどって、しばらく写真を見分けていたが、

 「はああれか。あれはねわたしの妻子ですんだ。 荊妻 ( けいさい ) 豚児 ( とんじ ) どもですよ」

 といって高々と笑いかけたが、ふと笑いやんで、険しい目で葉子をちらっと見た。

 「まあそう。ちゃんとお写真をお飾りなすって、おやさしゅうござんすわね」

 葉子はしんなり[#「しんなり」に傍点]と立ち上がってその写真の前に行った。物珍しいものを見るという様子をしてはいたけれども、心の中には自分の敵がどんな 獣物 ( けだもの ) であるかを見きわめてやるぞという激しい 敵愾心 ( てきがいしん ) が急に燃えあがっていた。前には芸者ででもあったのか、それとも 良人 ( おっと ) の心を迎えるためにそう造ったのか、どこか 玄人 ( くろうと ) じみたきれいな 丸髷 ( まるまげ ) の女が着飾って、三人の少女を ( ひざ ) に抱いたりそばに立たせたりして写っていた。葉子はそれを取り上げて ( あな ) のあくほどじっ[#「じっ」に傍点]と見やりながらテーブルの前に立っていた。ぎこちない沈黙がしばらくそこに続いた。

 「お葉さん」(事務長は始めて葉子をその姓で呼ばずにこう呼びかけた)突然震えを帯びた、低い、重い声が焼きつくように耳近く聞こえたと思うと、葉子は倉地の大きな胸と太い腕とで身動きもできないように抱きすくめられていた。もとより葉子はその朝倉地が野獣のような assault に出る事を直覚的に覚悟して、むしろそれを期待して、その assault を、心ばかりでなく、肉体的な好奇心をもって待ち受けていたのだったが、かくまで突然、なんの前ぶれもなく起こって来ようとは思いも設けなかったので、女の本然の 羞恥 ( しゅうち ) から起こる貞操の防衛に駆られて、熱しきったような冷えきったような血を一時に体内に感じながら、かかえられたまま、 侮蔑 ( ぶべつ ) をきわめた表情を二つの目に集めて、倉地の顔を斜めに見返した。その冷ややかな目の光は 仮初 ( かりそ ) めの男の心をたじろがすはずだった。事務長の顔は振り返った葉子の顔に 息気 ( いき ) のかかるほどの近さで、葉子を見入っていたが、葉子が与えた冷酷なひとみには目もくれぬまで狂わしく熱していた。(葉子の感情を最も強くあおり立てるものは寝床を離れた朝の男の顔だった。一夜の休息にすべての精気を充分回復した健康な男の 容貌 ( ようぼう ) の中には、女の持つすべてのものを投げ入れても惜しくないと思うほどの力がこもっていると葉子は始終感ずるのだった)葉子は倉地に存分な軽侮の心持ちを見せつけながらも、その顔を鼻の先に見ると、男性というものの強烈な 牽引 ( けんいん ) の力を打ち込まれるように感ぜずにはいられなかった。 息気 ( いき ) せわしく吐く男のため息は ( あられ ) のように葉子の顔を打った。火と燃え上がらんばかりに男のからだからは desire の ( ほむら ) がぐんぐん葉子の血脈にまで広がって行った。葉子はわれにもなく異常な興奮にがたがた震え始めた。

    ×    ×    ×

 ふと倉地の手がゆるんだので葉子は切って落とされたようにふらふらとよろけながら、危うく踏みとどまって目を開くと、倉地が 部屋 ( へや ) の戸に ( かぎ ) をかけようとしているところだった。鍵が合わないので、

 「 ( くそ ) っ」

 と後ろ向きになってつぶやく倉地の声が最後の宣告のように絶望的に低く部屋の中に響いた。

 倉地から離れた葉子はさながら母から離れた赤子のように、すべての力が急にどこかに消えてしまうのを感じた。あとに残るものとては底のない、たよりない悲哀ばかりだった。今まで味わって来たすべての悲哀よりもさらに残酷な悲哀が、葉子の胸をかきむしって襲って来た。それは倉地のそこにいるのすら忘れさすくらいだった。葉子はいきなり寝床の上に丸まって倒れた。そしてうつぶしになったまま 痙攣的 ( けいれんてき ) に激しく泣き出した。倉地がその泣き声にちょっとためらって立ったまま見ている間に、葉子は心の中で叫びに叫んだ。

 「殺すなら殺すがいい。殺されたっていい。殺されたって憎みつづけてやるからいい。わたしは勝った。なんといっても勝った。こんなに悲しいのをなぜ早く殺してはくれないのだ。この ( かな ) しみにいつまでもひたっていたい。早く死んでしまいたい。……」