る女
有島武郎 (Aru onna) | ||
一三
そこだけは星が光っていないので、雲のある所がようやく知れるぐらい思いきって暗い夜だった。おっかぶさって来るかと見上くれば、目のまわるほど遠のいて見え、遠いと思って見れば、今にも頭を包みそうに近く 逼 ( せま ) ってる 鋼色 ( はがねいろ ) の沈黙した大空が、際限もない羽をたれたように、同じ暗色の海原に続く所から波がわいて、 闇 ( やみ ) の中をのたうちまろびながら、見渡す限りわめき騒いでいる。耳を澄まして聞いていると、水と水とが激しくぶつかり合う底のほうに、
「おーい、おい、おい、おーい」
というかと思われる声ともつかない一種の奇怪な響きが、 舷 ( ふなべり ) をめぐって叫ばれていた。葉子は前後左右に大きく傾く甲板の上を、傾くままに身を斜めにしてからく重心を取りながら、よろけよろけブリッジに近いハッチの物陰までたどりついて、ショールで深々と首から下を巻いて、白ペンキで塗った板囲いに身を寄せかけて立った、たたずんだ所は 風下 ( かざしも ) になっているが、頭の上では、 檣 ( ほばしら ) からたれ下がった 索綱 ( さくこう ) の類が風にしなってうなり[#「うなり」に傍点]を立て、アリュウシャン群島近い高緯度の空気は、九月の末とは思われぬほど寒く霜を含んでいた。気負いに気負った葉子の肉体はしかしさして寒いとは思わなかった。寒いとしてもむしろ快い寒さだった。もうどんどんと冷えて行く着物の裏に、心臓のはげしい鼓動につれて、 乳房 ( ちぶさ ) が冷たく触れたり離れたりするのが、なやましい気分を誘い出したりした。それにたたずんでいるのに足が 爪先 ( つまさき ) からだんだんに冷えて行って、やがて 膝 ( ひざ ) から下は知覚を失い始めたので、気分は妙に 上 ( うわ ) ずって来て、葉子の幼い時からの癖である夢ともうつつとも知れない音楽的な錯覚に陥って行った。五体も心も不思議な熱を覚えながら、一種のリズムの中に揺り動かされるようになって行った。何を見るともなく凝然と見定めた目の前に、無数の星が船の動揺につれて光のまたたきをしながら、ゆるいテンポをととのえてゆらりゆらりと静かにおどると、帆綱のうなりが張り切ったバスの声となり、その間を「おーい、おい、おい、おーい……」と心の声とも波のうめき[#「うめき」に傍点]ともわからぬトレモロが流れ、盛り上がり、くずれこむ波また波がテノルの役目を勤めた。声が形となり、形が声となり、それから一緒にもつれ合う姿を葉子は目で聞いたり耳で見たりしていた。なんのために 夜寒 ( よさむ ) を甲板に出て来たか葉子は忘れていた。夢遊病者のように葉子はまっしぐらにこの不思議な世界に落ちこんで行った。それでいて、葉子の心の一部分はいたましいほど 醒 ( さ ) めきっていた。葉子は 燕 ( つばめ ) のようにその音楽的な夢幻界を 翔 ( か ) け上がりくぐりぬけてさまざまな事を考えていた。
屈辱、屈辱……屈辱――思索の壁は屈辱というちかちかと寒く光る色で、いちめんに塗りつぶされていた。その表面に田川夫人や事務長や田川博士の姿が目まぐるしく音律に乗って動いた。葉子はうるさそうに頭の中にある手のようなもので 無性 ( むしょう ) に払いのけようと試みたがむだだった。皮肉な横目をつかって青味を帯びた田川夫人の顔が、かき乱された水の中を、小さな 泡 ( あわ ) が逃げてでも行くように、ふらふらとゆらめきながら上のほうに遠ざかって行った。まずよかったと思うと、事務長の insolent な目つきが低い調子の伴音となって、じっ[#「じっ」に傍点]と動かない中にも力ある震動をしながら、葉子の 眼睛 ( ひとみ ) の奥を網膜まで見とおすほどぎゅっ[#「ぎゅっ」に傍点]と見すえていた。「なんで事務長や田川夫人なんぞがこんなに自分をわずらわすだろう。憎らしい。なんの 因縁 ( いんねん ) で……」葉子は自分をこう卑しみながらも、男の目を迎え慣れた 媚 ( こ ) びの色を知らず知らず 上 ( うわ ) まぶたに集めて、それに応じようとする途端、日に向かって目を閉じた時に 綾 ( あや ) をなして乱れ飛ぶあの不思議な種々な色の光体、それに似たものが 繚乱 ( りょうらん ) として心を取り囲んだ。星はゆるいテンポでゆらりゆらりと静かにおどっている。「おーい、おい、おい、おーい」……葉子は思わずかっ[#「かっ」に傍点]と腹を立てた。その憤りの膜の中にすべての幻影はすーっと吸い取られてしまった。と思うとその憤りすらが見る見るぼやけて、あとには感激のさらにない死のような世界が果てしもなくどんより[#「どんより」に傍点]とよどんだ。葉子はしばらくは気が遠くなって何事もわきまえないでいた。
やがて葉子はまたおもむろに意識の 閾 ( しきい ) に近づいて来ていた。
煙突の中の黒い 煤 ( すす ) の間を、横すじかいに休らいながら飛びながら、 上 ( のぼ ) って行く火の子のように、葉子の幻想は暗い記憶の 洞穴 ( ほらあな ) の中を右左によろめきながら奥深くたどって行くのだった。自分でさえ驚くばかり底の底にまた底のある迷路を恐る恐る伝って行くと、果てしもなく現われ出る人の顔のいちばん奥に、赤い着物を 裾長 ( すそなが ) に着て、まばゆいほどに輝き渡った男の姿が見え出した。葉子の心の周囲にそれまで響いていた音楽は、その瞬間ぱったり[#「ぱったり」に傍点]静まってしまって、耳の底がかーん[#「かーん」に傍点]とするほど空恐ろしい 寂莫 ( せきばく ) の中に、船の 舳 ( へさき ) のほうで氷をたたき 破 ( わ ) るような寒い 時鐘 ( ときがね ) の音が聞こえた。「カンカン、カンカン、カーン」……。葉子は 何時 ( なんじ ) の鐘だと考えてみる事もしないで、そこに現われた男の顔を見分けようとしたが、木村に似た 容貌 ( ようぼう ) がおぼろに浮かんで来るだけで、どう見直して見てもはっきり[#「はっきり」に傍点]した事はもどかしいほどわからなかった。木村であるはずはないんだがと葉子はいらいらしながら思った。「木村はわたしの 良人 ( おっと ) ではないか。その木村が赤い着物を着ているという法があるものか。……かわいそうに、木村はサン・フランシスコから今ごろはシヤトルのほうに来て、私の着くのを一日千秋の思いで待っているだろうに、わたしはこんな事をしてここで赤い着物を着た男なんぞを見つめている。千秋の思いで待つ? それはそうだろう。けれどもわたしが木村の妻になってしまったが最後、千秋の思いでわたしを待ったりした木村がどんな 良人 ( おっと ) に変わるかは知れきっている。憎いのは男だ……木村でも倉地でも……また事務長なんぞを思い出している。そうだ、米国に着いたらもう少し落ち着いて考えた生きかたをしよう。木村だって打てば響くくらいはする男だ。……あっちに行ってまとまった金ができたら、なんといってもかまわない、定子を呼び寄せてやる。あ、定子の事なら木村は承知の上だったのに。それにしても木村が赤い着物などを着ているのはあんまりおかしい……」ふと葉子はもう一度赤い着物の男を見た。事務長の顔が赤い着物の上に似合わしく乗っていた。葉子はぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]とした。そしてその顔をもっとはっきり[#「はっきり」に傍点]見つめたいために重い重いまぶたをしいて押し開く努力をした。
見ると葉子の前にはまさしく、角燈を持って 焦茶色 ( こげちゃいろ ) のマントを着た事務長が立っていた。そして、
「どうなさったんだ今ごろこんな所に、……今夜はどうかしている…… 岡 ( おか ) さん、あなたの仲間がもう 一人 ( ひとり ) ここにいますよ」
といいながら事務長は魂を得たように動き始めて、後ろのほうを振り返った。事務長の後ろには、食堂で葉子と一目顔を見合わすと、震えんばかりに興奮して顔を 得 ( え ) 上げないでいた上品なかの青年が、まっさおな顔をして物におじたようにつつましく立っていた。
目はまざまざと開いていたけれども葉子はまだ 夢心地 ( ゆめごこち ) だった。事務長のいるのに気づいた瞬間からまた聞こえ出した 波濤 ( はとう ) の音は、前のように音楽的な所は少しもなく、ただ物狂おしい騒音となって船に迫っていた。しかし葉子は今の境界がほんとうに現実の境界なのか、さっき不思議な音楽的の錯覚にひたっていた境界が夢幻の中の境界なのか、自分ながら少しも見さかいがつかないくらいぼんやりしていた。そしてあの 荒唐 ( こうとう ) な奇怪な心の adventure をかえってまざまざとした現実の出来事でもあるかのように思いなして、目の前に見る酒に赤らんだ事務長の顔は妙に 蠱惑的 ( こわくてき ) な気味の悪い幻像となって、葉子を脅かそうとした。
「少し飲み過ぎたところにためといた仕事を詰めてやったんで眠れん。で散歩のつもりで 甲板 ( かんぱん ) の見回りに出ると岡さん」
といいながらもう一度後ろに振り返って、
「この岡さんがこの寒いに 手欄 ( てすり ) からからだを乗り出してぽかん[#「ぽかん」に傍点]と海を見とるんです。取り押えてケビンに連れて行こうと思うとると、今度はあなたに出っくわす。物好きもあったもんですねえ。海をながめて何がおもしろいかな。お寒かありませんか、ショールなんぞも落ちてしまった」
どこの国なまりともわからぬ一種の調子が塩さびた声であやつられるのが、事務長の人となりによくそぐって聞こえる。葉子はそんな事を思いながら事務長の言葉を聞き終わると、始めてはっきり[#「はっきり」に傍点]目がさめたように思った。そして簡単に、
「いゝえ」
と答えながら 上目 ( うわめ ) づかいに、夢の中からでも人を見るようにうっとり[#「うっとり」に傍点]と事務長のしぶとそうな顔を見やった。そしてそのまま黙っていた。
事務長は例の insolent な目つきで葉子を一目に見くるめながら、
「若い 方 ( かた ) は世話が焼ける……さあ行きましょう」
と強い語調でいって、からからと 傍若無人 ( ぼうじゃくぶじん ) に笑いながら葉子をせき立てた。海の波の荒涼たるおめきの中に聞くこの笑い声は diabolic なものだった。「若い 方 ( かた ) 」……老成ぶった事をいうと葉子は思ったけれども、しかし事務長にはそんな事をいう権利でもあるかのように葉子は皮肉な 竹篦返 ( しっぺがえ ) しもせずに、おとなしくショールを拾い上げて事務長のいうままにそのあとに続こうとして驚いた。ところが長い間そこにたたずんでいたものと見えて、 磁石 ( じしゃく ) で吸い付けられたように、両足は固く重くなって一 寸 ( すん ) も動きそうにはなかった。寒気のために感覚の 痲痺 ( まひ ) しかかった 膝 ( ひざ ) の関節はしいて曲げようとすると、筋を 絶 ( た ) つほどの痛みを覚えた。不用意に歩き出そうとした葉子は、思わずのめり出さした上体をからく後ろにささえて、情けなげに立ちすくみながら、
「ま、ちょっと」
と呼びかけた。事務長の後ろに続こうとした岡と呼ばれた青年はこれを聞くといち早く足を止めて葉子のほうを振り向いた。
「始めてお知り合いになったばかりですのに、すぐお心安だてをしてほんとうになんでございますが、ちょっとお肩を貸していただけませんでしょうか。なんですか足の先が凍ったようになってしまって……」
と葉子は美しく顔をしかめて見せた。岡はそれらの言葉が 拳 ( こぶし ) となって続けさまに胸を打つとでもいったように、しばらくの間どぎまぎ 躊躇 ( ちゅうちょ ) していたが、やがて思い切ったふうで、黙ったまま引き返して来た。身のたけも肩幅も葉子とそう違わないほどな 華車 ( きゃしゃ ) なからだをわなわなと震わせているのが、肩に手をかけないうちからよく知れた。事務長は振り向きもしないで、 靴 ( くつ ) のかかとをこつこつと鳴らしながら早二三 間 ( げん ) のかなたに遠ざかっていた。
鋭敏な馬の皮膚のようにだちだちと震える青年の肩におぶいかかりながら、葉子は黒い大きな事務長の後ろ姿を 仇 ( あだ ) かたきでもあるかのように鋭く見つめてそろそろと歩いた。西洋酒の 芳醇 ( ほうじゅん ) な甘い酒の香が、まだ酔いからさめきらない事務長の身のまわりを毒々しい 靄 ( もや ) となって取り巻いていた。放縦という事務長の 心 ( しん ) の臓は、今不用心に開かれている。あの 無頓着 ( むとんじゃく ) そうな肩のゆすりの陰にすさまじい desire の火が激しく燃えているはずである。葉子は禁断の木の実を始めてくいかいだ原人のような渇欲をわれにもなくあおりたてて、事務長の心の裏をひっくり返して縫い目を見窮めようとばかりしていた。おまけに青年の肩に置いた葉子の手は、 華車 ( きゃしゃ ) とはいいながら、男性的な強い弾力を持つ筋肉の震えをまざまざと感ずるので、これらの 二人 ( ふたり ) の男が与える奇怪な刺激はほしいままにからまりあって、恐ろしい心を葉子に起こさせた。木村……何をうるさい、よけいな事はいわずと黙って見ているがいい。心の中をひらめき過ぎる断片的な影を葉子は枯れ葉のように払いのけながら、目の前に見る 蠱惑 ( こわく ) におぼれて行こうとのみした。口から 喉 ( のど ) はあえぎたいほどにひからびて、岡の肩に乗せた手は、生理的な作用から冷たく堅くなっていた。そして熱をこめてうるんだ目を見張って、事務長の後ろ姿ばかりを見つめながら、五体はふらふらとたわいもなく岡のほうによりそった。吐き出す 気息 ( いき ) は燃え立って岡の横顔をなでた。事務長は油断なく角燈で左右を照らしながら甲板の 整頓 ( せいとん ) に気を配って歩いている。
葉子はいたわるように岡の耳に口をよせて、
「あなたはどちらまで」
と聞いてみた。その声はいつものように澄んではいなかった。そして気を許した女からばかり聞かれるような甘たるい親しさがこもっていた。岡の肩は感激のために 一入 ( ひとしお ) 震えた。 頓 ( とみ ) には返事もし得ないでいたようだったが、やがて 臆病 ( おくびょう ) そうに、
「あなたは」
とだけ聞き返して、熱心に葉子の返事を待つらしかった。
「シカゴまで参るつもりですの」
「僕も……わたしもそうです」
岡は待ち設けたように声を震わしながらきっぱり[#「きっぱり」に傍点]と答えた。
「シカゴの大学にでもいらっしゃいますの」
岡は非常にあわてたようだった。なんと返事をしたものか恐ろしくためらうふうだったが、やがてあいまいに口の中で、
「えゝ」
とだけつぶやいて黙ってしまった。そのおぼこさ……葉子は 闇 ( やみ ) の中で目をかがやかしてほほえんだ。そして岡をあわれんだ。
しかし青年をあわれむと同時に葉子の目は稲妻のように事務長の後ろ姿を斜めにかすめた。青年をあわれむ自分は事務長にあわれまれているのではないか。始終一歩ずつ 上手 ( うわて ) を行くような事務長が一種の憎しみをもってながめやられた。かつて味わった事のないこの憎しみの心を葉子はどうする事もできなかった。
二人 ( ふたり ) に別れて自分の船室に帰った葉子はほとんど delirium の状態にあった。 眼睛 ( ひとみ ) は大きく開いたままで、 盲目 ( めくら ) 同様に 部屋 ( へや ) の中の物を見る事をしなかった。冷えきった手先はおどおどと両の 袂 ( たもと ) をつかんだり離したりしていた。葉子は夢中でショールとボアとをかなぐり捨て、もどかしげに帯だけほどくと、髪も解かずに寝台の上に倒れかかって、横になったまま羽根 枕 ( まくら ) を両手でひし[#「ひし」に傍点]と抱いて顔を伏せた。なぜと知らぬ涙がその時 堰 ( せき ) を切ったように流れ出した。そして涙はあとからあとからみなぎるようにシーツを 湿 ( うるお ) しながら、充血した口びるは恐ろしい笑いをたたえてわなわなと震えていた。
一時間ほどそうしているうちに泣き疲れに疲れて、葉子はかけるものもかけずにそのまま深い眠りに陥って行った。けばけばしい電燈の光はその翌日の朝までこのなまめかしくもふしだらな葉子の 丸寝姿 ( まるねすがた ) を 画 ( か ) いたように照らしていた。
る女
有島武郎 (Aru onna) | ||